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エミーリアの初めて見た笑顔は、寂しげなものだった。
「そのような訳で、家を出た早々に怪我してしまい、正直、どうしようかと思っておりました。
ここまで連れて来て下さいましたこと、改めてお礼申し上げます」
そして、エミーリアは頭を下げた。と同時に、さらさらと、肩を赤い髪が滑り落ちる。
結い上げていたものが、転げ落ちた時に崩れてしまったのだろう。
辛うじて一部の髪を髪飾りが留めるのみだ。
乱れたその様子にもかかわらず、エミーリアの赤い髪は強烈なまでに美しかった。
思わず見惚れていたが、顔を上げたエミーリアを見て湧き上がったのは怒りだ。
エミーリアは、ラインヴァルトから辞去の言葉をかけられるのを待っている。
ラインヴァルトに注がれる静かな視線に、そう悟った。
『赤を持つ者』
赤い髪を持つシルゴート王国 王家にのみ誕生する存在。
ボーデンの加護を一身に受けるとされる、シルゴート王国にとって至高の存在だ。
『赤を持つ者』が男子であれば、それは、どの王位継承順位よりも優先され、王位に就く。
赤い髪を持たない『持たざる者』である父 ギルベルトとラインヴァルトが、それぞれ王と王太子であるのは、現王家に、『赤を持つ者』が存在しないために他ならない。
『持たざる者』が王位に居るせいで、天変地異や今回のような戦が起こるのだと、ボーデンはシルゴート王国を見限ったのではないかと、無能な『持たざる者』と。
臣下から、国民から、そう危惧され嘲られているのを、ラインヴァルトは知っている。
そして、それは身分不相応な地位にい続ける自身が背負い続けなければならないものであると、知ってもいる。
だが、彼女はどうだ。
あんなに焦がれ続けた赤い髪を持った彼女。
その彼女は素知らぬ顔で、ただ、この場から立ち去ることを望んでいるのだ。
「エミーリア」
「ーーはい」
呼べば、エミーリアはラインヴァルトの怒りの様子を感じたのだろう。
怯えた様子で返事をした。
ここで逃がしてなどやるものか。
ラインヴァルトは、エミーリアの手を取り、軽く力を入れる。
柔らかな白い手がラインヴァルトの手の中で震えた。その瞬間、ラインヴァルトは先程とは違う衝撃を受けた。
ーーああ。
彼女は、至高の赤い色を持つ『女性』なのだ。
淡褐色の大きな瞳は不安に揺れている。立襟で半分隠された、その首は手と同様白くそして細い。座らせる際に腕を回した腰は細く華奢で、今はその色を失くしているが、先程までは淡い桃色に染まっていた頬はふっくりと柔らかそうだ。
凄烈な存在感を放つ赤い髪を持つ、まだ年若い可憐な娘。
彼女こそ、誰よりも『持たざる者』であるこの私が護っていかねばならない存在だ。
天啓を得たように感じた。
「…私たちと共に来て欲しい」
ラインヴァルトがそう言うと、エミーリアは目を見開いた。
後方に控える者たちが、ざわりと空気を揺らした。
特に背中に感じる鋭い視線はアレクシスからだろう。
ああ、護衛たちのみならず、アレクシスの存在さえ忘れていた。
そう内心苦笑する。
ふと視線をずらせば、エミーリアの髪に草が付いているのに気付いた。
先程、礼を取った時に髪が地に触れてしまっていた。そのせいだろう。
そう思った時には自然と手が動いていた。
ラインヴァルトは、恵美の髪を一房手に取り、撫でる。艶やかで絹のように滑らかだ。
髪に付いた草を取り、そして、髪に唇を寄せた。
ほのかに花の香りがした。
ラインヴァルトが顔を上げると、きょとんとした表情を浮かべるエミーリアと目が合った。だが、それも一瞬で逸らされ、じわじわと頬を桃色に染め上げていく。
可愛らしいその様子に、自然、口角が上がる。
このまま愛で続けたいが、そろそろ静止の声がかかるだろう。
辛抱しきれないといった空気を背中に感じ、ラインヴァルトは、エミーリアの髪から手を離した。と同時に、案の定、「ライヴァ」とアレクシスに呼ばれた。
アレクシスの声は震えている。
怒りが声に現れているのだろう。
ラインヴァルトは苦笑してから、エミーリアの髪を離した。
「エミーリア、しばし待ってくれ」
ラインヴァルトはそう言って立ち上がると、踵を返した。
元来た方向へ進むと、アレクシスたちが従うのが分かる。
後方に残したエミーリアをちらと確認すれば、彼女を連れてきた兵士二人が側に残っていた。
良い判断だ。
ラインヴァルトは目を細め、一人微笑んだ。
*****
先程、一緒にいた隊長たちは持ち場に戻らせ、護衛たちにも少し距離を置いてもらう。そうして、やっとアレクシスは口火を切った。
「どうしても、彼女を連れて行くと言うのか」
その言葉に、ラインヴァルトは頷く。
「勿論だ。『赤を持つ者』である彼女を、どうしておいて行ける?
聞けば、養い親から突然追い出されたというではないか。
私たちに彼女を保護しろという、ボーデン様のご意志だろう」
「怪しいとは思わないのか?
彼女の説明は曖昧だし、第一、こんな所に王家の血筋がいるわけがないだろう?」
「さあ、分からないぞ。父か祖父が、どごぞの女性に産ませた子かもしれない。クルトの姓を名乗るのだから、お前の妹の可能性だってある」
「ライヴァ!」
肩をすくめてそう言ったラインヴァルトに、アレクシスは声を荒げた。
「頼む。冷静になってくれ。
ティエンサン公国が、髪を染色する技術の開発に成功して、スパイを送り込んできたという可能性だって、ないとは言いきれないのだぞ」
「私は冷静だ」
ラインヴァルトが、眉を寄せ露骨に不愉快さを表すと、アレクシスは大きくかぶりを振った。
「いいや、冷静じゃない!
彼女自身が赤い髪に何も感じていないのが、その証拠ではないか?我々にとって、『赤を持つ者』がどれ程重要か理解していないのだろう。ならば、彼女が他国民だと考えるのが自然だ」
「エミーリアは、記憶が曖昧だと言っていた。それならば、おかしくはあるまい。自分が『赤を持つ者』であるということを忘れているのだろう」
ラインヴァルトがそう返せば、アレクシスは、ふんと鼻で笑った。
「それこそ、あり得ないだろう。彼女の言葉が真実だとして、養い親が彼女の髪を見て何も言わない訳がない」
「……ああ、そうだな」
「なら!」
声を荒げたアレクシスをじっと見つめると、アレクシスはぐっと口を閉ざした。片眉を吊り上げ、不服そうな様子を隠すこともしない。
「だが、彼女は本物だ」
静かにそう言い切ると、アレクシスは目を見開いた。
「何を根拠に」
「私が、『持たざる者』であるこの私が、エミーリアを『赤を持つ者』だと肯定している。それが、何よりの証だ」
その言葉に絶句するアレクシスを見て、ラインヴァルトはくつりと笑う。
アレクシスの方が正論を言っているとラインヴァルトも分かっている。
証拠を、理屈をと常に求め。
思い込みを捨て、平等に。
王太子として、ラインヴァルトは、それを常に心掛け行動しているつもりだ。
だが、それでも、あの美しい赤い髪が偽物だとは思えなかった。
「それでも、不安だと言うのなら」
反論の言葉を、アレクシスが再度言い出す前に、ラインヴァルトは、先手を打って話し始めた。
「エミーリアが偽物だった場合、私が始末をつけよう。私が、ボーデン様のいらっしゃる天界へお連れする」
「その言葉、信じていいな?」
「勿論だ」
ラインヴァルトが頷くと、アレクシスは、大きな息を吐いた。
「城にも俺の両親にも、彼女のことは知らせるぞ。指示を仰ぐ。それと、彼女は俺が預かるぞ」
「…どうしてだ」
アレクシスが納得してくれたと、安堵したのもつかの間、最後の言葉に目を瞬かせた。
問えば、アレクシスは目角を立てる。
「彼女が何者かは知らないが、クルトの姓を名乗る以上、俺が預かるべきだろう。これが、妥協点だ」
吐き捨てるようにそう言ったアレクシスは、一度深呼吸をして怒りを鎮めている。
しょうがない。ここまで認めさせただけで満足すべきか。
「分かった。アレクに任せる」
ラインヴァルトは、アレクシスの肩を叩き、エミーリアへと視線を移した。
少し遠くで、残った兵二人と何事か話している。
笑みも見せているで、安心するのと同時に、少しもやもやとした感情も覚えた。
その笑顔は私に向けてくれ。と、そう思ってしまい、思わず苦笑をこぼす。
そして、エミーリアの方へ再度歩みだした。
エミーリアまで、あと少しというところで、「ああ、そうだ」とアレクシスを呼ぶ。
近付いてきたアレクシスの耳に囁くように告げる。
「ーーエミーリアの養い親についても、きちんと調べたい。アレクの言う通り、養い親がいる以上、エミーリアが『赤を持つ者』であると知らないのは、おかしい。
わざと教えなかったのか、彼らもまた、知らなかったのか。それとも、やはり、その養い親がエミーリアを拐かしたのか。どちらにしろ、問題だ」
その言葉に、アレクシスは真剣な瞳で頷いた。




