84.『旅鳥 1』
今朝いきなりマーセルから新しい曲目を渡されたベルは、驚いた顔をした。
「これって…。」
そこに書かれた曲目は、いままで練習してきた曲がひとつもなかった。
「ああ、先方からの希望でな。急ごしらえになっちまうが仕方ない。この一週間は、そこに書いている曲だけを練習していくことになる。」
マーセルはとりあえず、あの曲からベルを一旦、離してみることにした。根本的な解決にはならないが、そうすることで何か解決の糸口が見えてくるかもしれない。ベルの方にも何か変化が起こってくれたらと思った。
何より、これ以上ベルに負担をかけたくなかった。
曲目からあの曲だけを外してしまえば、ベルはきっとそれを気にしてしまうだろう。だからルドの依頼ということにして、今とまったく別の曲目にしてしまった。客からの依頼ということにしてしまえば、ベルが自分のせいだと思って、自分のことを追い詰めてしまうこともないはずだ。
「今日はもう休んで、明日から練習しよう。」
「わかりました。」
こくりと頷いたベルを見て、マーセルはホッとした。
ベルがどう思ったのかはわからない。でもこの機会に少しでも気を休ませてくれてるといいと、マーセルは願った。
***
一週間後、ベアトリーチェたちはルドの屋敷がある街にやってきた。
「あれ、なんだかへんな雰囲気だね。」
街に入ってすぐルミが、不思議そうな顔していう。
ルミがそう言ったのは、兵士姿の男が目に付いたからだ。街に治安維持の衛士がいるのはおかしいことではないが、今日は目に付く数が少し多い。
「何か事件でもあったのかもな。」
衛士が警吏をかねる地域は、結構多い。何か事件があれば、彼らは街中で捜査にまわる。
「巻き込まれないように気を付けないとな。」
「ふふーん、ルモの場合はむしろごたごた起こして自分が捕まらないように気を付けたほうがいいよ。」
「なんだとお!」
のんきそうに言うルモに、ルミが笑いながら忠告する。
「喧嘩はよくない。服が汚れる。」
取っ組み合いをはじめかけたルミとルモの服の襟を、ウッドが左右の手で持ち上げて引き離す。せっかく着ていた高級な服が、少し伸びてしまったことは秘密だ。
マーセルたちの雰囲気も、以前より大分良くなっていた。ベアトリーチェの笛の音も以前ほどではないが戻ってきている。
問題が解決したわけではないが、良い傾向だとマーセルは思っている。
「それにしても、重装備ね…。」
マーサの言葉は、衛士たちではなく、ベアトリーチェに向けてのものだ。
「確かに今日はちょっと凄いわね。それ暑くないの?」
「大丈夫ですけど。」
今のベアトリーチェの格好は、袖の長い服を何枚も重ね着して体のラインがまったく見えない。おまけに大きな帽子をかぶって、上からじゃほとんど顔も見えない。
エルサティーナに大分近づいた上に、貴族の屋敷での演奏ということもあって、ベアトリーチェは用心のためこんな格好をしていた。
「まあ、ベルがそう言うならいいけど…。」
以前から、男装を繰り返す彼女に、もうメンバーも深くは追及したりしない。
やがてマーセルたちは、ルドの屋敷の前にたどり着く。
「ようこそいらっしゃいました。マーセル楽団さま。」
屋敷の前では、壮年の執事がマーセルたちを待っていた。
「街に衛士が多かったが、何かあったのか?」
「いえいえ、心配するようなことは何もございません。どうかご安心ください。」
マーセルの問いに、執事は柔和な笑顔で答えた。マーセルもそれ以上は深く聞くことはなかった。
ベアトリーチェも貴族の邸宅ではあまり目立たないようにと、喋らないようにしている。
「それでは主のもとへご案内いたします。」
執事に先導され、マーセルたちは屋敷に足を踏み入れた。
***
演奏の会場に準備を終え入場したベアトリーチェたちは、目を丸くした。
「おまえだけなのか!?」
マーセルが叫ぶ。
そこにいたのは、マーセルたちを招待したルド一人だけ。小規模な演奏会とは聞いていたが、一人だけというのは前代未聞だ。
マーセルの言葉に、ルドはどこか含みを持った笑みを浮かべながら答える。
「小さな演奏会といったろ?」
「確かに言ったがな…。」
それにしても観客が一人だけの演奏会というのは、聞いたことが無い。
「緊張しなくていいだろ?早速、はじめてくれたまえ。」
「逆に気が抜けすぎちまったよ。」
マーセルはそう言いながらも、気を引き締める。観客がひとりで古い友人でも、手を抜くつもりはなかった。
合図をすると、マーセルたちの演奏がはじまる。
ベアトリーチェも魔笛に手をかけ、息を吹き込む。以前ほどとは言えないが、綺麗な音が魔笛から流れ出す。この一週間で、ベアトリーチェの魔笛の音も大分戻ってきていた。
仮初めではあるかもしれないが、楽団の雰囲気も良くなり、それはそれぞれの楽器から重ね合う音にも表れている。
目の前に横たわる問題や、心の痛みが消えてしまったわけではない。それでも、優しいその音色は、ベアトリーチェの心を癒してくれる。
それはその演奏を外から聞くものも一緒だった。
「いやー、素晴らしい!」
一曲目が終わると、ルドは大きく拍手をした。
「噂に聞いていたけど、とても素晴らしい演奏だったよ。マーセル、君を呼んで間違いじゃなかった。」
「おおげさな奴だなぁ。」
旧友のリアクションの大きさに、少し呆れた顔をしてしまうマーセル。そのマーセルにルドはいたずらっぽくウインクする。
「実はね。観客は僕一人ではないんだよ。」
そう言って席をたち、部屋の中の大きな扉に歩み寄ると、その扉を手で開ける。
「どうぞ、お入りください。」
深々と礼をして扉の奥に話しかけるルドの姿を、マーセルたちはよくわからずに見つめた。そして扉の向こうから、数人の兵士に囲まれ、二人の人間が入ってきた。
ベアトリーチェの瞳が大きく見開いた。
「えぇ、うそぉ!」
「なっ…。」
マーセルたちは驚きの声をあげ、それから言葉を止める。
そこにいたのは貴族出身のマーセルでも一度も会ったことのない高貴な身分の二人。
「はじめましてマーセル楽団のみなさん、本日は素晴らしい演奏を聞かせてくださってありがとうございます。」
美しい微笑みを浮かべ、丁寧な言葉で口上をのべる銀糸の髪に青色の瞳を持つ女性。そして、隣に立つ金髪に碧眼の整った顔の男性。
「もしかしてあの人たちって…。」
「う、うん…。間違いないよ。」
比較的うしろのほうにいたマーサとルミが小声で呟く。その姿をマーセルたちは写真や絵で何度か目にしたことがあった。
「知ってるかもしれないが、この方々はエルサティーナの国王陛下と王妃殿下。アーサーさまとレティシアさまだ。」
ルドがそう言って、固まってしまったマーセルたちとの間をとりもつ。
ベアトリーチェは言葉を出せなかった。
アーサーさまとレティがそこに確かにいた。




