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翌朝、慣れない衣装を四苦八苦しながら身に付けて恵美がリビングへ行くと、もう既にハロルドは居なかった。
リディア曰く、恵美の生活に必要な物を買いに行ってくれたらしい。
突然の居候の為にわざわざ出掛けてくれたハロルドに、申し訳ない気持ちで一杯になる。
眉を下げた恵美を見て、リディアは笑った。
「気にしなくていいのよ。エミにも、ちゃんと労働力を提供してもらうのだから」
その言葉に、恵美は大きく頷いた。
「勿論です!何をしたらいいですか?」
「ふふ。色々あるわよ。でも、先ずは朝食を食べて頂戴」
朗らかな様子でそう言うと、リディアは朝食を整え始めた。
恵美が席に着き、用意してもらった朝食に手を伸ばすと、リディアは満足そうに笑い、お茶の用意を始めた。
少し固めのパンと温かなスープの朝食は、じんと心と身体に染み入るようだ。
かちゃという小さな音を立て、恵美の側にカップを置いたリディアは、昨日同様、恵美の前の椅子に腰を下ろした。
「恵美にお願いしたいのはね…」
食べながらでいいから聞いてと言うリディアの言葉に甘えて、咀嚼を続けながら、恵美は耳を傾けた。
リディアから与えられた仕事は、暖炉の掃除と家事の一部だった。
燃え残ったカスを片し、新たなの薪の補充をして、リディアと家事を分担して行う。
リディアは家事があまり得意でないから、恵美が手伝ってくれると助かると言って笑った。
そんな日々のおかげだろう。
それから十日経ち、今ではアスタイトという石の使い方も、だいぶ慣れてきた。
アスタイトは、火や水以外に、土、風、金など、様々な属性を持つ石がある。
それを押したり引いたりといった動作を起こせば、なにがしかの現象が起こるのが、とても面白かった。
アスタイトの恩恵で生活水準は低くなさそうだ。
電気の通っていない田舎で暮らすというような生活だろうか。
戸惑いはあるものの、耐え難い暮らしではなさそうで、ほっと息をつく。
この世界では、科学技術の発展の代わりに、アスタイトの力に指示を出す装飾研究が盛んらしい。
電気はなくとも、アスタイトの力でそれに似た作用を起こす。
冷蔵庫のような保冷庫には、冷やす指示が付加されたアスタイト。
火のアスタイトが置かれたキッチンでは、調理用にその火加減も操作出来るよう、工夫されている。
家の灯は火を灯したランプが主だが、アスタイトの作用で光るランプも最近は出回るようになったそうだ。
恵美たちが暮らす家は、高地にあるため夏でも涼しい。今は初秋で肌寒いことも多く、そのため暖炉が欠かせない。
これが冬になれば、暖炉の火力をもっと強め、さらに寒さを遮断する指示を与えられたアスタイトを使用するようだ。
上下水道さえ、アスタイトの力で整備されている。
また、仕組みはよく分からないが音の増幅等もアスタイトにより操作出来るらしい。
恵美たちの暮らす高地まで聞こえる鐘の音は、麓の村から聞こえると聞いて、恵美は流石に驚いた。
スピーカーのようなものがあるのだろうと、今は想像している。
いつか、テレビのように映像も映せるようになりそうだ。
そのように様々な用途で使用されるアスタイトだが、乗り物などには使用されていないらしい。
この国の一般的な乗り物は、馬や馬車だという。
ここまで様々な物に使用されるアスタイトが何故乗り物には使われないのか。
リディアにその理由を尋ねると、「ボーデンが好まないのよ」と端的な答えを得た。
アスタイトが神の加護の証なら、そういうこともあり得るのか。と、異世界を実感する結果となった。
ハロルドによる言葉の勉強は、ほぼ毎日行われている。一文字一文字を書いて、発音して、覚えての繰り返しだ。三十字と文字数自体は多くないが、見慣れない形のため覚えるのに苦労した。
『エミ』『リディア』『ハロルド』と、三人の名前が書けたときは感動を覚えたほどだ。
今はハロルドが山を下り村へ行った際に買ってきてくれた幼児用の絵本を教科書にして、単語と簡単な文章を勉強中だ。
そもそも会話が成り立たないのだ。
ハロルドの身振り手振りや、絵本に書かれた絵と単語で想像するしかない。推察できない場合は、リディアのもとへ行き尋ねる。そうすれば勝手に翻訳されるので、意味を知ることができた。
この十日間で他に感じたことといえば、やはりリディアとハロルドの仲の良さだろう。
リディアの言い分を、ハロルドが苦笑しながら聞くというスタンスが多いが、しかし最終的な決定権はハロルドが持っているのも、恵美はこの十日間で知った。
恵美が「リディア、ハロルド、仲いい」と、片言ながらハロルドに伝えたら、彼が破顔したのは記憶に新しい。
そんな生活を、十日以降も続けていく。
そして、あっという間に恵美がこの世界に来てから、一ヶ月が経った。
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その頃には、恵美は簡易な文体で書かれた小説を読めるようになった。
この世界の言葉は、英語の文法の方式と似ていた。
恵美は英語が得意だったし、英語の勉強より身が入っているからだろう。
スピーキングはまだ片言が抜け切らないが、ヒアリングは徐々に形になってきた。
習得の速さに、もしかしたら、ボーデンの加護も関係しているのかもしれないと、リディアは言うが、それならそれでも良いと恵美は思う。
勝手に連れてきたのだから、それくらいはして貰わなくては、と思うくらいだ。
恵美が言葉に理解を示すようになると、次第に二人から家事や言葉以外のことを教わるようになった。
暖炉に新たな薪を追加してソファに座ったハロルドは、恵美を呼び、側に来るようにと言った。
「さて。エミ、今日は地理について教えよう」
「地理…。この国、世界?」
この国とこの世界の地理について?と、なんとかこの国の言葉を使ってそう問えば、ハロルドは目尻を和ませ、頷いた。
側に行けば、机の上に紙とペンが置いてある。
恵美が横に座るのを確認して、ハロルドはペンにインクを付け、まず方位を示した。
次に紙に三つ横に並んだ円を描く。
左右の円に比べて紙の中心の円は小さめだ。
それから右の円は六等分に、左の円はまず四等分にした後、右のスペースを二等分にした。
「これが、この世界の形だ。大まかだがな」
ハロルドの言葉に、恵美は身を乗り出し、描かれた円を見た。
「中心の円は父神の御座す、カルラ山。
右の円はナルラ大陸、左の円はマルラ大陸という。
ナルラ大陸の南北にはそれぞれ二の妃神と三の妃神が、マルラ大陸の北に一の妃神、西に四の妃神が加護する国が位置している」
ハロルドはそう言って、大陸名と円のそれぞれに『一、二、三、四』と数字を書いた。
次に、それぞれ兄弟神の上から加護を与える国を説明し、そして、最後に、左円を描いた際、最後に二等分したスペースの下側ーー南に近い方に、『シルゴート王国』と書いた。
「この場所が、我々が暮らすシルゴート王国だ」
ここが。
私の居る国。
恵美は、ハロルドに再び声をかけられるまで、じっとその場所を見つめていた。
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シルゴート王国は、その名の通り、国王を頂点とした国だ。
だが、その一方でボーデンを祀る神殿は、国の機関とは独立して存在しているらしい。
神殿は、下宮・中宮・上宮神殿に分けられる。その内、下宮・中宮神殿は、信仰の場であると同時に、医療福祉機関としての役割を担う。
下宮・中宮神殿が国民に添った存在として、各地に配置されているようだ。
その一方で上宮神殿は、王宮の端にあり、下宮・中宮神殿を管理し、医療福祉分野の研究発展に力を注いでいる。
しかも、全神殿の頂点に位置する上宮神官長は、ボーデンの意志を伝える力を持ち、国王と同等の地位さえ持っているらしい。
リディアは、元々は上宮神官だったようで、医療分野への造詣が深い。
庭に植えられた様々なハーブは、リディアの手によるものだ。
さらにリディアはそれらを用いて、ハーブティーを作るのを得意としている。
また、流石に茶葉は麓の村で購入しているが、数種類の茶葉をブレンドし、リディアやハロルド好みのものや、その時々の気分に合うものを作成していた。
恵美もまた、リディアからハーブや茶葉のブレンドについても教わり、夢中になった。
それ以外に、裁縫についてもリディアから教わっている。
また、食事のマナーや仕草といった礼儀作法は、リディア、ハロルドの二人から厳しく指導されるようになっていた。
そうして過ごしていくうちに、実りの秋はあっという間に過ぎ去った。
三人で、厳しい冬を越し、穏やかな春に喜び、生命力漲る夏を満喫し、そして、また秋を迎える。
季節が廻る。
恵美は、確実にこの世界での時を重ねていった。
片言だった言葉を、よどみなく話せるようになった。
裁縫は、刺繍やキルトの作成を一人で出来るようになった。
この国の礼儀作法は、完璧だとハロルドから太鼓判を得た。
リディアのハーブ園の一画を譲り受け、恵美もハーブの栽培を行うようになった。
また、恵美がブレンドした茶葉や作ったハーブティーも、キッチンには増えてきた。
なぜ、この世界に来たのか。それは分からないまま。
それでも、恵美はこの世界で、リディアやハロルドの力を借りて、精一杯生きて、生活していった。
そうして、恵美が二十歳になった五回目の秋。
「この家から出ていってほしいの」
恵美は突然リディアに、そう告げられた。




