31.乳魔物
重機という文明の到来は、エインタートの荒野を一挙に活気づかせた。
まずは工員たちのための仮設住宅の建設に取りかかり、二週間でそれがあらかたできてきた。
五か所の避難所から招集しつつある領民の男手と、フォス一家が住み込み、協力して家屋の建設や畑の整備を始めている。
工兵たちの雇用は重機の導入とともに目覚ましい効果をもたらした。
はじめこそギルド連中の荒くれぶりに臆していたアニエスだったが、仕事となれば彼らはよく調教された軍馬のように働いた。
重機の操作も滑らかなものだ。領民たちへの作業の指示出しはエッダを中心に滞りなく行われている。全体的に場慣れしており、アニエスが心配していたような不和もなく、順調に作業が進んでいた。
報酬以上の働きを見せられれば、アニエスの彼らに対する印象も変わる。
ついでにエッダらのアニエスへの対応も若干変化していた。それまでは不相応な地位にある小娘を舐めるような、慇懃無礼な態度を取っていたが、異界魚騒動後から口調に嘲りが含まれなくなってきた。
粗暴ではあるが、アニエスを見かければ足を止めて挨拶をするなど、その態度には一定の敬意が表れている。
彼らに雇い主であるときちんと認識されたためなのか、あるいは酒席で一人飲み勝ってしまった影響なのかは定かでないが、いかつい男衆に頭を下げられるアニエスはなんとも落ち着かない心地だった。とはいえ、やめてくれと頼むものでもない。
万事、悪くはない進捗状況である。
そんな、諸々が軌道に乗り始めた十月の末、コルドゥラが王都へ帰ることになった。
「お忘れ物はありませんか?」
来た時よりもさらに膨らんだ荷物を馬車に積む姉の背へ、アニエスは念のため声をかけた。
「ええ、大丈夫よ」
コルドゥラは朝から溌剌として答えた。
およそひと月にも及んだ異界魚調査は、ここで一度区切りとなる。
当初はもっと早めに帰還する予定であったのだが、重機の搬入を手伝うために、コルドゥラは調査期間を延ばしてくれ、さらにそこへオペルギットの飛来があったために滞在が延びた。
なおオペルギットは五日ほどエインタートの浜辺で遊んだ後、ヘウズギットの背を助走に使い飛び立っていった。エインタートには鳥の主食である溶岩の湧く火山がないため、友の魚との同居はあきらめたようだ。
今後もヘウズギットの調査は定期的に行われていく。
姉の協力を継続して得られることは、アニエスとしても非常に助かる。ヘウズギットがエインタートの海域に居座り、船を出せない受け入れられない状況はまだ改善できていないのだ。
「――あ、そうだアニエス」
すると、馬車に乗り込む前に、コルドゥラは右手を差し出した。
「はいこれ。今回の成果」
「え?」
押し付けられたものを見れば、それは片手に収まるほどの玉だった。
波紋の模様が表面に浮き出ている石であり、赤や黄褐色の層が重なり、まるで炎の色を移したかのようだ。
その模様にアニエスは見覚えがあった。
「《音籠め石》ですか?」
「そう。オペルギットの鳴き声を籠めてあるわ」
アニエスの手にある玉にコルドゥラが指先を当て、
「メルンピア」
と唱えると、大音量の鳥の鳴き声が響き渡った。
同時に、玉の表面に浮いた模様が美しく波打つ。
これは音籠め石と呼ばれ、音や声を覚えさせることができる特別な鉱石である。
この石には一つ一つに音の精霊が宿っているとされている。精霊は己が気に入った音を取り込み、石が砕けるまで永遠に記憶できる。
再生する時は、石に触れ精霊語で《震わせよ》と発語する。精霊語とは紋章術の紋章にも使われている、精霊と対話するための言語である。異界の人間がこの世界に伝えたものだ。
どんな音でも石に籠められるというわけではなく、あくまでも精霊が気に入った音ただ一つしか籠められない。録音機としては使い勝手が悪い。
だが、石は籠めた音によってその色を変化させるという、不思議な特性を持っていた。
好事家たちは石に籠められる音を探しては、美しい色を出させて愛でる。
この音籠め石、特別なものだがスヴァニルではあちこちで鉱床が発見されているため、さほど貴重ではない。よって気軽な収集家も多かった。
アニエスの身近にもいた。どんな趣味でも齧っておく気質だった父と、妹のシャルロッテである。
ただし妹が集めていたのは、彼女の母の歌声が籠められたものだけだ。
歌手であるシャルロッテの母は、どうやら音の精霊に心底愛されているらしく、新しい歌が作られるたび、それを多くの石が身に取り込み美しい色を呈した。
それゆえに、彼女は精霊を祀るこの王国において、知らぬ者のない歌手たりえているのである。
「止まれ」
再び石に触れ、コルドゥラが唱えればぴたりと鳴きやんだ。
「これを、どうすれば良いのですか?」
「ヘウズギットの誘導に使って。気を引いて入り江から一時的に引き離せるわ」
思わぬ朗報だった。
コルドゥラは妹の驚く顔を見て、悪戯が成功したかのように笑む。
「何度こんな手が通用するかはわからないけどね。今後もここじゃ色々とあるでしょうから、せめてものお守りとして」
「っ、ありがとうございます」
両手でアニエスは石を握りしめる。たったひと月で十分な成果だ。
「それじゃあ、また来月に王都で」
「はい、道中お気をつけて。このたびは本当に、本当にありがとうございました」
表しきれない感謝を込め、姉の乗る馬車が見えなくなるまで、アニエスは門前で見送った。
(・・・兄様や姉様たちに、こんなに助けられることになるとは)
蒸気機関の音を風に聞きながら、しみじみ思う。
アニエスは兄弟姉妹たちとそこまで仲が良いと感じたことはなかった。
不仲という程ではないにせよ、ほんの少し前までまったく血の繋がっていない人々かもしれぬと思っていた分、アニエス自身がなるべく距離を取るようにしていたのだ。
それが領地を再建することとなってから、兄姉たちは惜しみなく助力してくれる。そのことに不思議な心地がする。
申し訳なく、ありがたく、面映ゆい。
(恵まれている、私は)
もとより己を不幸だと思ったことはないが、改めて実感できた。
「アニエス様?」
その時、死角からリンケが生え、少々ぼうっとしていたアニエスは軽くのけぞった。
慌てて心の内の甘い思いを振り払い、領主たる意識を引き戻す。
「――はい、先生。どうしましたか?」
「例のニュクレですよ。本日ご案内いたすお約束でしたよね? 違いましたっけ」
言われてアニエスは思い出した。
「ああ、はい、そうでしたね。お願いできますか?」
「ええもちろん。すでに狩猟隊には準備してもらっております。いつでもどうぞ」
リンケが勝手に狩猟隊と呼ぶのは、セリムら害獣駆除隊のことである。
「わかりました。すぐに参ります」
アニエスは準備のため慌ただしく館の中へ戻る。
無事に着工できた今、次はそれを継続させるための金策、すなわち収入源の創出をせねばならなかった。
◆◇
草原に奇妙なものたちがいる。
遠目には馬に似ているが、足は短く太く、首だけがぬるりと長い。二股の蹄の痕はアニエスの片足より大きく、全身が鱗に覆われ、隙間からは白い羽毛が覗く。
丸い頭の側面からは派手な飾り羽が二枚ほど生えており、それが緑のもの、青いもの、黄色いもの、桃色のものとがいた。
顏付きは少々間が抜けている。それぞれにぼうっとどこか彼方を見やり、背高草を食んでいた。
彼らはニュクレと名付けられた魔物。リンケによれば、古くからエインタートの地に住まうものであるという。
魔物はすべてギギによって森に招集されたのだが、このニュクレだけはいまだ森の傍の草原にのさばっていた。というのも、彼らの好む背高草が森の中にないため、習性としてどうしても出てきてしまうのである。
だが森からあまり離れることはないため、アニエスも仕方なしに見逃していた。
「ニュクレはとても性格の穏やかな魔物です」
アニエスとセリムら四人は身を隠すこともなく、さほど遠くもない場所で魔物の群れを目にしながら、リンケの説明を受ける。
魔物たちが人間に気づいていないはずはないのだが、今のところアニエスらを警戒する素振りはない。ただただ草を食べている。
先日風邪をひいた折、アニエスはこの暢気な魔物の乳を飲まされた。
原料を聞いた時は思わずむせてしまったが、ニュクレの乳は口当たりがまろやかで良食味であった。エインタートの民も、古くからその乳を薬に用いていたと老人たちが語っていた。
ならば特産品にできるのではないか。それを検証するため、アニエスは今日こうして森の傍までやって来たのだ。
「頭の羽の色を見てください。桃色のものがメスの成体です。青はオスの成体で、黄色と緑はまだ子供です。繁殖期は数十年に一度ですが、母乳は年中出ます。成長が遅いので、子育て期間が非常に長いのです。乳は牛馬と同様、腹の辺りにありますよ」
検証のためにはまず乳を搾らねばならない。そのため、経験のあるリンケに一同やり方を教わっていた。
「近づけるのか? 撃って眠らせなくていいか?」
ファニが肩に担いだ銃を示す。魔物の種類によっては銃弾が体に貫通せず、気を奪うだけということもできる。
だがリンケは不要であると答えた。
「普通に歩いて近づけますよ。彼らも魔王と同じです。警戒心が薄い。そして動きは老人のように緩慢です。前回搾乳した時もまったく逃げませんでしたし、抵抗すらされませんでしたよ」
「ボケた奴らだなあ」
血眼狼の若き斬り込み隊長であるハンネスは、拍子抜けした顔をしている。一方、リーダーのセリムとアニエスの小心者二人はほっとしていた。
「ただし注意は必要です」
と、人差し指を立てリンケは説明を続けた。
「ニュクレの乳は計四つありますが、そのうち二つが偽乳で乳が出ません。偽乳とは乳に似た乳ではない突起です。なんの用途があるのかはまだわかっていません。搾乳の際は間違えて偽乳を搾らないようにしてください」
「間違えると何かまずいのですか?」
「はい。口から熱光線を吐きます」
一同は沈黙した。
それからおそるおそる、アニエスはリンケに確認する。
「・・・偽乳を搾ると、口から熱光線を吐くのですか?」
「はい。なぜか」
「偽乳を見分ける方法は」
「ありません。見た目に違いがないですし、個体によって配置も異なります。一回搾ってみて印を付けるしかないでしょうね」
リンケは軽く言ってのけたが、確率半分で攻撃を受けるというのはなかなかに分の悪いギャンブルだ。
「まあ大丈夫ですよ。ニュクレがこちらを向いていない時に光線を吐かせれば良いのです。ちなみにその光線、以前実験したところでは一瞬で牛の大腿骨を溶かしましたので、くれぐれもご注意を」
「・・・やはり、やめましょうか」
アニエスはすっかり弱気になっていた。
「そうですか? 私は良い考えだと思いましたよ。これだけニュクレの頭数がそろっているのは他の地域にはないですし、何より美味ですからね。少量生産でも儲けになりそうに思いますが」
「・・・」
言われると惜しい気がする。
だが、魔物料理がゲテモノ扱いされている世間の中で、魔物の乳を飲んでみたいと思う輩がどれだけいるのか不明である。
危険を冒して採取したところで、骨折り損になるかもしれない。あるいは売り込み次第なのかもしれない。どうにも迷うところだった。
「・・・皆さん、できますか?」
ひとまずセリムらに伺うと、リーダーは青い顔で、しかしはっきり頷いた。
「そ、そりゃ、そう訊かれたら俺らはできるとしか言いませんよっ」
「だなあ」
「ダイジョブ、できるできるっ」
ハンネス、ファニも銃を置き、かわりに空き瓶を持つ。魔物退治も請け負う彼らが、これしきのことで怖気づいてはいられない。
正直アニエスは不安しかなかったが、それを表に出せば彼らのプライドを傷つける。
よってまかせることとし、魔物らに忍び寄る兵たちをはらはらしながら後方で見守った。
そして、
「――伏せろおお!」
「またはずしたああっ!」
「セリムてめえいい加減にしろおおお!」
元来、貧乏くじを引くのが得意な元弱小ギルドの面々は、ことごとくはずれを当て、小一時間、草原を駆けずり回ったのだった。




