4.捨てられないたった一つ
リリアは、少しだけ目を見開いた。そしてしばらく沈黙してから、そうですか、と呟いた。その口調に、反駁の色はない。
「詰ってくれていいよ」
思わずそう言ってしまった俺に、リリアは首を横に振った。
「いいえ。これでも私、プロポーズしてもらってから、呆れるくらい色々なことを考えてたんです。ノエル様のプロポーズを受け入れたら、どんなことが起こるかな、とか、断ったらどんな気持ちになるかな、とか。その中に、ありました。ノエル様がプロポーズを取り消す未来も」
リリアの喜怒哀楽は分かりやすい。素直な感情表現は、彼女の魅力の一つだ。
だがこの時の彼女は、とても凪いで見えた。自分の感情を揺らすより、何をどのように喋るか、それを探すことに必死だった。ひたすらに一生懸命、頭を働かせていた。
聡い女性だ、と思った。
無意識でも、今が重大な岐路だと分かっているのだ。
だから感情的になって、大事なことを見失ってしまわないように。咄嗟に沸き起こる色々な気持ちも抑えて、次に出す言葉を選んでいる。
そして、彼女は恐れを滲ませて、尋ねてきた。
「教えてください。ノエル様。……私、何か気に障ることをしましたか? ノエル様がプロポーズしたことを後悔するくらい」
「まさか! 後悔なんかしていない」
「それじゃあ、お父様やお母様に、反対されましたか?」
「ちょっと違うな。本気なら、連れてきてみせろと言われたよ」
「えと、他に好きな人ができましたか?」
「いいや。俺の心は、今でもリリアが持ってる」
リリアの表情がどんどん訝しげになっていく。
「じゃあ、どうして?」
リリアと離れる理由。それは一つしかない。
「たった一つを、選ばなきゃならなくなったんだ。できれば君を諦めたくなくて、足掻いたんだけど、駄目だった。どうしても捨てられない大切なものを、たった一つ選んだら、それは君との恋じゃなかったんだよ」
リリアの心がぎゅっと縮こまったのが分かった。
もしかしたら俺は、リリアのことを好きではなくなったのだと答えるべきだったのかもしれない。もしくは、未来の困難に怖じ気づいて翻意したのだと。その程度の想いだったのだと。
その方が、リリアの負担にならずに、別れることができただろうか。
だが、それは言いたくなかった。どうしても。
嘘にしたくなかった。
俺がリリアを恋うる気持ちを。彼女の側にいることで、痛いほどに感じる幸せを。
嘘なんかにしたくなかった。
──好きだよ、リリア。
でも、さよならだ。
俺は君より、エレノアの命を選ぶ。
「俺には、君との恋より大事なものがある。守りたいものがある。それが分かったから、もう君の側にはいられない」
俺の台詞を追いかけるように、その場には静寂が満ちた。
曇天を覆い隠すように、夜が訪れようとしていた。肌をヒリヒリと撫でる冷気。星も月も、光など欠片も見えない空から、音もなく雪が舞い落ちる。はらはらと。降り始めより、激しさを増して。
身じろぎもしないリリアの頭に積もるそれを、優しく払った。
どうか。彼女をこれ以上冷やさないでくれ。
リリアのエメラルドグリーンの瞳が潤んでいく。
プロポーズに即答はしなくとも、彼女が俺に対して何の想いも抱いていないなどとは、俺も思わない。
だからその気持ちの分だけ、俺の別離宣言は彼女の心に氷塊を落としたことだろう。
しかも俺は、敢えてはっきりとした言葉を使った。自分の未練を断ち切るためにも、決定的にリリアを拒絶してみせた。
だが、リリアは泣かなかった。ぐっと涙をこらえた。
強い女性だ、と思った。
「ズルいですね、ノエル様は。好きな気持ちは、否定しないくせに。そんな風に言われたら、食い下がることも、駄々をこねることもできません」
小さく呟くと、彼女は俺の差し出す金色の校章を受け取った。そして自分の胸元にある、プラチナの輝きを外そうとする。俺の校章だ。俺はその手を押さえた。
「返さないでくれ。元から君以外の女性と、クリスマスパーティーに出るつもりはない。どうか、そのまま持っていてくれ」
俺との恋の形見に。
「そんな! 自分は返したのに……。だったら私の校章も、ノエル様が持っていてください。私が他の人と、クリスマスパーティーに出てもいいんですか?」
「いいよ。リリアを誘いたいやつは、いくらでもいる。楽しい夜になるといいな」
「ノエル様……!」
これ以上寒い場所に引き留めるわけにはいかない。さあ、と家に入るように促したが、リリアは帰ろうとしなかった。何か言いかけては口ごもり、躊躇って、躊躇って、躊躇って。動かない。
舞い落ちる雪の向こう側で、俺を見据えるリリアは、とうとう泣いていた。
そして響いた叫びも、溢れる涙で震えていた。どうしても我慢できなかったのだと分かった。
「ノエル様、プロポーズの時、私に言いましたよね。この先の自分の幸せを、私抜きで考えることができないって。それなのに、こんな風に私と離れて、ノエル様はちゃんと幸せになれるんですか……?!」
耳奥に、自分のプロポーズが甦った。
──リリア嬢、私と結婚していただけませんか? 貴族の世界に、君を引きずり込むことになる。嫌な思いも沢山させることになるだろう。でも俺は自分の幸せを、君抜きで考えることができないんだ──
──リリア、君は馬鹿だ。
唇を噛み締めた。俺まで泣くわけにはいかない。
頑張って考えて考えて、どうしても言いたくて仕方なくて、この一連のやり取りの中で一番一生懸命になって、そして口に出すのはそれなのか。
こんなに一方的に別れを突きつけられたのに、詰って泣き喚いても許される場面なのに。それでも一番心を傾けるのは、俺の幸せなのか。自分の傷つけられた心も後回しにして。
本当に、なんて優しくてお人好しな少女なのだろう。
俺の胸に、苦しいほどの切なさが押し寄せてきた。
──好きだ、リリア。
好きだ。
好きだ。
好きだ。
これが愛ではないなら、どんな気持ちが愛なのか、分からないほどに。
こんなに愛しい彼女と離れて、俺は近い将来、父の決めた女性と政略結婚するのだ。そしてひたすら公爵家嫡子として、責務を果たす日々を送るのだ。そこに俺の幸せはあるだろうか?
そこには、リリアがいないのに?
だが、少なくとも、あんなに憂いていた問題は解消される。リリアを貴族の世界に引きずり込むことはない。嫌な思いもさせることはない。これほど素敵な女性だ。俺以外にも、惚れる男は必ずいる。きっと幸せになるだろう。
それが俺の隣でなくとも。
それに、エレノアも守れる。俺とリリアが離れれば、スイッチの進行は止まる。俺がエレノアに毒を飲ませることも、もうないだろう。エレノアを無事にニルド殿下に預け、その幸せを見守るのだ。
それで十分ではないか。
「……ずっと君の幸せを祈っているよ、リリア」
答えになっていません……! と叫ぶリリアの頬を拭う資格は、既に俺にはないのだった。
最後に笑顔が見たかったな、と思った。
それ以降、俺はリリアとの一切の接触を断った。放課後に図書室で勉強を見ることも、お茶をしながら談笑することも、孤児院に付き添うことも、もうない。
校内で見かけることがあっても、近寄ることはおろか、視線を向けることさえ避けた。中途半端なことをして、スイッチを止めることができなかったら、何のためにリリアを傷つけたのか分からなくなる。
リリアも、自分から俺に近寄ってくることはなかった。どんな顔をしているのかは分からない。吹っ切っていてくれるよう祈るばかりだ。
その変化に激怒したのは、エレノアだった。
私室で制服のタイを緩めていると、バーン! と開け放たれる扉。まなじりを吊り上げ、ツカツカと歩み寄ってくる。エレノアもまだ制服姿だ。着替えもせずに、俺が帰ってくるのを待ち構えていたらしい。
「お兄さま! リリアを振ったって聞きましたわ!? どういうことですの!?」
「好きじゃなくなったからだ、と言ったら、騙されてくれるか?」
「あり得ないことを言わないでください」
やはり駄目か。
確実に気に病むので、できれば言いたくなかったのだが。仕方ない。
「スイッチを進行させるのは、やっぱり危険だ、と思ったんだよ。今まで通り、俺は女性との接触を避けることにするよ。例外は作らない」
予想通り、エレノアが愕然とした顔になった。
「……そのことについては、先日お話したはずですわ! 多少スイッチが進行しても、スイッチが切れてからカバーすればいいのです。やり直せばいいのです! 大丈夫ですわ!」
「駄目だ。スイッチが切れてからでは、取り戻せないこともある」
それが何かは言えないけれど。
エレノアの眉が下がった。懇願してくる。
「お兄さま! お願いですから、止めてください! 私はお兄さまとリリアに上手くいって欲しいと、心から願っているのです。私のせいで二人が駄目になるなんて嫌ですわ! ニルド殿下だって付いていてくださいます。私は大丈夫ですわ。大丈夫ですから!」
「駄目だ。もう決めたんだ」
「お兄さま!」
俺たちが言い争う様に、召使いたちがおろおろしている。
だが今回ばかりは譲るわけにはいかない。頑として首を縦に振らない俺。説得できずに焦れるエレノア。決着がつかないまま夕食の時間になったが、エレノアの去り際の台詞が胸に刺さった。
「お兄さまの馬鹿! 私は絶対に諦めませんわ! スイッチなんかに、負けてたまるもんですか! お義姉さまになっていいのは、リリアだけですから!」
そして、その朝は、一際冷え込んでいた。
王立学園の朝は、馬車の長蛇の列で始まる。
生徒も教師も貴族ばかりなので、基本的に歩いて通いなどしない。校門まで馬車で乗り付けるのである。
最も混雑する時間帯は、明らかに歩いた方が早く着くほど、遅々として進まない。そのため、俺たち兄妹は少し早めに登校するのが常だった。
馬車を降りれば、校門から校舎までは、冬枯れの並木道。春になれば美しい桜に彩られるが、今は薄茶色の幹と枝ばかりが目立つ。焦げ茶色の花壇には、花の代わりに霜柱が白く点在している。
だが、今朝はその寒々しい景色に、初々しいピンクの薔薇が一輪咲いていた。ふわふわのピンクブロンドを揺らして、少し先を歩む影。彼女だけは馬車など使わず、寒い中を歩いてくるからだろう。厚いコートを着込み、華奢な体が少し着ぶくれしている。毛織りのマフラーは紺。手袋は見覚えのある桃色。
──使ってくれているのか。
既に近寄るつもりもないくせに、やはり心が踊った。
隣を歩むエレノアが、弾んだ声を上げる。
「お兄さま。リリアですわ。──リリア!」
止める間もなく、リリアの背中に呼びかける。
「エレノア様!」
立ち止まったリリアが、花の綻ぶような笑顔で振り返った。そして、俺と目が合うと、ギクシャクと挙動不審になった。唇がノエル様、と動いたのが分かった。
敢えて無表情を保ったまま、俺は足を止めた。リリアが歩き出すまでは、ここから一歩たりとも動かない。彼女には近寄らないと、もう決めたのだから。
「お兄さま?」
見上げてくるエレノアに、首を横に振る。
「俺は行かない。リリアと先に行きなさい」
「お兄さま!」
「さあ、早く。リリアが待っている」
まばらだとはいえ人目もあるからだろう、エレノアが渋々折れた。後ろ髪を引かれながらも、リリアに手を振って歩き出した。待たせていると思うからだろう。少しずつ、少しずつ、早足になっていく。
俺の視線は、エレノアの背中を見送るふりをして、実際はリリアに釘付けだった。どうしても、見ずにはいられなかった。
だから気づいた。
リリアの感情豊かな瞳が、その瞬間、硝子玉のように乾いたことに。
それと同時に、小走り一歩手前になっていたエレノアの足も、ピタリと止まったことに。
しかし、俺が声をかけるより先に、二人の時間は再び流れ出す。
エレノアが歩き始めた。今度はゆったりとした動きだった。王城で謁見前に見せるような、気品ある足取りだ。指先まで神経の行き届いた所作。艶やかな銀色の髪が、さらさらと流れる。
少し怯えたような表情で、立ち尽くすリリア。
ゆっくりとリリアの前に立ったエレノアの背中は、ピンと伸びていた。貴族としての自負に満ち溢れた声音で、言った。
「最近の貴女の行動は、目に余るものがありますわ。貴女、何か勘違いをしているのではなくて?」




