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14.猫の手

 騒がしい一日が更けていく。

 あらかた修復の終わった部屋にベッドを運び込み、エインタートの面々は今夜から個室で休めるようになった。

 独特な臭気がありつつ、歯応えはない魔物の肉をおそるおそる飲み下した後、各自が片付けや寝支度を整えているところ、アニエスは食事中に消えてしまったファルコの姿を探す。

 自由な兄のことであるから、何も言わずにすでに出て行っていたとしても驚きはしないが、果たして彼はアニエスの部屋にいた。

 寝室の隣の、執務室兼応接室である。

 机も椅子もない部屋の真ん中にハンモックを設置して、ファルコは寝そべりながらワインボトルを開けていた。

「・・・」

 予想の斜め上の寛ぎ方をされており、アニエスは少しの間、部屋の入口で立ち尽くす。

 それから気を取り直して兄の傍へ行った。

「飲むか?」

 自分で用意したらしいグラスを差し出されたが、遠慮する。酒に限らず、アニエスは嗜好品の類をあまり好まない。水とパンさえあれば生きていけると思っており、そういうところがつまらないアナグマなのだと、レギナルトにはよく管を巻かれた。

 ファルコのほうは断られても特段の反応もなく、自分のグラスに注いで一人飲む。無理強いされる気配がなかったため、アニエスは安堵してその場に留まった。

「なぜエインタートへいらしたのか、お聞かせ願えますか」

 そっと尋ねる。

 ファルコはワインを二口飲んでから答えた。

「お前が泣いてないかと思ってな」

 冗談なのか本気で言っているのか、アニエスはよくわからなかった。

「いや違うか。お前は泣かないんだったな。泣きそうな顔でぷるぷるしてただけだ」

「・・・なんのお話ですか?」

 妹が反応に困っているのも構わずに、ファルコは気ままに話を続けていく。

「昔、レギナルトがお前の本を汚したことがあっただろう。それを俺が水で洗って、火で乾かそうとしたら焦がして、お前は泣きそうな顔してた」

 言われて、徐々に記憶が蘇ってくる。アニエスが八歳か九歳頃のことである。レギナルトにうっかり本を汚されたことは何度もあるが、ファルコも関わっていたのはその一度きりだった。

(確か紅茶を表紙に零したのを、紋章術で洗ったんだっけ・・・あぁ、思い出した)

 すべてのページがべろべろに波打ち、表紙のタイトルが焦げて読めなくなっただけでなく、一体何をしたのか、背表紙が取れて中身がばらばらになりかけていた。

 兄たちに悪気がないことは、当時もわかっていた。なんとか元に戻そうと努力してくれた末に、事態を悪化させてしまっただけなのだと。

 しかし惨状の衝撃は大きく、アニエスは半泣きくらいにはなった。それでも、かろうじて涙を堪え、兄たちの誠意にその場で感謝を言えたのは、王家の子かも怪しい自分が、誰かを非難できる立場にはないと思ったためだ。

 そしてその結果、なぜかレギナルトに激昂された。

 大事な本を壊された挙句、ひどい剣幕で怒鳴りつけられて、その頃からアニエスはレギナルトが苦手になり、同系統に見えたファルコにも極力近寄らないようになったのである。

「あの時の詫びに、何か手伝えることがあれば手伝うぞ」

「・・・もう、昔のことです。お気になさらず」

 今更と言えば今更であり、ここに兄が現れる理由にはならないように思う。本をいきなり丸洗いする大雑把な人間が、当人にとってはささいであろう過去を気にしていること自体に、違和感がある。

 今も、ファルコは繊細さの欠片も窺えない笑みを浮かべているのだ。

「まあそう言うな」

「いえ。兄様のほうこそ、何かご用事があるのでしたら、おっしゃっていただければ、ご協力できることがあるかもしれません」

「別に用はないさ。だが、お前のことはまかされてるからな」

 ぽつりと、兄は奇妙なことを漏らした。

「・・・どなたに?」

 咄嗟に、アニエスは頭中に幾人かの顔が浮かんだが、どれもおかしい。頼りない自分を心配してくれそうな者は、家族か元の職場の人間くらいしかおらず、誰もファルコの所在は知らないはずなのである。

(それとも、誰かとは連絡を取っていた?)

 とすれば、真っ先に考えられる者が一人。

「・・・父様ですか?」

 我が子の自由を尊重する父ではあったが、行方をくらました息子に対する無関心な態度には、長年疑問を感じていた。

 アニエスと同じように思った者は他にもおり、ファルコ失踪後の一時期、王都ではこんな噂が流れたのである。

 すなわち、放浪の第五王子は、王が放った彼の《影》なのではないか、と。

 身分を隠し、王の目の届かぬ暗中の企てを探り出す。この都市伝説じみた噂がもし真実であったならば、父は定期報告で息子の居場所を知ることができる。だから捜さなかった、とするのは筋が通るようにアニエスには思えた。

 ファルコのことはあまりよくわからないが、父のことなら少しだけわかる。やや行き過ぎなまでに愛情深い彼が、我が子の安否を気にかけないはずがないのだ。

 実際にファルコが影として働いていたかは別にしても、父と連絡を取り合っていた可能性はある。

 ニコラスはアニエスにエインタートを相続させるつもりであったのだから、自由に動けるファルコに、様子を見るよう頼んでいたとしても不思議はない。

「ま、それもある」

 アニエスの推理を、ファルコは曖昧ながら肯定していた。

「で、どうだ。手を貸せることがあれば貸すし、いらんのなら出て行くぞ。ここの主はお前なんだから遠慮せず言えば良い。困ってることは、何もないか?」

 アニエスは言葉に詰まる。

(困り事なんてあり過ぎる)

 さしあたっては、如何ともし難い魔王と魔物の件だ。

 魔物を御す方法がない以上は、討伐しか手段がない。しかし、領内の魔物の正確な数はわからず、兵力の調達・維持にどのくらいの資金を費やすことになるか不明瞭であり、躊躇してしまう。

 当初の思いつきに沿い、森に魔除けの茨の柵を設置しようにも、領地のおよそ三分の一を占める面積を囲う茨を育てるのに何年かかるかわからない。また、森に閉じ込めるような真似をして、異星の魔人が怒り出さないとも限らない。

(たぶん、彼女を倒すのは無理だ)

 数の利というものが人間側にあるにせよ、なるべく犠牲は出したくない。少なくとも魔王側に積極的な交戦意思がないうちは、そっとしておきたいのが気弱なアニエスの本音である。

(これをファルコ兄様に相談して良いのか、どうか)

 迷って口ごもる彼女を、ファルコは期待を込めた眼差しで見つめていた。何か面白いことを待ち望んでいるようである。

 ややあって、アニエスは観念した。

「・・・実は、魔物のことで」

 トラブルメーカーの兄ではあるが、エインタートはすでに、これ以上ないほど壊れてしまっている。

 あの時の本とは違い悪化はしないと信じ、アニエスは藁にもすがる思いで相談してみることにした。

「ふうん」

 いざ話が始まると、ファルコはさしたる興味もなさそうな、気のない相槌を打つ。時折ランプにグラスを透かすようなことをしており、アニエスは本当に話を聞いてくれているのか途中で不安になってきた。

「――それで、どうやって領内の魔物をなくしたら良いのか、お知恵をいただければ」

 だんだん声が尻すぼみになりながら、現状の説明を終えて兄を窺う。

「すべてを討伐するのは、現実的でないと思うのですが・・・」

「だなあ。金もかかるしなあ」

 ファルコは深く頷く。それに合わせてハンモックが揺れた。

「俺が相手にできるのも、せいぜい日に一匹か二匹が限度だしな。討伐が無理だとすれば、せめて奴らを森に追い返せればいいわけか」

「はい」

「で、お前はそれを魔王にやらせたかったと」

「やらせると申しますか・・・彼女が真に魔物の王であったならば、王を説得できれば魔物たちに言うことを聞かせられると思ったのです。魔物一匹一匹を説得することは、できませんから」

 目論見が外れてしまうと、アニエスの中に有効な策は残っていなかった。本で知識を身につけることができても、自ら知恵を生み出すのは難しい。

「魔物を説得か」

 ファルコのほうは、妹の発言がツボにはまったらしい。喉を鳴らして笑っており、アニエスはわけもなく恥ずかしくなった。

「や、名君の発想だと思うぞ。自信持て」

「・・・ですが、うまくいきませんでした」

 するとファルコは笑みを収め、天井を見上げる。そして寸の間、黙していたかと思うと、「あ」と唐突に声を上げた。 

「魔王にすればいいんじゃないか?」

「え?」

「だから」

 ファルコはアニエスのほうへ上体を捻る。


「俺たちが、魔人を本物の《魔王》にするんだよ」


「えっと・・・」

 アニエスはすぐに理解できず、しばし固まっていた。

 ファルコは笑みを戻して、そんな妹の肩を軽く叩いた。

「明日、森に行くぞ」

「え」

「早く寝とけ? おやすみ」

 そう言って、ワインを床に置き目を閉じてしまう。

「兄様? ここでお休みになられるのですか?」

 確認のため訊いてみるも、返答はない。

(寝にくい)

 内扉の向こうの寝室に移っても、アニエスはしばらく隣が気になり、その日もあまり眠れなかった。

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