選択肢など無い
二作目です。
視点変更、流血描写、胸糞有り。苦手な方はブラウザバックをお願い致します。
「平穏とは得難く脆いものよ。一つの綻びもなく築き、作り続けていかなければ容易く手の平から零れ落ちてしまうの」
『貴女』はそう言い、手入れされたお姫様のような指を『私』の頬にすべらせて。
後には二度と使われなくなるその名を紡ぐ。
「だから……『 』――平穏を構築し継続させる為の、歯車の一つになって頂戴」
答えは一つしかなかった。
✵✵✵
「ブリジット! 貴様、またもユーニィとジェナをいじめたな!!」
学園の廊下に怒声が響き渡る。
ブリジットと呼ばれた少女は背後から発せられたその声に振り返り端麗な眉をやや顰めながらも、一瞬後には品の良い取り澄ました貌で返事をした。
「ごきげんよう、テオドール殿下。いじめた、とは何の事です?」
「白々しい! 取り巻きを使って、ここにいるユーニィとジェナの教科書を破り、呼び出して暴言を吐き、あまつさえユーニィを中庭の噴水に突き飛ばし、ジェナには男子生徒を使って暴行を働こうとしたではないか!」
捲し立てるテオドール第一王子は現在、公爵令嬢たるブリジットと婚約している。だが王子の両側には、当人でない二人の女子生徒が侍っていた。
一人は男爵家の血縁で、半年前に養女となった令嬢、ユーニィ。
今一人は平民の特待生、ジェナ。
ユーニィ嬢はふわふわとしたピンクの髪、空色の大きな垂れ目を持つ美少女。豊満な胸を押し付けるように王子に密着し、大きな瞳を潤ませ「一言謝って下されば良いんですぅ!」などと訴えているが、その奥には揶揄するような感情がのぞいている。
平民のジェナ嬢は、ブルネットの髪に茶眼、と色合いこそ地味だが、こちらもまた豊かな胸を持つ美少女である。王子からやや間を空け、困ったように眉を垂らすその姿は一見慎ましやかに見えるものの、それでも離れる様子もなく寄り添っていた。
「身に覚えのない罪状ばかりですわね。証拠はございますの?」
「次期王太子であるこの私が言っているのだぞ、疑うのか!?」
「発言は慎重になされませ。王太子は国王陛下が指名なされます。テオドール殿下はまだ『第一王子』でしてよ?」
「なんだと貴様!?」
「そんな言い方ひどいですよぉ、ブリジット様ぁ!」
ユーニィ嬢も加わり廊下は一層、喧しくなった。
学園内で常に繰り広げられる光景に、生徒の大半はいつもの事だとして通り過ぎ、一部は良い見世物として遠巻きに眺めている。
常に、は正しくない。ここ最近――件の四名が入学してからここ三ヶ月程の事だ。
かねてより不仲が囁かれていたテオドール第一王子とブリジット公爵令嬢の間に、ユーニィ嬢が割って入った。出会いはユーニィ嬢が王子の目の前で転んだのがきっかけ、と偶然だったそうだが、二人はたちまち意気投合し距離を縮めたのだ。
ではジェナ嬢といえば、近付いたのは王子の方からだ。しかし平民ゆえに断れないのかと思いきやそんな素振りもなく、王子の望むまま行動を共にするようになった。
片や男爵令嬢で愛らしく天真爛漫、片や平民の特待生で大人しく控えめ、と系統こそ異なるものの、どちらも柔らかい顔立ちと女性らしい体つきをしている。
つまりは二人がテオドール王子の好みであったと、そういう事だ。この国では、王に限り一夫多妻が認められていた。婚姻して一年経っても正妃が懐妊する気配がなければ、側妃、或いは愛妾を娶れる。
故に一部の生徒や貴族達の中では、ユーニィ嬢が側妃、ジェナ嬢が愛妾に据えられるのではと早くも噂されている。男爵家のユーニィ嬢では側妃とするに身分が足りないが、高位貴族の養女になれば問題ない。
ブリジットにとっては大差なく悪辣。――テオドール王子も含め。
テオドール王子は学業に剣術、教養に至るまで今ひとつ奮わず、気性も尊大。金髪碧眼の容姿こそ優れているが、4歳下の弟王子の方が優秀で支持する声が多い。
しかしテオドールはブリジットと同じ16歳で第一王子、弟王子より王位継承権が高いからと父が婚約を決めてしまい、渋々ながら従ったというのに。
相手は未だ王太子に非ず。その上、ブリジットとは白い結婚になると予想する者すらいるのだ。
あまりにも癪に障る。果ては事実を調べもせず言い掛かりをつけてくる始末。
ブリジットは確かに、取り巻き達に二人の令嬢について少しは不満を漏らした事もあるが、明らさまに「やれ」と命じた訳ではないし直接手を下した訳でもない。
更に言えば彼女達が動いたのは単なる忖度で、多少の被害はあったやもしれないが、軽微だったり未遂だったりと大した事がないではないか。責められる謂れはないとブリジットは思っている。
――ああ、目障り。
「……お二人は王子殿下と今も 仲が宜しいようね」
王子はさんざん喚いてから、ユーニィ嬢とジェナ嬢を伴い去って行く。
遠ざかる後ろ姿を眺めながらそっと囁けば、背後に控える数人の取り巻きの令嬢達はすぐさま反応を返した。
「本当に忌々しい。弁えていらっしゃらない方々ですこと」
「あれほど『忠告』して差し上げたというのに、どんな神経をしているのでしょう」
「ブリジット様。先日とある商家が『外国の珍しい品』を輸入したと耳に挟みましたわ」
中の一人がブリジットの望む情報をそっと口にする。
「食事やお菓子などのスパイスとして用いると、とても『お腹がすっきり』するのですって」
「まあ……」
ブリジットは扇で口元を覆い隠しながら、両目を眇めた。公爵家令嬢たるもの国内外の情報に通じていて当然。その令嬢が示すのは『下剤』なる異国の薬だろう。面白い。
「ふふ。敵に塩を贈る、という言葉もありますものね。ああでも。平民にはせっかくだから『人生で二度と』食べれない程の美味しいお菓子の方が宜しいのではなくて?」
勿論、言動には細心の注意を払うが、それだけで彼女達は意図を汲む。「それは妙案ですわ」「下々に慈悲を示すのも貴族の義務ですものね」と囁きながらクスクスと嗤った。
そう、これは慈悲だ。男爵家の令嬢や平民如きが高位貴族、それも公爵家の自分を侮ればどうなるか、教授してやるという。
あの二人に何かあれば短絡的な王子はまたも自分に絡んで来るだろうが、取り巻きにはそこそこの有能令嬢ばかりを選んでいる。抜かりはないはず。よしんば証拠を掴まれても手を下したのは『その令嬢』なので切って捨てれば良いだけの話。
まあ、あの王子には物証を集める概念すら無いだろう。
ブリジットは扇の下で、取り巻き達と同じ冷笑を刻んだ。
✵✵✵
数日後。
ユーニィが一人で中庭を歩いていると、見覚えのある連中を目にし小さく舌打ちした。
先程ユーニィに気持ち悪い笑顔で『外国産のお菓子』を押し付けてきた連中。ブリジット嬢の取り巻き達だ。
「わたくしの不注意でぶつかりあなたが噴水に落ちた詫び」との事だが何が不注意だ。思いきり突き飛ばしてくれたろうが、と心の中で毒づく。
まあ、王子に取り入るのが成功し、奴らの悔しがる様は中々良い憂さ晴らしだったけど。
それはさておき。
ユーニィは腰丈の生垣に隠れ令嬢方の様子を窺う。取り巻き連中に囲まれ、困ったようにオロオロしているのは、ジェナであった。
その手には、ユーニィが押し付けられた物とよく似た梱包の箱。
「今までのお詫びよ。宜しければ受け取って貰えないかしら」
「そうそう、できればここで食べて頂けない? 外国の珍しいお菓子だから平民のお口に合うか心配なの」
「え、あの……でも……」
「あら、貴族からの贈り物がお気に召さないのかしら?」
ブリジット嬢の取り巻きは全員が伯爵家以上の子女だ。この国は平民も官僚になれるなどの政策を取り入れているものの、まだまだ身分思想が強い。
この学園には平民も特待生として入学する事が可能だが『平民の中ではそこそこ勉学ができる』程度のもので、幼い頃から教育を受ける貴族とは知識量に差があり、身分社会での振る舞いでも太刀打ちできない。
ジェナは、これまで自分を虐げてきた相手にいきなり友好的な様子を見せられ多少は怪しんだようだ。しかし断る事もできないと悟ったのか、恐る恐る貰った箱の中身――クッキーを一枚食べ、「美味しいです」とぎこちなく微笑んだ。
あーあ、とユーニィは思う。
取り巻き達の顔を見なよ、してやったり、な顔。
恐らく、毒だ。
ただ学園内で倒れるような即効性のあるモノは流石に使うまい。遅効性。経口摂取してからおよそ五時間後、心の臓に届く――確かそんな麻痺毒がこの国に流入していたはず。
今食べたとすると、効果が出るのは学園から家に帰って少し後。死因は突然の心臓発作にしか見えないだろう。平民の死体をいちいち調べる医者や検察はいない。
あの公爵令嬢は、まずジェナの排除に取り掛かった模様。高位貴族の対応としては当然だ。目障りな小虫を野放しにしておく理由もない。早々に潰すが吉。
しかしユーニィに『こんなモノ』を寄越す時点で甘い。自分も取り巻き令嬢の前で食べさせられたが、味覚で何の薬が含まれてるか大体分かる。これも最近この国に入り、闇商人の間で出回っている強力な下剤だ。
ジェナに渡した毒と違うのは即効性である事。学園内でありえぬ粗相をすれば貴族としても女性としても終わりだろう。中々に陰湿で効果は高い。
――ま、あたしには効かないけど?
市場に出回る程度の毒や薬物の類には慣らしている。
流石に禁薬ほどの毒を使われたら不味かったが、そこは男爵令嬢の身分が盾になった。いくら低位とはいえ貴族が不審死を遂げれば調査される。あの公爵令嬢や取り巻き達は、それを懸念したらしい。
そう、今のユーニィは貴族だ。だからこそ婚約者有りの第一王子に侍っても身の安全は最低限、保障される。
おかしいのはジェナだ。平民の分際でよく王子と関わる気になったものである。いや、先に関わったのは王子の方か。しかしジェナがどうしても嫌なら、いくらか手立てはあったはず。
いざとなったら守って貰えるとでも思ったのだろうか。上流階級に憧れる平民にはありがちな夢想だが呆れてしまう。あの王子にそんな期待をかける女がいるとは。
だから同情はしない。というか、ジェナの存在は少し邪魔だった。
男を翻弄するユーニィの手管は圧倒的に勝るものの、容姿は互角。しかも王子はあの娘の控えめな気性を、ユーニィの天真爛漫さと同じくらい気に入っているようだった。ああ、胸の大きさもか。スケベめ。
第一王子とブリジットの婚約をかき回し、王家と筆頭公爵家の関係に決定的な軋轢を入れるのがユーニィの仕事なのに、ユーニィよりジェナが寵愛されたら予定を変更する事もありえた。それは少々面倒だし、ここでジェナが消えるなら願ったりなのである。
こうなると、ジェナと波風を立てず付き合っていたのは正解だった。一緒に行動こそしていたが、どんな意図で王子の側に侍るのかいまいち不明だったので、彼女との遣り取りは慎重にしていたのだ。
彼女が死に、疑われるのは勿論ブリジットと取り巻きだろう。ユーニィは、王子に彼女が亡くなって悲しい、ブリジット達から怪しい菓子を渡されたと訴えれば良い。
物証があるのだ。それを用意した令嬢共々ブリジットを追い込んでやるか。公爵家に何かあればこの国の力が多少削げるのは変わりないし、下剤が効かずケロリとしているユーニィに、あの女達はさぞや焦るだろう。想像すると愉快で仕方ない。
焦らなくとも、計画自体に滞りはない。順調であれば定期報酬に少し色をつけて貰えるのだ。ユーニィはほくそ笑みながら男爵家のタウンハウスに帰り、手紙をしたためて再び外出した。
この国の隣には覇権主義を掲げる帝国が存在する。帝国は虎視眈々と、鉱山などの資源が多いこの国を狙っているのだ。
ユーニィを養女にした男爵は表向き叔父という事になっているが、血縁ではない。裏で帝国と繋がる協力者だ。当然、戸籍も偽物。ユーニィの生まれはジェナと同じ平民であった。
平和ボケしたこの国の平民より貴族の恐ろしさを識る故に、危機意識が高いのが強みだと自負している。
ユーニィは男爵に馬車を用意させ、とある場所へ向かう。王都から一時間ほどの距離にある山森――正確にはその奥にひっそり佇む隠れ家へと。
日が沈もうとする頃、目的地に着いた。傍目には猟師小屋を偽装した建物に入り。
ユーニィは目を瞠る。
「………………は?」
狭い一部屋に鮮やかな赤が散っていた。
一瞬、夕日が小窓から差し込んでいるだけかと思ったが違う。
鼻を突く鉄錆の匂い。床に倒れ伏している猟師風の男は常駐していた本国の連絡員だ。
本能が警告を発し、ユーニィはすぐさま踵を返す。
「逃がしませんよ」
――しかし手遅れ。
振り返ったそこに、黒装束とマントを纏う人物がいた。声や体格からして女。森の薄闇に加え、目深にフードを被っているので顔が分からない。
が、その声には聞き覚えがあった。
「…………あんた、ジェナ……?」
あら、と女は驚いたような、しかし抑揚のない口調で言った。
「たった一言でバレてしまうんですね。流石、屈指の軍事国家たる帝国の工作員さん」
「な、なんで……」
何故この女がいるのか。何故自分の正体がバレているのか。
「尻尾を中々出さないので特定するのに時間がかかってしまいました。婀娜な女性の演技も素晴らしい。引き抜きたい程のお手並みですが……我が国に争いの種を撒くのは看過できません」
「ど、うして生きてるのよ? だってあんた……」
毒入りのクッキーを食べ呑み込んだのを、確かにユーニィは見たのだ。今頃は心臓に届き、死んでいるはず……。
「貴女と同じですよ。慣れているんです」
漸くユーニィは察した。胸元から懐剣を抜き放つ。
「―――王家の影!」
「ご明答」
ユーニィの退路は塞がれている。ならば殺して逃げるしかない。
だが斬りかかろうとした矢先、シャッという風切り音と共に首から胸にかけて灼熱が疾走った。
血飛沫が舞い上がる。
視界に映ったのは、長い爪。近接戦用の手甲爪だ。
「この森には獰猛な獣が出る、らしいですよ?」
ユーニィの死は偽装される。ただの獣に食い殺された事にされるのだ。悔しい。こんな所で、このあたしが。
「ち、くしょう……くた、ばれ……」
その悪態を最後に意識が暗転し。
二度と目覚める事はなかった。
✵✵✵
「件のモノは森に放置、男爵は配下が始末致しました。物盗りの犯行に見せかけたので、明日には憲兵の調査が入るかと思われます。――報告は以上です」
最高級の家具が品良くすっきりとまとめられた執務室。
その主人である女性は、報告中も書類にペンを走らせていた。これでどちらの内容もしっかり把握しているというのだから、この方の頭脳はどんな処理能力を備えてるんだとジェナは思う。
「そう……テオドールがいつ、国家機密を渡すか気が気でなかったのよ。早期に処理できて良かったわ」
そして会話まで可能である。どんな処理能力を以下同文。
ジェナは王家の影だ。正確には現在の凡庸な国王と王家を一手に支えている王妃直属の影――と言うと語弊があるが、王妃は別に王たる夫を蔑ろにしている訳ではない。
王は全幅の信頼を置く王妃に実質的な権力を委ね、自分にできる範囲で公務を行っているのだ。
己の凡庸さを自覚し限界を超えるものを他者に託せる、それはそれで稀有な才覚だと思う。
「あの子もねえ。幼い頃から短慮で、王族とは何なのか知ろうともしなかったわ。若いから正せるかもしれないとここまで機を延ばしたけれど。もう、駄目かしらね。貴女はどう思う? 少し早いけど、第二王子に王太子教育を始めるべきかしら」
「……弟殿下の次期国王としての資質は、兄殿下と比べるべくもないかと」
王妃が質問する時は忌憚ない意見を求める時なので、正直に答えた。
ジェナは王妃の命令によりテオドールへと差し向けられた、ハニートラップ要員だ。
灰汁のない、どこにでもいそうな顔立ちは、化粧次第でどんな美女にも変化できる。テオドール好みの柔らかい容貌を造り、詰め物で胸元を嵩増しして近付いた。
色恋は罪ではない。しかしそれが王族となると自制が求められる。対応力を測る為の、王妃の試練だった。
しかし件の男爵令嬢が先に仕掛けた。なら自分は普通の生徒として過ごしながらその様子を観察、報告するだけでいいかな、そう考えたのだけど。
王子好みの外見を造り過ぎたらしく、あちらから近付いて来たのだ。間近で観察する方が良いかなとジェナも思考を切り替え、王子、男爵令嬢の三人組で行動している内に男爵令嬢の正体に気付けたので一石二鳥だった。
王子を慕っているように見せて目の奥が冷えていた、足運び、只人ではない気配ともいうか、諸々の理由で。多分、帝国ではかなり高位の者の子飼いだったのだろう。
ジェナの正体が彼女に疑われず済んだのは、演技に全神経を注いだ事と、王子から接触して来た事が大きい。自分から近付いたらバレたやもしれない。その点は王子に感謝しなくもない、が。
あの王子は駄目だ。短慮、尊大、他者の話を聞かない。謎の万能感を持っているらしく、自分は何をしても許される存在だと思っているらしい。そして下が緩い。やたら体に触れようとし、何度も密室に連れ込まれそうになった。あれでは王家の種をバラ撒く意味でも危険でしかない。
能力的には全て足りない。それが駄目なのではない。能力を磨こうともしない事が駄目なのだ。
というか王子は学園にも影が潜み、生活態度を逐一報告されているのを先に教わるはずだが、傍若無人に振る舞えたのはそれを忘れていたからだろう。
彼は、国王夫妻である両親の前では、それなりに立派な王子を装っていた。まぁ、母親を始め周りにはバレバレだったらしいが。
ジェナは影であると同時に、この国の民でもある。少なくともテオドール王子に王位は継いで欲しくない。
そして、婚約者である公爵令嬢にも王家に入って欲しくはない。
ましてや国母になど絶対に。
「ブリジット嬢は何も対応しなかったのね?」
ジェナの内心を読んだように王妃が訊いた。影から報告はされているはずだが、ジェナの口からも聞きたいらしい。
「はい。私や男爵令嬢への『牽制』は熱心でしたが、王子への諫言は最低限。また、入学から三ヶ月で私達と第一王子殿下の噂が学園及び市井まで届いておりましたものの、対策を講じる事なく傍観しておいででした」
「そう。では彼女も王妃や王子妃としては資質無し、ね。優秀だから勿体ないけれど」
まぁ、優秀は優秀だった。王子妃教育は王家の秘直前まで終了しており、学園の成績も常に首席。教養高く、品行方正。
本来なら王妃としてこの上ない人物だが、彼女には欠けているものがある。王家を支え国を支えるという気概がまるで皆無である点だ。
そも、あの王子が婚約者として不服なのは理解できる。しかしそれを傍目に丸分かりな程、態度に表すのはどうだろう。
国母、王子妃になるかもしれない令嬢が王家を侮っている、周囲にそう思われる事も念頭に置いていない様子。
「ブリジットの父親は王位継承権も持ってるから、簒奪を狙っている節があるのよね。娘を王子妃に据えれば少しは野心を満たせるかと考えたけれど、テオドールが廃嫡になれば婚約は解消となるでしょう。力を削ぐ方向で行くしかないわ。貴女の事だから、例の毒やら下剤やらの出処も調べているわね? 全て集め、わたくしに提出して頂戴な」
ジェナに渡された毒は先頃に禁薬指定された代物である。本当に最近なので、ブリジット嬢や取り巻き達は知らなかったようだ。
下剤は禁薬ではないが、それを贈った相手は行方不明。
王妃様が直々に対処するなら、証拠を足掛かりとしてブリジット令嬢方の各家、一、二段階の降爵と、実行犯の令嬢家の爵位剥奪くらいやってのけるだろう。
更にこれらの件が公になれば令嬢方の今後も明るくはないだろうが、命まで奪われはしないはず。そもそも自業自得なので我慢したらいい。
「御意」
「ああ、待ちなさい。本題はこれからよ」
話が終わったと判断して立ち上がったが、呼び止められた。
本題? 今までの報告は本題ではなかったのかとジェナは内心首を捻る。
王妃は漸くペンを止め、壁際に控える侍女を呼んだ。因みに机からはそこそこ距離があるので、ジェナと王妃の会話は聞こえていない。王妃専属の侍女だから聞こえても知らぬ振りをするだろうが。
侍女が二つのティーカップにこぽこぽ茶を淹れるのをぼんやり見ていると、彼女によって椅子も用意され、王妃に「座りなさいな」と促される。
ジェナが座り、それぞれ茶を一口飲んだところで、王妃は口を開いた。
「……引退を勧めるわ」
ジェナは、ほんの僅か、息を呑んだ。
すぐに感情を立て直し、落ち着いた声で返す。
「……お役には立てませんでしたか」
「違うわ、逆よ。貴女は密偵としても影としても優秀過ぎた。その道に引き込んだのはわたくしだけれど……貴女、あと何年も保たないでしょう?」
なんだそんなことか。ジェナは苦笑する。
素の状態だと笑っても無表情なのだが。
「保って五年というところでしょうかね」
影には諜報力、戦闘力の他あらゆる技能が求められる。中でも必須なのが毒耐性だ。影候補として選ばれた幼子の頃から微弱毒を体に慣らし、素養があれば徐々に毒性を強めていく。
ジェナはその素養が異常に高かった。知識を貪欲に吸収し、思考は柔軟で、男に膂力こそ劣るものの技術で補い、戦闘面にも才覚を発揮した。故に若い女ながら王家の影を束ねる長となったのだ。
ただし影は総じて短命だ。護衛や暗殺で命を落とす者も多いが、生き延びても長年蓄積した毒が体内を蝕む。
ジェナは禁薬をも中和できる耐性を得たが、それは畢竟、幾種もの禁薬を摂取し続けたからに他ならない。
残された時間は王妃に告げた年数が最長、現実にはもっと少ないだろうなと自覚している。
王妃は僅かに長い睫毛を伏せると、ゆるゆる首を振った。
「……貴女があまりにも優秀だから、わたくしも頼り過ぎたわ。今更惜しむのは虫の良い話だと分かっているけど、せめて残る時間は穏やかに過ごして欲しいの」
その苦吟する姿にふと、ジェナの古い記憶が刺激される。
孤児院にいた頃、違う名で呼ばれていたジェナはお姫様を見た。慈善活動で訪れた、侯爵家の令嬢。淡い金の髪が輝いてキラキラしていた。
なのにそのお姫様は長い睫毛を落として唇を噛み、「こんな固いパンと野菜の端切れしか浮かんでいないスープが『食事』ですって……?」と呟いたのだ。
そのお姫様と、薄汚れた孤児でしかなかった自分が、王宮の奥でこうして話し合う間柄になろうとは。人の縁とは不思議なものだ。
「私は殺し過ぎました。そのような穏やかな最期は身に余ります」
任務を全うする為に多くを画策し、多くの命を奪った。
因果は巡る。これも自業自得というものだ。
「全てわたくしが命じたのよ。わたくしが背負うべき咎」
「それでも。選んだのは私です」
それだけは譲れないとばかりにジェナは主張した。
――平穏を構築し継続させる為の、歯車の一つになって頂戴――。
孤児院の裏に生えていた毒草を、誤って呑み込んでもケロリとしていたジェナに、影としての素養を見た目の前の人は、そう言った。
答えは一つしかなかった。
「私は影も『歯車』のお役目も望んで選びました」
ジェナのいた孤児院は、世界に数ある中でも人道的な経営をしていたらしい、とは後に知った。
それでも『食事』は一日二食、滅多に湯浴みはできず、ジェナを始め子供達はいつも薄汚れて、変な匂いを漂わせていた。
劇的に改善したのは、当時侯爵令嬢だったこの女性が訪問してからだ。生家と王家に訴え、婚約者の王太子まで動かして、支援を強化した。
更に、様々な経済改革を提案し、孤児そのものを生まぬ政策を打ち出したという。
食事は一日三度に。
噛みやすいパンと具沢山のスープ、一日一度は肉料理が出て。
ごわごわの髪は、湯浴みの回数が増えて指通りが良くなり。
ほんの風邪で呆気なく死ぬ、そんな子供は減っていった。
ジェナのいた孤児院だけでなく、国の中全てで。
ジェナは自分を捨てた両親を少し恨んだものだが、実家が貧乏なのは幼心にも理解できていた。そんな風にさせる国がダメなんだとも思っていた。
けれど、ダメな国で無くそうとしている人はいる。『平穏』になればダメでなくなる。
それを築こうとしているのが目の前の女性なら、そして私を必要としてくれるなら。
――造り続けていかないと零れ落ちるなら。
恩返しという訳じゃないけれど。
歯車も悪くない――そう思ったのだ。
他に選択肢があったとしても、そんなものは要らない。
「そんな貴女だから、まだ必要なのよ……」
珍しい王妃の頼りなげな声に、ジェナは両の瞳を細めた。
「そんな貴女だからこそ、お仕えし続けたいのです」
どの道、影はいつ息絶えるとも知れぬ身。任務で死ぬか、毒に蝕まれ死ぬのが先かの違いでしかない。
次の長も既に指名している。
「どうか最後までお使い下さい。歯車として使いものにならなくなるまで。――朽ち果てるまで」
ジェナは言って椅子から立ち上がり、「では失礼します」と部屋を去る。
ギュッと唇を噛む、王妃を残して。




