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5.戦線離脱

──スイッチだ!


 反射的に、二人に駆け寄ろうと、膝へ力をこめる。

 だが、結局俺は、その場から動かないことを選んだ。

 リリアには近寄らないと、決めたのだ。

 それにいつも通り、俺とリリアが親しい故のスイッチだとしたら、近づけば俺もスイッチに飲み込まれるだけだ。スイッチに操られ、エレノアを指弾するだけだ。


 リリアは一歩後ずさった。

「何のことですか……?」

「白々しいこと。貴女がニルド殿下に(・・・・・・)色目を使っていること、知っていますのよ。生徒会役員同士であるのをいいことに、馴れ馴れしくまとわりついて、恥知らずな。私はニルド殿下の婚約者。殿下に害虫が近寄るのを、ただ見ているわけにはいきませんの」

 エレノアの刺々しい台詞に、俺は目を見張った。

 今エレノアは確かに、「ニルド殿下」と言った。

 それでは、これは、俺に関するスイッチではないのだ。ニルド殿下とリリアに関するスイッチなのだ。


──スイッチの流れが、変わった?


 これまでエレノアがリリアを攻撃する理由は、全て俺だった。ニルド殿下とリリアが絶縁していたわけではないから、ニルド殿下のスイッチも発生する素地はあったはずだが、それより俺の方のスイッチが優先されて起こっていたのだ。そのスイッチの優先順位が逆転している。

 その理由は一つしか考えられない。


──別離の効果は、あったんだな。


 リリアを泣かせ、エレノアを怒らせた。これがその対価だ。

 俺とリリアに関する、スイッチの進行は止まったのだ。いや、止まったどころか、後退したのかもしれない。だから俺ではなく、ニルド殿下のスイッチが起こっているのだ。

 これで俺がエレノアに毒を飲ませることは、今後ないだろう。俺は安堵した。

 本当に俺とリリアは遠ざかってしまったのだと、痛んだ胸には気づかないふりをして。


「私、色目なんて……」

「自覚がないんですの? これだから平民は嫌だわ。ニルド殿下がお優しいのをいいことに、はしたなくすり寄るマナー知らず。それが貴女です。目障りですわ。ニルド殿下はこの国の第三王子。その尊い身と、下賤な貴女では、本来ニルド殿下の視界に入ることさえ不敬だということを、よくお考えになることね」

 傲然たる口振り。相対するリリアは小動物のように、おろおろしている。

「そんな。私、本当に……」

「余計なことは言わないで。貴女が今口にするべきは、今後二度とニルド殿下には近づきません、という宣誓だけですわ」

 エレノアはピシャリと遮った。

「さあ、おっしゃって。ニルド殿下には二度と近づきません、と。今まで身のほど知らずにも、煩わせて申し訳ありませんでした、と」

 無言で唇を噛み締めるリリア。

「何を黙っているの。おっしゃって」

 更に威圧するエレノア。

「…………」

「さあ、おっしゃって!」

「…………」

「さあ!」


 俯いたリリアの瞳から、涙が一粒零れた。

 先日から、リリアの泣き顔ばかり見ている気がする。リリアの涙を見るのは嫌いだ。俺は自分に言い聞かせる。


──これは、スイッチだ。


 演劇を見ているようなものだ。エレノアはリリアを見下してなどいないし、このやり取りでリリアが傷つくこともない。スイッチさえ切れれば、二人は何もなかったように、許し合い笑い合うだろう。

 だから俺は、リスクをおかして、わざわざあの場に割り込む必要はないのだ。

 大切な二人のいがみ合う姿が、どんなに痛々しくやるせなくても。動いてはならないのだ。


 そこに響いたのは、聞き慣れたテノールだった。


「何をしている!」


 陽光のようなブロンドが、風のように俺を追い越して行った。俺を一顧だにせず、俺が諦めた距離を一気に詰めていく。ニルド殿下だった。

 殿下は駆け寄った勢いそのままに、リリアを(・・・・)背中に庇った。

「エレノア。リリアに何の用だ? 穏便な様子には見えないが」

 硬い声音で問いかける殿下。エレノアに話しかける際の、いつもの甘さはない。親しみ溢れた、ざっくばらんな物言いも、影を潜めている。

 決定的な証拠として、上から二つまで開けていたコートのボタンを、自ら留め直したのが見えた。少し着崩した服装は、ニルド殿下のトレードマークのようなものなのに。


──ニルド殿下も、スイッチ中か。


 そうでなければ、殿下が迷わずリリアを庇い、エレノアを詰問するなどあり得ない。

 エレノアが優雅に膝を折った。

「おはようございます、殿下。私はただ、リリア嬢に、自分の立場とマナーをわきまえて行動するようにアドバイスしていただけですわ。リリア嬢は平民ですから、作法に不案内ですもの。知らずのことなのでしょうが、ニルド殿下に馴れ馴れしすぎる姿は見ていて不快ですから、教えてさしあげたのですわ」

「不快などと言うな。リリアは悪くない。勉強やマナーが不安だと言うし、それも当然だろうと思うから、俺が気にかけているだけだ。だいたい、アドバイスするならするで、言い方というものがあるだろう。なぜ相手が泣くまで、言い負かす必要がある? エレノアこそ、配慮が足りないのではないか?」

 ニルド殿下は冷たく言うと、リリアの背中へ、宥めるように手を添えた。そのまま優しく促す。

「大丈夫だよ、リリア。何も気にする必要はない。さあ、校舎に入ろう」

 リリアはすがるように、ニルド殿下の袖を掴んだ。素直に頷くと、玄関へ向けて歩いて行く。ニルド殿下と微笑みあう様子は、二人の親密さを嫌でも周囲に印象付けた。

 二人の背中が消えるまで、エレノアは憎々しげな表情を崩さなかった。まばらだとはいえ、その様子を登校中の生徒がチラチラ見ていた。また嫌な噂にならなければいいが、と思わずにいられなかった。

 そしてニルド殿下とリリアが再び姿を見せるのと、エレノアが呪縛から解放されるのは同時だった。

「エレノア様……!」

 リリアが小走りに駆けてくる。その後ろからニルド殿下も、コートのボタンを外しながら、早足で戻ってきていた。

 三人は並木道で、先程の険悪さが嘘のように手を振り合った。エレノアに抱きつこうとするリリア。それを制して、自らエレノアを引き寄せ、頭頂部にキスを落とすニルド殿下。はしゃいだ声をあげて、きらきら二人を見守るリリア。頬を赤らめて文句を言うエレノア。

 いつもの光景がそこにあった。知らず詰めていた息を吐き出したくらい、安堵させられた。同時に、ひどく遠かった。

 三人の表情が真摯なものに変わる。先程のスイッチについて、話しているのだろうか。三人は今も、スイッチと戦っているのだから。一人で先に戦線離脱した、俺とは違うのだ。


 何故か自分が、三人の側へ行く資格も失ったように感じた。


 三人が緩やかに、再び校舎へ向けて歩き出す。その際、ニルド殿下だけが、立ち尽くす俺に鋭い視線を投げてきた。責めてはいない。ただ何もかもを見透かすような琥珀色の眼差しが、俺を貫いた。

 その一瞬、確かに俺は、後ろめたさに凍りついた。


 それは間違いなく、エレノアに毒を飲ませたという重大な事実を、三人に隠したということから生まれたものだった。

 そして一人だけ勝手に諦め、スイッチから逃げ出したということからも。


 自分なりに、考えて、考えて、考え抜いて出した結論だった。毒のことは言えない。しかし俺のスイッチは止めなければならない。

 だからリリアと離れたのだ。たった一つ、エレノアの命だけを選び、愛しい女性ひとを切り捨てた。


 一人だけスイッチから逃げ出すことを、意図したわけではなかった。


 だが、結果として。

 スイッチの優先順位は変わってしまった。俺のかわりに、今後はニルド殿下が、スイッチを背負うのだろうか。ニルド殿下とリリアが接近し、それに伴いエレノアの言動が過激化する未来シナリオが、今度は三人を襲うのだろうか。

 エレノアから以前聞いた。メインヒーローのニルド殿下の方が、本来スイッチの優先度は高いのだと。もしもスイッチでニルド殿下とリリアが恋人となったら、エレノアはどうなるのか。

 そのシナリオの結末を、俺は知らない。


──ノエル。ことスイッチが絡むと、お前らランカード兄妹は不器用になる。一人で抱え込み、何とかしようと無理を重ねる。言いたくないものを、無理に暴くことはしねえが、少しは周りも見ろ。お前たちを手助けしたくてウズウズしてる人間が、ここにいるぜ──


 ニルド殿下の台詞が胸をよぎった。


──俺は間違えたのかもしれない。


 身を焼いたのは、強烈な後悔だった。


 独りよがりに、一人で決めて、リリアを遠ざけるのではなく。

 毒のことも何もかも三人に打ち明けて、これからどうすべきかを考えるべきではなかったのか。

 リリアとエレノアには言えなくても、少なくともニルド殿下にだけは全てを告白するべきではなかったのか。

 そうすれば、今よりもより良い手段を見つけることが出来たのではないか。

 

 もしも、取れる手段が他にもあったなら、俺はどうしただろうか。それでも、リリアと離れることを選んだだろうか。一人だけスイッチから離脱することを、良しとしただろうか。

 その手段は、仮にニルド殿下に打ち明けていたなら、得られたのだろうか。

 既に手遅れだと分かっていても、その自問は甘美で、俺を苦しめたのだった。




 幸いにも、その朝のニルド殿下とエレノア、リリアのスイッチは、あまり生徒の噂にはのぼらなかった。スイッチが切れた後は、仲良く談笑して3人で登校していたから、皆状況の整理に困ったのだろう。ひとまず見なかったことにしたのだろうと思われる。

 そして何よりも、リリアの校章が本来の色に戻ったことの方が、周囲にはセンセーショナルだったようだ。俺の胸元に校章はなくとも、リリアがプラチナの校章を身に着けていない以上、俺たちは破局したと判断されたらしい。誰も面と向かって口には出さないが、俺がフリーに戻ったことで、特に女性たちの目線が熱を帯びているのが分かる。

「ノエル様。少しお話がありますの。お時間をいただけますでしょうか?」

「ソーン侯爵令嬢」

 クリスマスパーティーまで二週間を残すある日、クラスメイトに声をかけられ、俺は内心舌打ちした。

 黒髪に吸い込まれそうなブルーの瞳をした、鮮やかな印象の女性。それがソーン侯爵令嬢だ。

 彼女は俺の、有力な婚約者候補の一人である。昔それを想定して引き合わされており、幼い頃、俺が彼女に渡したプレゼントをエレノアが踏み潰す、といったスイッチも起こったことがある。

 そのこともあって、俺の中では彼女は特に、遠ざけておくべき人物だった。

 談話スペースに腰を下ろした彼女は、青玉の瞳で俺を正面から見据えた。

「単刀直入に申し上げますわ。私のクリスマスパーティーのパートナーになっていただけませんか?」

 俺は思わずソーン侯爵令嬢の胸元を確かめた。彼女の校章は金色。まだパートナーが決まっていなかったのか。

 意外だった。彼女は才媛だ。力あるソーン侯爵家の娘でもある。とっくに『売れて』いるだろうと思っていた。

「光栄ですが、それは出来ません」

 俺は即答した。これまでにも様々な女性から、こういった誘いは受けているが、希望を持たせるような物言いは慎むことにしている。

「ソーン侯爵令嬢ならば、いくらでも他に相手が見つかるでしょう」

「他の相手では意味がございませんから」

 ソーン侯爵令嬢はクスっと笑った。

「ノエル様はご存知ありませんのね。先日、ソーン侯爵家にランカード公爵家から、内々に打診があったそうですわ。私には決まった相手はいるのかと」

 俺は息が止まるかと思った。まだ卒業までには期間が残っているというのに。

「父はランカード公爵家とのご縁を熱望しておりましたから、大層乗り気でいるようです。他のお話などお断りして、すぐにでもと返答したようですが、ランカード公爵さまとしては、すべてはノエル様が卒業されてからのこと、とのお心積もりだったようです。現在は下ならしの段階であり、打診を受けたのも、当家だけではないとも」

 俺は理解せざるを得なかった。残り期間は3ヶ月強。卒業後、円滑に話を進めるために、父がとうとう動き出したということか。

「ですから、こうしてお誘いしたのですわ。今のうちにノエル様と親しくなっておけとの、父の意向ですの。ノエル様も、意中の方はおられないご様子ですし」

 ソーン侯爵令嬢の視線が、俺の胸元を一撫でした。

 リリアとは破局したのだろうと、暗に指摘しているのだ。それと同時に、俺の心がソーン侯爵令嬢(自分)にはないことを、理解している台詞でもある。

「貴女はそれで良いのですか?」

 俺は理知的な瞳を見返した。美しいが気の強そうな面立ちが、俺の視線を受け止めた。

 彼女は、エレノアとも疎遠だったはずだ。気持ちの伴わない夫と、気の合わない親族。それを唯々諾々と甘受する女性ではないと見ていたのだが。

 ソーン侯爵令嬢は、きっぱりと言った。

「縁談は父の決めることですわ。それに私も、貴方なら良いと思いましたの。エレノア様のことは好きではありませんし、貴方は冷たいばかりの人だと思っていましたが、貴方がリリア嬢に見せていた態度は、素敵でしたから。もの柔らかな仕草も、優しい笑顔も、細やかな配慮も。これほど大切にしてくださるのであれば、貴方の特別になりたいと感じました」

 彼女は俺の中に何を見たのだろう。長い付き合いだが、こうしてはっきりと好意を告げられたのは初めてだ。


──面倒なことになったかもしれない。


 俺としては、エレノアと気の合わない女性は嫌だ。

 そもそも俺とエレノアにとって、どれだけリリアが特別か、彼女は分かっていない。

 俺の心は、きっといつまでもリリアのものだ。例え側にいることができなくとも、温かく柔らかく愛しいものの象徴として、俺の中に息づいているのだ。

 それに挑むように、彼女は笑う。澄みきったブルーが、鮮烈な光を放った。

「ノエル様。私は、努力しますわ。貴方の心を得られるように。クリスマスパーティーのパートナーの座、誰でもよいのなら、私にくださいませ。立派につとめあげて見せますわ」

 これは、曖昧にしては駄目だ。

 俺は悟った。いずれ政略で彼女と結婚することになるのだとしても、彼女に無駄な希望を持たせてはならない。天空にかかる月を手に入れようと足掻くような、実らない努力をする空しさを、味わわせるつもりはない。きっぱりと引導を渡しておく必要がある。

 リリアは俺とエレノアの唯一無二だ。スイッチのことを打ち明ける気も起こらず、例え打ち明けたとしても、きっと受け入れることができないだろうソーン侯爵令嬢では、勝負にもならないのだ。

 明確に拒絶しようと口を開きかけた俺より、一つの声の方が早かった。

「申し訳ありませんが、お兄さまは私とクリスマスパーティーに出ることになっておりますの。貴女のお相手は出来ませんわ」

 サラサラと流れる銀色の髪。涼やかな紫色の瞳。長い睫毛と艶やかな唇。絶世の美貌を誇る、俺の妹だった。

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