07_状況を把握せよ 3
部屋のドアが開く音で目が覚めた。
おおよその感覚だが、先ほど食事を摂ってからそれほど時間が経っていない気がする。
部屋に入ってきたのはこの娘の母親だった。
「起きていますか? ジョゼ」
「……はい」
「そのまま聞いて頂戴」
そう言って自分は枕元の椅子に腰かけた。
「今の貴女にこのようなことを言うものではないと思うのだけれど……」
何か切り出しにくい話のようだった。
「先ほど、アンナが私の元に来て、泣き腫らして帰っていきました。貴女、心当たりはおありかしら?」
あの侍女が?
……全く思い当たることがない。
「……いいえ」
「そう……。アンナから聞きました。貴女、アンナのことを別の名で呼んだそうですね?」
「……申し訳、ありません……」
「アンナはきっと貴女が混乱しているためだろうと言っていましたが、それでもやはり貴女が彼女のことを忘れてしまったのではないかと、ひどくショックを受けているようでした」
そう……、だったのか。
あのときは全然そんな素振りを見せもせず、優しく笑っていたのに。
主思いの優しく真面目な娘なのだろう。
本当に、申し訳ないことをした。
実際は忘れるもなにも、最初から全く知らないわけなのだが。
「直接そのことに触れて謝らなくても良いですから、彼女に優しくしておあげなさい。九つの時分から一緒に過ごした侍女なのですから」
「九つ……」
「そうですよ? ここに来てもう六年になりますねえ。実は昨日の晩、貴女が倒れたときも、彼女、随分と自分を責めていたのです。自分が長い時間そばを離れていたからだと。そのこともあって、さっきなど自分から暇を願い出るほどの有り様でした」
暇を? それは困る。
「駄目です。彼女を辞めさせないでください」
思わず起き上がろうとした俺の肩の辺りを押さえて、母親らしき女性がそっとなだめる。
「貴女はやはり優しい子ね。大丈夫。そんなことはしないわ」
寝ている娘の顔を優しく撫で微笑む母親。
心の準備は全くできていなかったが、今言うしかない。
この親子の間柄では決して隠し通せないと思った。
それに、時が経てば経つ程、それが分かったときには余計に傷つけることになる気がした。
「あの……、母上……」
「母上?」
彼女が怪訝な顔で聞き返す。
しまった。堅苦し過ぎたか。
このぐらいの年の娘は母親のことを何と呼ぶのだろう。
「お母様……、お話しがあります」
「どうしたのジョゼ? そんなに改まって」
「彼女は何も悪くないのです。悪いのは、私、です……」
女性のような言葉遣いをすることには抵抗があった。
自分を偽り、誰かを騙すことなど武家の者がする習いではない。
だが、これから打ち明ける話の衝撃を少しでも和らげるためには、このぐらいの嘘は吐き徹さなければならないだろう。
「実は私には全く記憶がないのです。傷付けてしまうことになって、本当に申し訳ないのですが、その……、お母様のことも、本当は……」
そこまで聞いただけで、彼女は自分の顔を覆って泣き出してしまった。
「そんな……。もしや、という思いはありましたが、まさか本当に……。ああ、そんな……」
俺はそんな彼女の様子を見るのが居た堪れなかった。
しかし、動けない身体では他にどうしようもなく、ただ天井の梁を見つめ続けた。
「いつからなのです? 昨日、倒れたときに?」
「……いえ。もっと前です。熱にうなされて、ようやく頭を働かせるだけの意識が戻ったときに、自分に思い出せる記憶がないことに気付きました。これまで言い出せずにいて、申し訳ありません」
また彼女がふさぎ込む。
俺は黙って彼女のすすり泣く声を聞いていた。
しばらくそうしていた彼女は、おもむろに、病床に横たわる娘の身体に覆い被さるようにして抱き締め、そうしてまた泣き始めた。
「ごめんなさい。私、自分のことばかり考えていたわ。貴女が私のことを忘れてしまったのだと考えるのが余りに悲しくて……。でも、本当に辛いのは貴女ね。私たちに気を遣って、言い出せなくさせてごめんなさい」
彼女の優しさと、感極まった彼女の涙声に釣られて、自分も涙ぐみそうになる。
強く抱き締められる温もりが……、もはや望んでも再びまみえることのできない俺の本当の母親の記憶を呼び起こし、いつしか俺は彼女の身体をそっと抱き締め返していた。
ひとしきり泣いたあと、居住まいを正し、手で涙を拭いながら彼女が言う。
「やはり貴女は優しい子。私の愛する娘だわ。もう何も心配しなくていいわ。もちろん記憶は戻って欲しいけれど、仮にそうでなくとも、貴女が私たちの大切な娘であることに変わりはないわ。だから安心して。自分を責めたり、焦ったりしなくていいの。貴女が病気を耐え抜いて、生きて戻ってきてくれたことだけで、私たちは嬉しいの」
それに言葉を返すために口を開こうとすると、嗚咽が漏れそうになった。
それを堪えるため、一旦口をつぐむ。
唾を飲み込み、もう一度意を決して口を開く。
「ありがとうございます。私こそ、貴女の娘でいられて、幸せです」
それは自分の言葉でもあったが、見も知らぬこの娘の想いを代弁した言葉でもあった。
勝手かもしれないが、こんなに大切に思われているこの娘は、きっとこのように言うべきなのだと思った。
「な、何言ってるの、この子は……。もう、女の子はちょっと目を離すとすぐに大人びてしまうんだから……。私はアンナのところに行って事情を説明してきます。それから、このことはお父様にもお話ししますからね? それまでにアンナに顔を拭いてもらって。お父様にはちゃんと笑顔をお見せするのですよ?」
顔を真っ赤にしながら彼女はそう言って、娘の部屋から出ていった。
残された俺は自分の目元に手をやり、指についた雫を見つめる。
母上が死んだあと、もう二度と泣かないと墓前で誓ったのに……。
これは、この娘の涙なのだから許してください。
と、俺は心の中で、もうこの世にはいない自分の本当の母親に向かって詫びるのだった。




