そのゴミ、片付けておいて
私がカーネリアになった最初の夜に、混乱しつつもイスラには前世の話をした。
イスラは前世の話を『神に声の届くカーネリア』というフィルターにかけて、神の託宣かなにかと変換して理解していたが。
そう遠くない未来で、国が滅びる。
そう伝えた私に、イスラは驚いていた。
驚きの種類としては、国が滅びること自体についてではない。
それほど間がない、という『時間』についてだ。
ということは、イスラは国が滅びることについて、すでに予感していたのだろう。
……少なくとも、カーネリアには入ってこない話を、イスラは知っている。
当たり前のことだが、本当に姫はなにも知らされていない。
女の子に学を授けないように、世情など知る必要もないと、噂すら運んでこないのだ。
……イスラに、そろそろ社会科の勉強も教えてもらおうかな?
読み書きは、簡単なものならできるようになってきた。
前世で例えるのなら、ひらがなを扱えるようになってきた程度だ。
というのも、父アゲートは女児に学を授けない教育方針のようだったが、本当にすべての女児が学から遠ざけられているわけではない。
一番代表的な例を挙げるのなら、父の正妃エレスチャルだ。
彼女は正妃という身分にありながら、祭司長としての役割を引き受けている。
この祭司長という立場は名前だけのものではなく、王以外が行うことを禁じられた祭祀以外は、王都では祭司長がすべて行っていた。
ようは、王権を授かった王の代わりに祭祀を行うのが祭司長なのだ。
祭祀では長い祝詞を読み上げたり、人間のものとは少し響きや傾向の違う神々の名前を呼んだりとする。
無学・無能では務まらない大役だ。
王都の祭司長が必ず女性であることから、女性にも学ぶことが許されている文字がある。
それが現在私がイスラから教わっている文字で、日本語で例えるところの『ひらがな』だ。
ひらがなは、女文字ともいった気がする。
これは読み書きを習い始めて最初に教わるもので、23種あるコーク字のうちの15文字覚えるだけで、簡単な文章ならすぐに読み書きができるようになるというものだ。
逆に言うと、簡単な文章しか読めないので、女文字と同じような扱いをされている。
……?
ぼんやりと散歩をしていたら、王宮の方角が騒がしいことに気が付いた。
少し正確に言うのなら、王宮と奥宮を繋ぐ通路の方向だろうか。
奥宮付近が騒がしいことなど珍しい、と興味を引かれて近づいてみると、父王アゲートと、その足下に薄汚れた塊が落ちていた。
……や、違う。汚い何かじゃない。あれ、人だ。
薄汚れた身なりの人物が、父の足下で蹲っている。
姿勢のせいで『薄汚れた塊』に見えたが、正確には蹲っているのではない。
あれは土下座だ。
暴君アゲートの足下で、土下座をする人物がいる。
この図式に、私の頭の中にはすぐにピンとくるものがあった。
「お父さま! ネリに会いに来てくれたの?」
甘えん坊の愛娘モードを全開にして、わざと弾んだ声を出しながら父の元へと走る。
足下の人間には気付かないふりをして、今の私に出せる全力の走りだ。
お父さま大好き、と両手を広げて飛びつけば、足下を睨みつけていた父親の相好は崩れる。
足下の塊よりも、アゲートにとってはカーネリアの方が大切なのだ。
そのカーネリアがハグを求めてきたのだから、父としては愛娘へとハグを返さないわけにはいかない。
「おお、可愛いネリや。お父さまを出迎えに来てくれたのかな?」
「うふふ。そろそろお父さまがいらっしゃるお時間だと思って、外で待っていたの」
嘘である。
私は風呂上りに日課としている散歩をしていただけだ。
散歩をしていたら、王宮へと繋がる通路側が騒がしかったので、近づいてきただけである。
が、本当のことを言う必要はないので、父が機嫌よくなる解釈に乗っておく。
そのぐらいの空気は読む。
特に、父の足下に今の今まで蹴られていたであろうと判る人間が蹲る情況においては。
「ジェリー、そのゴミ、片付けておいて」
奥宮まで騒がせた罪の弁明を聞いておくように――騒ぎの発端となった理由を聞き出し、今日のところはお引取り願う――そうカーネリアらしい語彙を駆使してジェリーに伝えると、ジェリーはこくりと頷いて薄汚れた男の襟首を掴む。
男はまだ父に伝えたいことがあるようで抵抗したが、ジェリーは小柄でも獣人の血を引いている。
見た目通りの腕力はしていないので、男の抵抗などないものとして、ズルズルと引きずって歩き始めた。
「……お父さま、あれ、なんだったの?」
どんな流れで、どこの誰を足蹴にしていたのか。
それを知りたかったのだが、目の前から男の姿が消えると、父の頭からは完全に男のことなど消えてしまったようだ。
もしくは誤魔化されたのかもしれないが、たぶん、きっと、ほぼ確実に前者だ。
父は何も考えていない。
「さて、なんだったかな……?」
はて、と首を傾げる父の顔に邪気はなかった。
本当に、興味のない人間から、興味のない話を聞かされて、頭に残っていないのだろう。
「うるさく騒いでいたようだけど、お仕事のお話ではなかったの?」
「そのような話だったかもしれないが……ネリはなにも気にしなくてよい」
仕事の話など、女の子が気にするものではない、と話を断ち切られてしまえば、これ以上は追求できない。
学のないカーネリアが、父の仕事や判断に疑問を持つはずがないのだ。
「それよりも、今日はアレを追いかけなくていいのかな?」
「アレ?」
アレとはなんだろう、と首を傾げていると、目に見えて父の機嫌がよくなっていく。
『アレ』とはなにか、父の機嫌に関係するもののようだ、と気が付いて、『アレ』が何を指しているのかが判った。
父の機嫌がよくなった理由も。
「……今日のネリは、お父さまと過ごしたい気分よ。わたくしだって、いつもいつもイスラを追いかけてるわけじゃないわ?」
どうやら、ここしばらくおやつの時間を『イスラを見にいく』という理由を使って避けていたことについて、父には思うところがあったらしい。
正直に言うと、父に付き合っておやつを食べると、とんでもない量の糖分を摂取することになるので、できれば避けたいのだが。
父を避けたせいでイスラへと勘気が向かうのも、カーネリアとなった私に不信感を持たれるわけにもいかないので、そこは調整が必要である。
今日の午後はお父さまと過ごすのだ、と甘えた仕草で手を引くと、父はゆったりと付いてくる。
まだまだ男よりお父さまか、と機嫌よく笑っているので、さっきの男が父に首を刎ねられることはないだろう。
愛娘可愛さに、少しの不快な出来事は、父の頭の中からすっかり消えた。




