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自室で読書をしていた恵美は、ジェシカから名前を呼ばれ本から視線を上げた。

聞けば、ジェシカはイリーネが恵美を呼んでいるらしい。恵美は読書を中断し、すぐにジェシカと共にイリーネの元に向かった。


イリーネの部屋に行き、訪いの言葉の後すぐイリーネの侍女の一人 サーラに導かれ、恵美はイリーネの部屋の中央に置かれたソファに座った。サーラの手によって机の上は素早く茶器や様々なお菓子に彩られていく。


サーラは灰色の髪を持つ四十代の女性で、イリーネが王女だった時から仕えているらしく、侍女というより友人に近い存在なのだろうと恵美は思っている。

そんな彼女を筆頭にイリーネ付きの侍女はあと三名おり、その三名を背後に控えさせたイリーネは続きの部屋からやってくると恵美の前に座った。


「エミーリア。実は城へ行くことになったの」

「お城へですか?」

突然の報告に恵美は目を瞬かせる。鸚鵡返しで尋ねれば、イリーネは微笑んで首肯した。

「ええ。今日、陛下からご招待の手紙が届いたの。城にある私の滞在用でしばらく過ごさないかとね。

この夏は戦時中で社交会が催されなかったこともあってレスターと離れて領地にいるのだけど、戦が終わってもまだレスターは多忙で帰って来れないそうなの。私がそれに文句を言い出す前に陛下が先手を打ってこられたのでしょう」


「まあ、素敵ですわ」と明るい声で相槌を打ったサーラに、イリーネはうなずく。

「ええ、本当に。陛下も良いご判断をしてくださったこと。レスターにいつでも会えると思うと嬉しいわ」

イリーネは勝気に瞳を光らせながら、ほほと上品に笑声を上げた。


一方の恵美はイリーネの報告からサーラとのやり取りまでを呆然と聞いていた。

恵美をこの屋敷に残してイリーネがしばらく留守にするということだろうか。恵美の疑問が分かったのか、イリーネはその微笑みを深くした。


「もちろんエミーリアも一緒よ。今年の年越しは城で迎えましょう」


そう言ってから、イリーネは背後に控えさせていた三名の侍女たちへ向けて、「五日後には出立できるよう手筈を整えてちょうだい」と準備するように促した。

それを受けた彼女たちがイリーネ、恵美の順に礼を取り去っていくのを満足そうに見てから、イリーネは恵美へと視線を移す。そして、恵美と視線が合った瞬間、表情を真剣なものに変えた。


「陛下のお誘いが建前だということは、分かっているわね?」

それは、疑問の形をとっていたが、イリーネの声音は確信していると暗に告げていた。


「城に着いたら、貴女はきっと大きな渦に巻き込まれることになるでしょう」


それはどういう意味かと問おうとしてやめた。そんなこと分かりきっている。恵美はこくりと唾をのみこむと、右手を左手で強く握りしめた。


この一か月。

フラムスティード公爵邸での生活は幸せだった。心穏やかに過ごせるよう、イリーネの配慮が行き届いていたのだろう。


赤い髪を持つだけで、『赤を持つ者』に与えられるための好意や配慮を恵美がいただく。それに罪悪感を覚えながらも、気づかないふりをしてこのままここにいたいとさえ思った。


そのツケを払うときが来たのだ。


王家の血をひいていない恵美は『赤を持つ者』を騙っていると断罪されるのだろう。


「…覚悟しています」


そう答えれば、イリーネはその強い視線をほんの少しだけ和らげた。


「きっと貴女の想像とは違う方向に事態は進むと思うわ」


それに恵美が首を傾ければ、イリーネは「どちらにせよ」と今度はしっかりと笑みを浮かべた。


「私は、エミーリアはもうクルト家の一員であるつもりなの。レスターなんて貴女を養女にしようと張り切っているわ。だから何も心配しなくてよろしいのよ」


その一言に、恵美は感激のあまり泣きそうになる。頬が震えているのが分かり、必死に抑える。


『赤を持つ者』でないと分かれば、彼女はこのように優しく接してくれないだろう。そう思っていた。

だが、イリーネは決してそうではないと言ってくれているのだ。

イリーネは涙ぐむ恵美に暖かな視線を向けた後、明るい声音で城での滞在についての話を始めた。


城で過ごすことになる場所は『芙蓉殿』と呼ばれる、イリーネ専用の宮らしい。

その名の通り、夏には美しい芙蓉の花が咲くのだと言ったイリーネに向けて、恵美は目じりをぬぐって微笑む。


「夏になったら一緒に見ましょう」

イリーネからのその言葉に、恵美は強くうなずいた。



それから五日はすぐに過ぎ、出発の日となった。出発は早朝からとなり、恵美は馬車に乗り込んだ。イリーネと馬車は別だが、ジェシカとは一緒のため不安も少ない。

恵美の乗る馬車の前後を守る者たちの中には、見慣れたアンディとブレットが混じっているのが馬車の小窓から見え、それも安心の度合いを上げていた。


今日は、移動が長いということでいつもより重ねた衣は少ないが、髪をずっと布で覆わねばならないと言われていた。

恵美だけでなくジェシカも髪を布で覆っている。イリーネもエミーリアほど髪をしっかりと覆うのではなく紗をまとい軽く髪を隠していた。それを珍しく思い、尋ねれば、ジェシカは笑って自身の頭の布に触れた。


「女性の多くは、外出時、このように常に髪を覆うものなのです。髪を覆うのは未婚の者が多いですが、身分の高い女性は既婚でも髪を隠されることも多くございます」

ご存じありませんでしたか、と尋ねられ、恵美は首を傾け記憶を探る。

確かに、リディアとともに暮らしていたころ訪れたことがある山を下りた先の若い村娘たちは頭を布で覆っていたような気がする。

『赤を持つ者』の証である赤い髪を隠すために髪を覆うように言われているのだと、ずっと思っていた。

いや、もちろん赤い髪を隠す必要性からというのは理由として大きいのだとは思うが、それだけではなかったのだろう。


恵美は内心で嘆息する。

私の悪いところだわ、物事に疑問も持たずただ受け入れるばかりなのは。


「女性が髪を隠される理由はなんなのですか?」


恵美の疑問に、ジェシカは目を細め、自身の立襟で隠された鎖骨をなぞった。

恵美を見るその視線は、妹を見るような優しさがにじんでいた。


「布で覆われた髪や襟で隠された鎖骨といった隠された部分は、男性方にとっては誘惑そのものなのですよ。これらが晒される時を想像させ、狂おしいほどの恋情を胸にいただかせる」


ジェシカの言葉に、恵美は思わず頬を染め首元に触れる。髪ならば外出時以外で見せることは多いが、鎖骨となれば別だ。

この国の女性の服はすべて立襟なのだ。つまり、鎖骨を男性にさらすときというのは、肌を見せる時ということだ。


「このブラウスの襟にはそのような理由があったのですね」


空いた手で熱を冷ますように顔へ風を送れば、ジェシカは首を横に振った。


「私たちが着る立襟ブラウスや髪の毛を布で覆う理由は、もともとは違う理由です。今ご説明したのは、理由ではなくそれによる副産物的な効果になります」

「では、もとの理由はなんなのですか?」

「神様から守るためです」

「神様から守るため、ですか?」

鸚鵡返しに問えば、ジェシカはうなずく。


「我が国の神 ボーデン様はご自身の妻--今は巫女神と呼ばれていますが、巫女神様の銀色の髪が彼女のまろやかな鎖骨の上に流れる様子がとても好きだったと伝えられています。長い髪と鎖骨を晒すことによって、ボーデン様の目に留まり、自分の妻や娘が天界につれていかれるのを防ぎたいと考えた男性方の策がこの立襟なのです」

「それは、また・・・」

空いた口がふさがらない。

ボーデンは、『赤を持つ者』といい、今の話といい、よほど髪にこだわりがあるのだろうか。


「ボーデン様は髪がお好きなのですね」


なんといえばよいか分からず思ったままを伝えた恵美が布の上から頭をなでれば、ジェシカは笑った。

その笑みはどこか妖艶だ。


「男性ってなんだかかわいいと思われませんか?」


その言葉に、女性のしたたかさを感じる。


「最初は男性から望まれた格好が、今や女性の武器なのですね」


そう言って恵美がある種の尊敬を込めた目をジェシカへ向ければ、ジェシカは満足そうにうなずいた。




馬車は何度か休憩をはさみながら進んでいき、紺色が空の端に滲み始めたころ、その日止まる宿に着いた。

そこは以前ラインヴァルトたちと止まった『赤羽』とよく似ていた。

むしろ、それよりいくらか華やかだ。やはり、王都に近づいているからなのかもしれない。


次の日は、昨日同様朝から出発し、馬車に揺られる。窓から馬車の中へ穏やかな日差しが差し込んでくる頃、窓から外をそっと覗くと、馬車が進んでいるのは、広い整備された道だった。

その道は立派な外壁で守られる街と街を、そして王都へとつながる道だ。広い道のわきから伸びる道は、それぞれ小さな村や町へとつながるらしい。


大きなカーブを曲がるとき、アンディの後ろ姿と彼の乗る馬のお尻が見えた。背をしっかり伸ばし、颯爽と馬を走らせる様子は格好が良く、思わず見とれた。


時折、恵美たち一行と馬車や馬を走らす人とすれ違うが、数は多くない。

紅葉した森林や冬野菜が育つ畑、刈り終えた麦畑に、素朴な秋の草花。

通り抜けた街では商店や家々が並び、活気ある人々の営みが、馬車の中からでも感じられた。


美しい国なのだ。恵美は初めてそう思った。

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