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「この家から出ていってほしいの」



リディアから伝えられたその言葉は、忘れていたことをふと思い出したかのように軽い調子だった。


机の上には、ハーブティーが入ったカップが三つ置いてあり、湯気が上がっている。恵美の向かいにハロルド、その横にリディアが座っていた。

恵美が作ったクッキーを、リディアは手を叩いて喜んでくれ、ハロルドも美味しそうに食べてくれた。


そんな、今では当たり前になった日常が、リディアの一言でその様子を一変させた。


恵美は意味が分からず、呆然とした。その後、絞り出した声は、自分でも驚くほどか細いものだった。

「…何か粗相をしたのでしょうか?」

恵美のその言葉に、リディアは首を横に振る。リディアの横のハロルドを見ても、少し眉を下げただけで、何も言わなかった。

「では、何故…?」

一年目と違い、今では自分がリディアやハロルドの役に立っているという自信がある。それなのに、何故、急に、そんなことを言うのか。


「あら、私は最初から言っていたでしょう?エミがこの世界に慣れるまで、この家で生活してもらおうと思ってるって。

もう、慣れたでしょう?だから出て行ってちょうだい」


リディアは、そう言って相変わらず美しく微笑んだ。



恵美は秋が好きだった。実りの秋は家の周囲を散策するのも、ハロルドやリディアに連れられて行く、麓の村やその先の町への買い物もどれもが楽しい。

最近では、草には朝露がつき冬の足音も聞こえている。冬支度について最終確認を行う時期だ。

冬用に暖を取るアスタイトも、もう少し大目に購入したほうがいいかもしれない。乾燥させた薪はどんな様子だろう。ハロルドの厚手のコートを新調した方がいいだろうか。綿をたくさん入れて、厚手のキルトも作りたい。

次に町へ行った際は、新しい本もほしい。ハロルドの本のほとんどを占める随筆も、今まで難易度が高く敬遠していたが、読んでみようか。


考えることはたくさんあった。やりたいこともたくさんあった。



反論したい。

だが、リディアの自分を見る目を見て、その言葉を変えるつもりのないことを悟った。

悟らざるを得なかった。


リディアは一つ決めたら、それを譲らない。

恵美はそれを、この四年の滞在で嫌というほど知っていた。

恵美はぐちゃぐちゃな心情が口から出て行かないように、口を堅く引き結んだ。

そして、一度だけ小さく頷けば、リディアは「良かった!」と恵美の感情など御構い無しに明るく手を叩いた。



「早速、今日出て行ってね」

「今日ですか!?」


慌てて声をあげた恵美を、リディアは無視した。それだけでなく恵美を荷造りするようにと部屋へと追いやった。


恵美はどうしたら良いかも分からず、部屋で一人呆然としてしまう。


少しの時間を置いて顔を出したリディアは、やはり、そんな恵美に気遣いを見せることも無く手に持つ小さな袋の中身を説明し始めた。


リディア曰く、その袋には水や食べ物、そして数種類の薬が入っているそうだ。

リディアに促されるまま、恵美はそれとともに数着の服やハロルドからもらった髪留め、リディアとおそろいの櫛などを布に包む。

最後に布の口をしっかり縛り、恵美がそれを抱えれば、リディアは満足そうに頷いた。


「用意できたわね?」

朗らかに尋ねるリディアを罵りたくなるが、恵美はそれをなんとか抑えた。

「大丈夫です」

うつむきがちにそう告げた恵美は、その態勢のまま、リディアに手を引かれ、玄関へと連れて行かれた。

玄関の前にはハロルドがいた。心配そうな顔だ。

そんな顔をするくらいなら、引き止めてくれたらいいのに。そう思った。



リディアは恵美を玄関前に立たせると、簡単にまとめただけだった恵美の髪を手に取り、結い上げた。リディア自身の髪をまとめていた髪留めをとり、それで恵美の髪を留める。それから長方形の布を持ってきた。


麓の村へ行く際、リディアは必ず布で頭部を覆う。恵美も、村へ向かう際はリディアと同じようにするよう言われている。

村で見かける女性の多くがそのようにしていたから、そういうものなのだろうと、その指示に従っていた。

いつもは各々で髪を覆うのだが、今日はリディアが恵美の頭から首にかけてしっかり覆ってくれた。



「エミ。私から、最後のプレゼントをあげる」

髪を覆い終えたリディアはそう言って恵美の頬を撫でた。

「これから、あなたはエミーリアよ。エミーリア クルト。そう名乗りなさい」

「…エミーリア」


リディアは先ほど出ていくよう伝えた時とは違い、とても暖かな視線を恵美に向けた。


「エミ。ボーデンの加護を強く持つ娘。

エミーリアという名は、昔ボーデンから厚い加護を与えられた者の名前よ。

貴女ほど、その名前にふさわしい者はいないわ。その名前は貴女をきっと守ってくれる」

リディアは頬を撫でる手を留め、その頬にキスをした。

「あなたの旅路が無事であるよう、お祈り申し上げます」


「――エミ」

それまでずっと無言だったハロルドが、声を発した。恵美はリディアと向き合っていた体を、ハロルドへ向ける。

「訳も分からず追い出され、不満ばかりだろうが…」

ハロルドはそこで言葉を切り、恵美を抱きしめた。

「エミ、大丈夫だ。君は絶対に幸せになれる」

恵美は、そのハロルドの大きな腕の強い力と同時に彼の強い想いも感じ、ハロルドの腕の中で大きく頷いた。


「さあ、いってらっしゃい」

リディアの声を受け、ハロルドは玄関の戸を開けた。紅葉が美しい木立が目に入る。


「お世話になりました」

深々とお辞儀をしてから、恵美は外へ一歩足を踏み出した。


**



一歩玄関を出れば、その扉はすぐに閉ざされた。


本当に、追い出されてしまったと、途方にくれてしまう。だが、ここに居続ける訳にもいかない。


村へ向かおう。


恵美は、ひとつため息を吐き、山を下り始めた。


足が重い。

村へ一人で向かうのは初めてで、緊張もあるのだろう。



そう。独りなのだ。


この世界に連れてこられてからのことが、走馬灯のように流れる。

突然現れた自分を、何か事情を知っているにしろ受け入れてくれたハロルドとリディア。

四年間、たくさんのことを教えてくれた。たくさん楽しませてくれた。

異世界人としての孤独を感じたのは、二人のおかげで数えるほどしかない。


ああ。そうだ。二人は、私を大切にしてくれていた。それが、一番大事なことだ。

突然追い出されたこと。それはおそらく、悪意ある行動でも、突然の思い付きでもない。何か、理由があるのだろう。

この世界に連れてこられた時のように。言えない理由が。


ならば、もうどうしようもない。

二人を恨むより、今後どうするかを考えなければ。


思考に、ようやく光明が差した気がして、恵美はうつむきがちだった顔を前に向ける。

そのとたん、視界にいっぱいに飛び込んだのは、木立の切れ目。

「あっ!」

恵美が小さく声を上げた時には、恵美の足は宙を切り、体は既に傾き始めていた。

落ちる!!

そう思うのと同時に浮遊感があり、その後すぐに大きな衝撃が恵美を襲った。



**


痛い。


背中とお尻に鈍痛が、右足首からふくらはぎにかけて鋭い痛みがある。手にも多少の擦り傷が見え、服は汚れ肘部分は破けている場所もある。

顔は傷ついてないようだ。恐る恐る首を軽く動かすが、なんともない。

それらに安堵しながら、そのまま顔を上に向けた。

自分が落ちた場所が、一メートルほど上に見えた。


それほど高さがなかったことは、不幸中の幸いだろうか。



思考に溺れて、曲がるべきところを曲がり損ねたのだろう。失態に恵美は自分を罵る。



また右足に鋭い痛みが襲い、恵美はそれに顔をしかめた。


右足は、冷やしておいた方がいいだろう。足首丈のスカートをめくりあげて確認したところ、赤く熱を持っている。

今夜には腫れあがってきそうだ。

少し離れた場所に荷が転がっているのが見えた。

恵美は痛みに耐えながら手を伸ばし、荷から水の入った革袋を取る。そして、頭に巻かれた布を取り、皮袋に入った水でしっとりと濡らした。その布を、右足首とふくらはぎを覆うように巻きつける。


また、擦り傷を水で洗い、リディアに持たされた薬の内、傷薬を選びその箇所に塗った。


早速使うとは思わなかったが、これで多少はましだろう。



恵美は改めて周りを見渡す。

身体がすっぽり入る大きさの楕円形をした窪地に、自分が着地したのだと知った。

少し下には、五メートル程先まで低木が広がっている。

ほぼ山は下りてきているのだろう。

それらより遠くには平地がある。


悪ければ、この低木まで落ちていた可能性もあるということに気づき、恵美は冷や汗が出るのを感じた。


枝に棘がある種類の木ではないが、そこに落ちていたら、痣や切り傷はこの程度では済まないだろう。



立ち上がれないだろうか、と恵美は痛む身体に力を入れてみる。

鋭い痛みが響いた。



ああ、もう嫌・・・。


不安が押し寄せ、恵美は涙ぐむ。

いきなり家を追い出され、この状況だ。


泣きたい。泣き喚きたい。


だが、そうすることで事態が好転する訳はない。

それよりも恵美がすべきことは、痛みを我慢して、這い上がることだ。


そう覚悟を決めた所で、その涙でにじんだ視界の端に人影があるのに気づき、恵美は涙をぬぐって目を凝らした。

人が二人、低木の先を歩いているのが見えた。

「人だわ!」

恵美は、せいいっぱい大声を出し大きな動作で腕を振る。背中からくる鈍い痛みに耐えながら、根気強く恵美が続けたおかげか、二人は、少し時間を置いたものの恵美に気づいてくれたようだ。

こちらへ向かって進み始めてくれる様子に、恵美は安堵の息を吐いた。


低木とは言っても二人よりも高い木々で、恵美の位置からは時折頭の天辺が動くのが分かった。


しばらく待っていると、方向を確認するように「そんな所でどうした?」「大丈夫か?」という声が聞こえてきた。


「大丈夫ですが、怪我していて動けないんです」

そう返した後すぐ、恵美の居る場所の真下に二人の男が現れた。


恵美と同い年くらいの男たちは、二人ともよく日に焼けている。一人は茶色の短髪とそばかすの散った鼻に琥珀色の瞳を持ち、もう一人は黒色のウェーブがかかった髪を後ろで一つに結んでおり、黒の瞳はすこし釣り目だった。


風が、恵美の乱れた髪を揺らした。

髪を片手で抑え真下に向けて体を乗り出し、恵美は微笑みを浮かべる。


「助けに来て頂き、ありがとうございます」


恵美は、その言葉を言ったときようやく、男たちが驚愕した様子で目を見開いているのに気付いたのだった。

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