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45.嵐

 夜更けに風はさらに強まった。

 窓の鎧戸が激しく叩かれる音に、一度寝入ったアニエスもたまらず目を覚ます。

「ギャッギャッ!」

 床を走り回るリウがまた激しく鳴いている。

 空が唸りを上げていた。この世のものと思えぬ、怪物のような恐ろしい声に、夕方から少しずつ煽られてきた不安をさらに掻き立てられる。

(これ、まずいんじゃ)

 アニエスは外の様子を確認するため素早く着替え、ランプを片手に下へ降りる。

 だが階段の途中で、バリバリと凄まじい音がした。何かを力ずくで引き剥がすような。同時に、冷たい風が顔に吹きつけた。

(屋根が剥がれた!?)

 アニエスは風の障壁を展開させ、闇から襲い来そうな木片やらを防御する。階段を駆け下りればすでに、異常事態を察した館の者が廊下で右往左往していた。

「皆さん無事ですか!?」

「アニエス様!」

 呼びかけは幾人かに届き、ルーが真っ先に駆け寄って来た。アニエスは障壁を解き、再び声を張り上げる。

「皆さん食堂へ集まってください!」

 修復跡だらけの館がいつ崩れるともわからない。だがこの嵐では外に飛び出したところで無事ではいられない。一か所に人を集め、紋章術の障壁で防御し、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。

「転ばないように、気をつけて」

 ランプを高くかざし、食堂へ誘導する。

 今夜、館にいないのは見張り塔で番をしている血眼狼のメンバーのライナー、ハンネス、ブルーノの三人で、他は皆いるはずだった。しかし、いざ食堂に集まった者を数えてみれば人が足りない。

「先生と、レーヴェさんがいませんね」

 深く寝入って事態に気づいていないだけならば良いが、最悪、怪我をして動けなくなっている可能性がある。

「連れて参ります」

 すかさずジークが立つが、彼一人にまかせるわけにはいかない。

「リーンさんと一緒に行ってください。リーンさん、お願いします」

「了解!」

 アニエスは彼女と同じ風の紋章術を使えるリーンと二人で救助に向かわせた。

 待つ間、食堂内の一部に人を固めて周囲に障壁を展開させる。

 相変わらず激しく鎧戸が鳴り、それに呼応するようにリウが興奮気味に鳴く。勝手口や窓の隙間から吹き込む冷気もまたつらかった。

「アニエス様、一瞬壁を消してくれ。念のため窓を塞ごう」

 そう言い出したのは、血眼狼のベテラン勢であるダンクマールという罠師の男だった。彼はギルド内でネリーの師匠にあたる。

「ガラスが飛び散るのだけでも防いだほうが良い。テーブルをバラして使って良いかい?」

「それは構いませんが、道具は」

「あるとも」

 ダンクマールは己の工具箱を示した。用意周到に持ち出して来たらしい。

 他にも元ギルドの面々はナイフ程度の武器を皆、当然のように所持していた。

「セリムとヨハンはテーブルばらしてネリーに渡せ。トルステン、こっち来て端押さえててくれや」

 仲間に指示し、てきぱきとテーブルクロスを窓の内側に張りつけ、テーブルを解体した木材を釘で打ち付け補強する。アニエス、ルー、クルツ、トリーネ、グスタ、およびファニは離れてそれを見ていた。

「なあ、なんでファニにだけ何も言わない?」

「お前に金槌持たせたら窓叩き壊すだろ」

 おおざっぱな彼女は暗黙のうちに大工仕事から省かれたらしい。暇そうに床に足を投げ出していた。

 それから間もなく、ジークらが戻って来た。

 その腕にぐったりとしたレーヴェを抱えて。

「っ、怪我をされたのですか」

「窓が割れて、飛んで来たものが当たったようです。先ほど意識が戻ったところです」

 アニエスに説明しながら、ジークはそっとレーヴェを床に降ろす。

 応急処置として頭に巻かれた布には血が染みていた。他にもガラス片で切ったのか、手などに細かい切り傷がある。それらを見てアニエスのほうは血の気が引いてしまった。

「大丈夫ですか」

「・・・ええ」

 どうにか応じるレーヴェだが、顔が青ざめている。

「毛布かけな。ありったけ持って来たからよ」

 リーンと、リンケもまたそれらを抱えていた。彼女のほうは特に怪我は見当たらない。

「先生はご無事でしたか」

「私は良いのですが部屋の機器が壊れないか心配です。できる限りの処置はしてきましたが――まあ、今は人命が優先ですね」

 言ってリンケは空中に紋章術で小さな炎を出現させる。

 そしてレーヴェに毛布をかけ、隣に腰を下ろした。

「これならぬくいでしょう」

「・・・熱い」

 レーヴェは迷惑そうに身じろいだが、一方で火の温もりに強張った表情が少し和らいだ。

「レーヴェさん横になります? 良ければ膝お貸ししますよ」

 おどけた調子でトリーネが己の腿を叩く。どうやらレーヴェのことは彼女らにまかせて良いようだ。

 アニエスは窓の補強が終わった面々にも毛布を配り、皆で寄り添って夜をやり過ごす。

「ディノさんたち大丈夫かな」

 毛布にくるまり、ぽそりとルーが漏らした。

 現在、工事のため仮設住宅に住んでいる領民たちの安否はどうか。館の屋根すら飛ぶような嵐だ、悪い想像ばかり巡りアニエスはいてもたってもいられなかったが、暗がりの中に飛び出すことはあまりに無謀である。

(どうか無事で)

 祈ることしかできず、不安に軋む胸を押さえながら夜を耐える。


 嵐は時折弱まったり強まったりを繰り返しながら、夜明けの前に、消えていった。



 ◆◇



 東の空が白むと、すぐさまアニエスは館を飛び出した。

 工事現場の重機は横倒しになり、収納庫から零れた石炭が地面に飛び散っている。

 そして領民たちと工人ギルドが寝起きする長屋は、予想通り、無残に崩れていた。

「っ――・・・」

 見たことのない惨状だ。

 これまでアニエスがエインタートで目の当たりにしてきた、何もかもが過ぎ去り風化した荒野とは違う。

 まさに不幸に襲われている生々しい現場である。

(・・・竦んでる場合じゃない)

 腿を叩き、止まった足を動かす。

「皆さん無事ですか!」

 瓦礫の前にいる人々のもとへまず駆け寄った。

 長屋にいたのは基本的に工事の作業員であるエインタートの男たちだが、ローレン領の避難所から妻子とともに移って来ている者もおり、小さな子供の泣く声がどこからか響いている。

「――動ける方は領主館へ向かってください。食事や毛布を用意しています。怪我人は」

「アニエス様こっちです~!」

 離れたところから、手を振っていたのはディノの息子のマリクであった。緊急事態でも彼の声はいつもの通り間延びしている。

 領民たちは崩れた柱と布で風よけを作り、火を焚いた簡易な救護所に怪我人をいったん集めていた。そこには出血している者、骨折している者が多く寝かされている。

「怪我人はどのくらいですか」

「二十人くらいですかねえ。まだ瓦礫に埋まってる人がいるので親父たちが今助けてるとこです」

「死者は」

「ないです、たぶん、今のところは」

「わかりました。間もなく手配した馬車が来ますので、怪我人を乗せて館へ運んでください。引き続き介抱をお願いします」

「はいー、おまかせを」

「私は救助を手伝ってきます」

 アニエスは上空に浮かび、瓦礫をどかす人々を見つけそこに降りた。

 ディノら動ける領民や、工人ギルドのエッダらが工具を持ち、倒れた柱などを懸命に持ち上げている。そんな彼らも無傷ではなく、体のどこかしらに裂いた布を巻いていた。

「アニエス様! ご無事でしたかっ」

「私は大丈夫です。それより」

 喜色を浮かべるディノらをかわし、アニエスは太い柱を紋章術で浮かび上がらせる。上級術者ではないため一つ一つやっていくしかないが、それでも人力よりかは早い。

 間もなく、瓦礫に足が挟まっていた若者を救出できた。

「工人ギルドの皆さんは無事ですか」

「ま、うちの奴らは頑丈だからね」

 若者をディノらに預け、女頭領に確認すれば頼もしく応えてくれた。ギルドの工員たちも力を合わせて領民の救助に動いてくれていたようだ。

「館のほうはなんともないのかい?」

「屋根が一部飛ばされましたが、大きくは壊れていません。エッダさん、工人ギルドの何名かを館のほうへ派遣していただけませんか。そちらをひとまず避難所としたいので、整備を手伝っていただければ。館にあるものはなんでも使って構いません。必要であれば部屋の壁を壊して場所を広げても」

「お、言ったね。わかった、今すぐ向かわせよう」

「ありがとうございます」

 それから少しすると、空を飛んで行ったアニエスにジークやセリムらの面々が追いつき、救助と怪我人の介抱に加勢する。

 嵐が去っても寒空の下だ。雪のないことだけがせめてもの幸いと、暢気に言えるほど生温い状況ではない。

「まるで噂通りだね・・・」

 作業中にエッダの呟きが一度だけ聞こえた。

 魔物の他に、工人たちの界隈でこの地が忌避されるようになった天災がまたしても発生したのだ。

 しかし、災害だけは予期もできず責める相手もいない。考え事は後回しとし、今は一人でも多くを救うためアニエスは動き続けた。

 ディノなど各村のまとめ役である者たちに行方不明者を確認してもらい、救助隊を再編成、怪我人を優先的に領主館へ輸送する。

 空を飛べる機動力を活かし、全体の指揮を執りながら自らも救助を続けるうち、昼近くになるとローレン領から兵の一団が、荷馬車に物資を積んでやって来た。

 アニエスが同じく空を飛べるリーンに使いを頼み、救援要請を出していたのである。一団の中にはやはり、懲りずにラルスの姿があった。

 幸いなことに、あるいは不思議なことに、昨夜の嵐はローレン領には届かなかったらしい。

 彼らの到着を知らされたアニエスが埃まみれで出迎えれば、馬を降りた身綺麗な公爵に微笑まれた。

「我々は何をいたしましょうか」

 恒例である出会い頭の口説き文句は封じ、率直に指示を仰ぐ。アニエスは心から感謝して、物資と怪我人を館へ運んでくれるよう頼んだ。

 物資の置き場等を指示するため、アニエスも空を飛んで館へ向かう。

 エインタートにいた領民はおおむね八百名ほどだ。部屋をすべて解放しても全員が十分に休める場所はなく、ベッドは怪我人へ優先的に割り振り、その他は屋根を補修したエントランスに毛布などを敷き詰める。毛布や彼らの着替えは以前、四番目の姉のユーリエから重機とともに送られたものが非常に役立った。

 食事は外で火を焚き、いくつかの大鍋でスープが作られている。さらにその傍らで、大きな風呂が竣工されていた。

 体の泥を落として病の発生を防ぎ、また皆の心を落ち着かせるため、工人ギルドの者が工事現場にかろうじて残っていた木材を組んで急遽こしらえたものだ。そこへ井戸から地道に水を運び、リンケが紋章術で発生させた火を中に投げ込んで湯にしていた。

 精霊の火は水の中でも燃え続けて熱を発し、すぐに温めてくれる。だが水を入れる作業に時間がかかっていたため、アニエスはローレンの兵たちに物資の置き場と怪我人の搬入場所を伝えた後、紋章術を使って風呂の中に水を生み出した。

(今ならレギナルト兄様の横暴に感謝できる)

 無理やり紋章術を覚えさせられた恩恵は四年越しに得られた。

 それを実感しつつ、息つく間もなくアニエスはまた被災現場へ向かう。

 だが踵を返した途端、不意に膝が抜けた。

「おっと」

 よろめいたところ、ちょうど近くにいたラルスに助けられた。

「っ、すみません」

「構いませんよ。少しお休みになられては? 今にも倒れそうですよ」

 ラルスは己に寄りかからせるようにアニエスの肩に手を回す。

 紋章術は精霊の力を使うものであるが、制御には集中が必要で、いくらか精神力を消耗する。それを昨晩から使い続け、さらに睡眠も食事も不十分な状況では、精神、肉体ともに大きな負荷がかかっている。

 もともとアニエスは頑丈なほうではないのだ。緊張が続いて頭痛がし、吐き気もある。瓦礫の下敷きになった領民の姿、包帯に染みる血、倒壊した家々に心臓を抉り取られるような痛みを感じ、何度も気を失いそうになっている。

 それでも、アニエスは足に力を入れた。

「――倒れません。今は、絶対に」

 弱音は後だ。傷ついた領民たちの前でこそ強く立っていなければならない。

 そのために、尽きかけの気力を振り絞る。

 ラルスはそんなエインタート領主に満足そうな顔をし、手を離した。

「そうですか。ではお気をつけて」

 アニエスは頷き、再び空を飛んで行った。

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