終
誰かに呼ばれた気がして、アニエスは重い瞼を上げた。
朝日が窓から直接ベッドに差し込んでいる。寝る前にカーテンを閉じたはずだったが、記憶違いだろうかとぼんやりした頭で思い出そうとすれば、突然部屋の扉が勢いよく開けられた。
「アニエス! ケーキを焼くわよ!」
藪から棒に言う黒髪の女性。中に押し入り、まだベッドから動けていないアニエスの手を引っ張る。灰色の瞳は爛と見開かれ、もう待ち切れないようだ。
「・・・母様が焼くのですか?」
ごく自然にアニエスは女性にそう呼びかけていた。
「そうよ、ギギに持っていってあげるの。あなたを守ってくれたんだもの、お礼をしなくちゃいけないでしょう? でもなぜか皆が私をキッチンに入れてくれないの」
「それは以前、竈を爆発させたからでは・・・火薬でも入れたのですか?」
「どうだったかしら。とにかく、あなたも来なさいな。きっと、あなたと一緒なら入れてもらえるわ」
「私が一緒でも同じだと思いますが」
「あなたは信用があるから大丈夫よ」
「いえ、そういう問題ではなく。そもそも私はケーキを作ったことがありません。無理せずルーさんに頼みませんか」
「大丈夫! 私は作ったことがあるわ。教えてあげるっ」
「ですから、その時に竈を爆発させたのでは・・・」
アニエスは弱々しく反論を続けたが、そういえば母はこんな人物であったと思い出し、間もなく説得を諦めた。
母と似ているのは見た目だけ。中身はどうも似ていない。
強引な彼女に手を引かれて部屋の外に出ると、今度は背筋の伸びた灰色髪の老人に出会った。
「おじい様」
また、アニエスは自然にそう呼んでいた。
老人は鼻の下の立派な髭の先をつまみ、いたずら者を見つけたような顔をする。
「さては二人で楽しいことをする気だね?」
「アニエスとケーキを焼くんです。父様もいかが?」
「そういうことなら、アネットがキッチンを壊さないように監視役を引き受けよう」
「どうしてお料理するだけなのに、そんな警戒をされなくちゃいけないんです?」
拗ねて子供のように口を尖らせる母を祖父は笑っている。
穏やかそうな彼となら、アニエスはいくらか性格の共通点を見つけられるかもしれない。
(この三人でケーキが作れるんだろうか)
食べられるものができるかさえ怪しいが、母の希望は可能な限り叶えてやりたいと思う。
どのくらい時間がかかるだろう、今日は急ぎの仕事はなかっただろうか、と考えた時、アニエスは気がついた。
(――今のエインタートの領主って?)
目の前に祖父と母の背中がある。彼らがいるのに、自分が領主であるはずがない。
アニエスが立ち止まると、二人は振り返った。
いくら思い出そうとしても記憶に残っていない顔。なのに、なぜかはじめから知っていた。
「苦労をかけたね」
祖父が労わりのこもった眼差しをくれる。
母は満面の、泣きそうな笑みを浮かべていた。
「一緒にいてあげられなくて、ごめんなさい。帰ってきてくれてありがとう、アニエス」
そこで、目を覚ました。
「――」
カーテン越しの明かりが見える。
身じろぐと頬にリウの腹毛が当たった。すっかり警戒心を忘れ、無防備に枕の横で伸びきっている。
(夢・・・)
あり得ない、しかし妙に現実感のある夢だった。
もし、アニエスが王城に預けられなかったならば、祖父や母がもう少し長く生きていたならば、あんな暮らしがあったのかもしれない。
(・・・ケーキ、焼いてみようか)
アニエスは着替えて眼鏡をかけ、キッチンに降りていった。
緑の平原を風が吹き渡る。
丘の上からは金色の穂を揺らす麦畑も見下ろせた。天候に恵まれてどこも粒ぞろいが良く、今年は昨年を上回る収穫を見込める。
アニエスはルーに教わりながら初めて作ったケーキの一片を、グスタが育てた白い花とともに、祖父と母の墓前に置いた。
つい先日、ローレン領にあった領民たちの墓をエインタートに移したのである。アニエスが領主となってから三年経ち、ようやく彼らを故郷の地に帰すことができた。
(夢を見たのは墓を移したせいだろうか)
祖父と母の魂が夢の中に入ってきたのかもしれない。そんな妄想が頭に浮かんだ。
「・・・領地は以前の三分の一ほど、修復できてきました」
現状を墓前に報告する。
風の中には重機の音が混じり、工事をする人々の活気ある声がここまで届いていた。
ローレン領に避難していた住民はほぼすべてエインタートに移っている。
鎮魂の儀式は毎年続けられ、災害がいくらか減った。魔王との盟約は保たれ、魔物たちは北の森で比較的大人しくしている。ただ西の海の異界魚については相変わらずで、まだ港などは作れない。
それでも復興が進むにつれ、各地に避難していた領民たちが戻り、エインタートでも新たに子供が生まれている。
家族が増えたことを館へ領民たちが報告に来るたび、アニエスは穏やかな幸福に満たされる。
いつか領地が完全に元通りになった後も、生まれる命のためにアニエスの仕事は続いていく。
「これからも、どうか見守っていてください」
優しい風が耳元をなでた。赤子の時にわずかな間だけ触れ合った母の手は、こんな感触だっただろうかと思う。
近く、王都の父の墓にも挨拶に行こう。
アニエスは密かに計画し、領主館へ戻っていった。
◆◇
『エインタート領修復報告書』
報告者 アニエス・スヴァニル 建国暦二三八年十月七日
◆修復処置の記録
以前に在りし八十五村のうち、八十村を復元。麦畑は以前と同等の面積を確保。農業技術の向上により収量は二割程度過去を凌駕する。
麦収量の向上により酒造の取り組みが約百年ぶりに復活し、魔乳と並ぶ特産品として国内での知名度は上々である。
また元領民以外の人口増加に伴い、新たに町を作り、領内外より商家を誘致。村から町への道を整備し、農産物等の流通経路を確保。ただし農村人口の町への流出が今後の懸案事項である。
魔物とは森と平原とで住処を分け共存。魔王はいましばらくは魔界に帰らず森に留まる見込みである。
異界の門より出現した巨大魚については、王都の研究院の協力を得て森の入り江に巣を移動させることに成功し、港を建設。巨大魚の動きに注意しつつ漁獲量は徐々に増加している。
また異世界人についても無事に元の世界へ帰還。その後、異界の門は数年ごとに開くものの人間は落ちてきていない。門の出現を制御する方法はいまだに不明である。
現状における人口は、以前の三万四千人から六千人程度増加し、四万人となった。
以上により、エインタートの修復は完了とする。
本編完結。
この後、時々小話を投稿する予定です。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。




