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61.仕上げ

 不織布に包んでいた本が乾いた。

 アニエスは表紙の革がたるみなく張れていることを確かめると、溝の部分に濡らした脱脂綿を当て、少しだけ革に水分を含ませ柔らかくする。何度か本を開閉し、スムーズに動くよう革に癖をつけた。

 それができたら、作業台に表紙を開いて置く。内側の革の折り返し部分をナイフで直線的に切って整え、その上に見返しとしてやや厚めの丈夫な紙を貼る。裏表紙にも同様の処理を施し、また本文ブロックが濡れないよう板を挟んで重しを乗せ、しばし乾かす。

 その間にアニエスは反故紙の裏に鉛筆を走らせ、表紙にどのような装飾を施すかを考えた。

 少なくともタイトルは入れねばならない。その他にも、様々な型押しを使ってオリジナルのデザインを作ることができる。以前アニエスはシダの葉の型押しをよく気に入って使っていた。

(どうしようか)

 悩む時間も楽しい。迷って遊ぶペンにはリウがじゃれついてきた。

 間もなくデザインが決まり、本の見返しも乾いた。

 鞄から木の取っ手の付いた型押しの一つを選び、人工灯ではない火のランプの覆いを外し、金属でできた型の部分を炙る。

 それをたっぷり水を含ませた脱脂綿に一度触れさせ、やや冷ましてから表紙に押し付けた。あまり熱し過ぎると革を焼き切ってしまうおそれがあるためだ。

 アニエスは定規をあてがい、まずは型押しで直線を引く。あとで真ん中にタイトルを刻印できるスペースをあけ、大きい長方形とその中に一回り小さな長方形を描いたら、二つの長方形の隙間に蔦と葉、八重の花をパーツごとに描く。これでエインタートの象徴たるクムクムを模している。この長方形二つのデザインはスヴァニルの伝統的な意匠である。

 タイトルはもともと何も書かれていなかったため、新たに《鎮魂祭・覚書》と題し、この文字も一画ずつ自力で刻んだ。また道具箱の中に以前の修復で使った金箔が余っており、アニエスはこれをタイトルに貼ることとした。

 接着剤を文字の溝に塗り、そっと金箔を乗せ乾いた脱脂綿で押し付ける。さらに上から型押しを当てて溝に金箔を埋め込み、はみ出した部分は拭いとる。これで金文字のタイトルができた。

(――うん)

 本文の染み抜き、破れたページの補修、新しい表紙を付け直し、この本の修復は完了した。

 アニエスは修復前の本の状態を書いた紙の続きに、今回施した処置を記録しておく。

 すべての作業を終えて、本とリウとともに地下室から地上へ戻ると、白い朝日がすっかり顔を出しており、館の者たちが動き始める音がした。

 今日はいよいよ儀式を行う。よってアニエスは夜明け前から起き出し、最後の仕上げをしていたのだ。

 何はともあれ、朝食を摂りに食堂へ向かう。すると、そこでルーがいつものように、籠に山盛りにしたパンをテーブルに運んでいるところに遭遇した。

「おはようございます!」

 主人と目が合いメイドは元気に挨拶をするが、アニエスはやや困った顔を見せる。そこへさらに、ユカリも皿を持ってキッチンから現れた。

「あ、おはようざいますアニエスさん」

「おはようございます。お二人とも、今朝は給仕はいいですよ。先に食べて支度をしてください」

 昨夜も同じことをアニエスは彼女らに指示したはずだった。

 この二人には今日の儀式で踊る乙女を務めてもらうことになっている。早く食べさせ、衣装の着付けや振りの確認などをさせねばならない。

「でも儀式はお昼からですよね? 午前中はお仕事しますっ」

「儀式の準備が今日のルーさんたちのお仕事です。私も食べますから、座ってください」

 多少強引に少女らを席につかせ、アニエスも座ってパンを齧った。

「舞の振り付けは覚えられましたか?」

 雑談ついでに確認すると、ユカリがスープを飲み頷いた。

「学校の授業でダンスやってたんで。覚えるのは苦手じゃないです。そんなに難しい振り付けじゃなかったし」

「私はユカリさんに教えてもらいながら、なんとかーですー」

「いつも私がルーさんに助けてもらってばっかりだからねっ。たまには役に立つよっ」

 ユカリは得意げに胸を叩く。珍しく頼られ嬉しかったらしい。

 だが、ふと気づいたようにアニエスを窺った。

「今さらですけど、踊る人が異世界人の私でいいんですか?」

「特に、問題はないと思います」

 魔人のギギですら土地の主として襲われているように、レアーマ族の怨霊たちは人の区別ができているようではない。彼らの敵意は自分たち以外のすべてに向けられている。儀式を行うのが異世界人でもスヴァニル人でも、大差はないだろうというのがアニエスの見解だ。

 他の領民の少女をわざわざ魔物のいる領地に連れて来るよりは、館にいる二人で間に合わせられると思った。

「準備をして、儀式までよく英気を養っておいてください。普段の仕事を今日はしないように」

「・・・はーい」

 やや不満げなルーに向かって、アニエスは特に念を押しておいた。

 食べ終えて食堂を出た後は、リンケの部屋へ向かう。

 戸を叩くと、眼鏡をかけていない彼女が眠そうな顔を見せた。

「おはようございます。先生、大丈夫ですか?」

 また徹夜をしたのだろう。リンケは目を擦り、平気だと笑みを浮かべる。

「例のものですよね? ご用意できていますよ。効果も保証します」

 机に置いていた小瓶を手渡す。中には半透明の液体が入っている。ニュクレの乳だが、混ぜ物のせいでうっすら赤みがかっていた。

「ありがとうございます。儀式は予定通りお昼に行いますので」

「はいはい。ではそれまで仮眠しまぁ・・・す」

 言葉尻はあくびに紛れた。

 アニエスは礼を言って足早に去り、続けて館の庭へ向かう。

 そこにはすでに、セリムら数名がいて祭壇の設置を行っていた。

「アニエス様っ、ちょうど良かった祭壇をご確認願えますか?」

「はい、今行きます」

 結婚式と同様、儀式はこの庭で行う。

 アニエスは修復を完了したばかりの本を片手に、準備物のチェックを始めた。

 ほうぼうに手を尽くし、必要なものはおおむね揃えられたが、結局楽器だけは手に入らなかった。だがこのまま引き延ばしてはクムクムの花が完全に散ってしまうため、見切りをつけ決行することとしたのである。

 まだ瓦礫を撤去しきれていない庭園に、茶色いたてがみを持つ牛の死体を横たえ、その周囲を花で飾り簡易的な祭壇に仕立てている。儀式の際はこの祭壇の前で二人の乙女が舞うことになるため、よけいなものは片付けておく。

 その指示をセリムらに行って、全体のレイアウトを確認していると、不意に視界の端に見知らぬ影が映った。

(っ、誰だ?)

 あまりに気配なく庭の隅に佇んでいたため、一度は気づかず通り過ぎてしまい、慌てて振り返った。

 いつからそこにいたのかわからない。他の者は誰も気づいていなかった。

 人影は、夕日のような金赤色の髪を幾本も細かく編み込んで背に垂らした女だった。はっきりとした緑色の瞳をアニエスへ向け、厚い唇を開く。

「件の儀式のご準備ですか?」

 アニエスは女の力強い瞳にうろたえ、思わず頷いていた。

「あ・・・あなたは?」

「兄君の使いです」

「えっ?」

 彼女は三歩で距離を詰め、本を持っていないほうのアニエスの手を取り、小さな玉を置いた。

 青と紫の波紋が浮かぶ石。彼女がアニエスの手のひらに己の手を重ねて呪文を唱えると、石から独特なメロディーが流れ出した。

「・・・儀式の、舞曲ですか?」

 弦を引く、あるいは弾くような音がする。聞いたこともない音色であるはずが、なにやら懐かしく感じる。

 一体これをどこで、と訴えるアニエスの視線を受けて彼女は説明した。

「六十年程前、ある旅人がたまたま儀式の場に居合わせたのだそうです。すると懐に入れていた《音籠め石》が楽器の音を気に入り封じ込めたと。これは貴女様のお役に立つでしょうか」

 楽器そのものでなく、音色だけを見つけたのだという。

 これならば楽器の弾き手すら必要ない。

(ファルコ兄様から、なんだろうな)

 女は一向に名乗らず明言もしないが、人の意表を突くやり方は五番目の兄らしい。

「――ありがとうございます。助かりました」

「兄君にお伝えしておきます。貴女様のことはよく気にかけていましたから、きっと喜びます」

 石の歌声を止め、女は朗らかに笑む。

 この印象深い美女の正体がアニエスはどうしても気になり、またおずおずと尋ねた。

「あなたはもしかして、兄の?」

 ファルコが己の連絡先として、住所とともにメモに書き残した名は彼女のものであるのか。彼女はアニエスにとって義姉たる人物なのか。そんな疑問が言外に込められている。

 しかし彼女もファルコ同様、大事なことを語らぬ人だった。

「兄君からの伝言です。『何もかもうまくいく』とのことです。それでは」

 最後に白い歯を見せ、彼女は止める間もなく空を飛び去っていった。

(なんて勝手な・・・)

 アニエスは狐につままれたような心地だ。だが、それがなぜか愉快で、気づけば笑みが浮かんでいた。

 うまくいくなど気休めの言葉だ。アニエスはこれまで何もうまくできていない。できてきたと思えば崩壊し、失敗ばかり重ねてきた。

 ゆえに新しいことを試していく。新しい人材を入れる。失敗は当然付きまとうものとして、次はうまくいくかと性懲りもなく期待し歩みを進める。それを愚直に繰り返していくことしか、結局できない。

 ファルコのおかげで、足りなかった最後のひと欠片がそろった。これで少しは自信をもって儀式に臨めるだろう。

 季節は七月。ぬるい風が領内に吹く。

 アニエスが辺境伯となってから、一年が経っていた。



 ◆◇



 日が中天に昇った。

 水色の空の下、黒いローブの裾を翻し、領主が祭壇に進み出る。

 肩には青い毛の魔物を乗せ、手には真新しい表紙の本を持つ。彼女の歩みを両脇に控える領民たちが厳かに見守っていた。

 アニエスは祭壇の前で止まり、始める前に半透明の液体が入った小瓶の中身を飲んだ。

 それから空を見上げると、黒い風を視認できた。

 大きな塊の中に無数の顔がある。

 以前の嵐の日よりもずいぶん小さくなったが、まだ消えない。いつまでも消えない。すべての顔が上空からアニエスを睨み、殺意を叫んでいる。

 瓶の中身は魔王の血をニュクレの乳で薄めたもの。ギギの血は口に含むと精霊が見えるようになるかわりに、ひどい痛みを伴うが、これはやや痺れがある程度だった。リンケがギギにしつこく頼んで血をもらい、試行錯誤した研究成果である。このおかげで、アニエスは怨霊たちに向き合うことができた。

 憎悪に満ちた彼らの瞳を、灰色の眠たげな眼差しで見返す。

 アニエスは胸に手を当て、一礼した。

震わせよ(メルンピア)

 呪文に応えた音籠め石が、祭壇で楽曲を奏で始める。

 合わせて、ルーの祖母のララがまず歌い出す。傍らには彼女を支える娘のリリーがいる。他にもかつて子供の頃に儀式に立ち会ったことのあるエインタートの老人たちが、今日は特別に領地に入ることを許可されていた。

 声は重なり、静かな波紋を描いて空へ広がっていく。

 人々の興奮を喚起するような楽曲ではなく、例えるならば子守唄のような優しい音だ。アニエスには知る由もない異民族たちの音だが、耳によくなじむのは、同じくこの地に生きる者であるからかもしれない。

 北から時折吹く強い風、クムクムの蔦の這う大地、はびこる魔物たち、異界の門――レアーマ族の生きていた頃から、これらは変わらずにあったのだろう。厳しい環境の中で生まれた歌を口ずさみ、日々の暮らしを営んでいたのだろう。

 アニエスと彼らとは、ほんの少し運命が異なっただけである。

 黒い風はまるで音を集めるように空を旋回し始めた。館の柵の外からは、武器を持ったジークらに牽制されつつも好奇心旺盛な魔物たちが覗き込んでいる。

 そんな異形の観客たちの前へ、白い衣装を着た乙女二人が左右から躍り出た。

 クムクムは北の森近くにわずかに咲き残っていたものを、今朝クルツらが採ってきて、蔓を編み花冠に仕立てた。鮮やかな赤紫色の八重の花が少女たちの黒髪によく映える。

 衣装はレアーマ族の民族衣装を模して袖が幅広く、下はフレアスカートになっており、舞手が回るとふわりと広がる。裾に刺繍されている金の鳥はレアーマ族が信仰していた鷲である。

 二人の舞手は鏡合わせのように対称的な動きをする。

 光の中で軽やかに舞う乙女たちの傍へ、恨みにまみれた黒い風は引き寄せられていった。

 その顔はアニエスに向けられていたものとは違う。無垢な幼子のように、目映い光景に魅入っていた。

 アニエスは本を開き、書かれている名を静かに読み上げた。

「――輝く人(ケイラト)

 無数の顔の一つが、振り返った。

美しい人(ロフゥルト)喜びの日(ヒリビン)鷲のごとく勇敢(グランカバル)小さな子(ビカン)強力な戦士(ガリバラト)明日の船(フルゥ)幸運の光(イリプス)春の花(ポッセ)いたずらっ子(イロゥン)思慮ある守り人(オゥサァルト)魔物のごとく強力(アルグファル)愛される人(アストラト)――」

 名を呼ばれると、他と同じようだった顔の輪郭が変化する。

 黒い塊の中から明瞭に浮かび上がり、ただ目鼻口があるだけではない、それぞれの自己を表す顔になってゆく。

 彼らは皆、かつて望まれて生を受け、願いの込められた名を授かった。

 それらの名が憎悪の底から意識を掬い取り、人であった本来の自分を思い出させる。

 アニエスは丁寧に、幾百もの名を読み上げた。

 その名の意味を噛みしめて、どんな人であったのか思い馳せ、それらを蹂躙し尽くした先祖の行いを悔いながら。



 日がじっくりと動いて中天を過ぎ、風の唸りの収まった頃。

 アニエスは本を閉じた。

止まれ(アクス)

 再び呪文に応えて音籠め石は沈黙する。何度も最初から繰り返された歌はそれを合図に止み、舞手も皆、肩で息をしていた。

 アニエスも喉がカラカラで、レーヴェが持ってきてくれた水を呷った。

「儀式は成功ですか?」

 尋ねに頷く。

 空の黒い風は残らず消えていた。塊からすべての顔が切り離され、消滅したのだ。

「うまくいったんですか?」

 地面に座り込むルーたちにも伝えられ、皆、安堵の表情を浮かべた。

「じゃあ、もう変なことは起きないんですね?」

「しばらくは、おそらく。ですがまた生じるのだと思います」

 恨みは消えるものではない。いつでもふとした拍子に蘇る。

 この地に根付くものはスヴァニル人の業である。憎悪をどうにかなだめながら、百年でも二百年でも付き合っていくしかないだろう。

「儀式は続けていく必要があります。もっとも、それで災害がまったく起こらなくなるわけではないでしょうが」

「それはそうでしょうね」

 レーヴェは当然といった様子だ。彼女はいかにもこんな儀式など信じていないようで、その変わらぬ無表情がアニエスはむしろ頼もしく思えた。

 エインタートを襲う災厄がすべてレアーマ族のせいだったはずがない。彼らをやり過ごしても別のものがかわりに襲いくるだけだ。世に都合の良い奇跡などありはしない。

 作り、壊され、直す。劇的な躍進は滅多になく、時に不毛にも思える営みを丁寧に続けていく。

 幸いにも今代の領主は地味な作業が得意であり、そのために必要な根気と時間を幾ばくか持ち合わせている。

 もう一杯水を飲み、アニエスは喉を整えた。

「クルツさん、皆さんを館の中に案内して休んでもらってください。レーヴェさんは工人ギルドへ連絡をお願いします。重機のほうは私が段取りをしますが、他に必要なものをリスト化しておいてください」

「承知いたしました」

「ネリーさん、ジークさんたちを呼んできてください。今後のことについて打ち合わせをしますので――」

 黒いローブの裾を翻して皆に呼びかけ、辺境伯は止まっていた仕事を再開した。

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