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「この度は、お慶び申し上げます」


そう言った理由は結局教えてもらえそうにない。

リディアは笑顔のまま、いつか分かると繰り返すだけだからだ。

そんなリディアは澄ました顔でお茶を飲んでいる。恵美は眉を下げてその様子を眺めた。

リディアに分からないようにそっと嘆息し、自身もお茶を飲む。お茶は少し冷めていて、渋みが強くなっていた。



「さて。それではエミ、何から教えてほしい?」

「え?」

お茶の苦味に思わず顔をしかめた所でかけられた突然の問いに、恵美は瞬時に反応出来ず目を瞬かせた。


そんな恵美に、リディアはふふっと笑う。


「何から教えて欲しいのかしら?」


ゆっくり、噛んで含めるような言い方だった。


先程の言葉の理由は教えてくれないのに…。


恵美は眉を寄せそうになるのを、一度首を横に小さく振ることで抑えた。


そのことに拘ってばかりではいられない。

状況を把握しなければ。


「ここはどこですか?」

「私の家よ」

「…なぜ、私はここにいるのでしょう?」

「知らないわ」

「……」


リディアの返答は、恵美の眉間に皺を結局、刻まさせることになった。


この女性は、質問に本当に答えるつもりがあるのだろうか。


困惑と落胆、そして怒りが心に生まれる。

リディアを睨むように見れば、だが、彼女は、美しい微笑みを浮かべ、恵美を見ていた。


ああ、違うな。


リディアのその美しくも静かな微笑みに、恵美はふとそう思った。

彼女はおそらく恵美が知りたい情報を知っている。でも、教えたい情報しか教えるつもりがないのだ。


ならば、聞くことは一つしかない。


「リディアさん」

「なあに?」

恵美の呼びかけに、リディアは微笑みを浮かべた表情を崩すことなく、ゆっくりと返答した。

「リディアさんが私に教えてもいいと思っている情報を、すべて教えてください」

恵美の問いに、リディアは目を見開き、微笑みを浮かべる口元を崩した。だがそれも一瞬で、すぐに目を細め、口は再び笑みの形を描いた。

恵美を見つめながら、リディアは了承の返事をした。恵美はリディアを見つめ返す。

リディアの瞳が、きらきらと煌めいて見えた。



**


恵美は、リディアによって案内された部屋の扉を開けた。リビングに当たるのだろう暖炉のあった部屋 とは違い、少しひんやりした、それでいて少し埃っぽい空気が恵美の脇を通った。

リディアは既に横にいない。隣の部屋から大きな布を持ち出し、それを恵美に渡すとすぐにリビングへ去っていった。

渡された布は、綿が入っているのか少し厚みがあった。キルトのようだ。


キルトを両手で抱いて、一歩部屋へと進む。


小さな物置のような部屋だ。

えんじ色というのだろうか、濃い赤色をした大きな長方形の木箱が扉正面の壁面に、その右側にはホウキやハタキ等の掃除道具が、左側には四足が付いたキャビネットがあった。そのキャビネットの横には、少し汚れた横長のソファが置いてある。

目立つものはそれくらいで、後は本が積まれていたり、木箱がなぜか床に置いてあったり、麦わら帽子が転がっていたりと、細々としたものが雑多にあふれている。

足の踏み場がないとはこういうことを言うのかと、恵美は思った。


点々と存在する物が置かれていない床を、飛び石を踏むようにして歩き、ようやくソファにたどり着いた。その上で、恵美はキルトを頭から被り、膝をかかえた。



どうやら、ここは異世界らしい。


リディアの説明は、恵美にとって信じがたいものだった。



この世界には、十二人の神がいる。

父神と、彼の妻である四人の女神。そしてその子供が七人。

これら十二人のうち、父神以外十一人それぞれが加護する国を持ち、その十一人の内、末の息子であるボーデンが加護する国 シルゴート王国に、恵美は今いるらしい。


そして、ボーデンを祀る神官だったのだと、リディアは自身のことを説明した。


『神官だった』

その言葉通り、それは過去のことで、今は職を辞しているらしい。ただ、リディアは、ボーデンの眷属に近しい血筋を持つことから、ボーデンから特に加護を受けている人が判るのだと言う。

そして、恵美がそれに当たるらしい。


「エミ。貴女は、ボーデンに特別に加護を与えられた。そして、彼によってこの世界に連れてこられた」

絶句する恵美に構わず、リディアは言葉を続ける。

「ボーデンは、貴女にこの世界ーーいいえ、この国で生きることを望んでいるのね」

そう告げた彼女は、やはり微笑んでいた。



何故、異世界の神が恵美に加護を与えたのか。

どうして、この世界へ連れてきたのか。

そして、元の世界へ還ることができるか。


部屋に独りでいると、疑問ばかりが不安と同時に押しあがってくる。


恵美がソファに身を横たえると、カビと埃のにおいが鼻についた。それは恵美に涙を誘い、涙が一筋流れると、止まることなく頬を流れだした。



**


寝てしまったのか。

恵美はのろのろとソファから身を起こした。涙でべたついた顔が不快だった。

それにしても、どれくらい寝たのだろう。だいぶ、寝た気がする。空気の冷たさからして朝かもしれないな、と思う。


恵美はソファの上で軽く腕を伸ばした。


たくさん泣いたせいか、まだこの現状に納得はできていないものの、少しすっきりした気がする。


一つに結んだままだった髪を解き、そのまま手で梳く。長時間結んでいたせいで癖が残ってしまったようだ。真っ直ぐなはずの髪の中途半端な部分が、うねっている感触がする。

髪が涙でべたべたの頬に張り付き、不快感もあった。


鏡が見たくなり部屋を見渡せば、雑多に物が落ちている床に小さな手鏡を発見し、それを拾い上げる。鏡を見れば、情けない表情をした女がそこにいた。

泣きはらしたせいで、瞳は真っ赤に充血している。


「ああ、目さえも髪と同じ色になってしまった」


鏡の中の自分を見つめながら呟いた声は、思ったより、大きく部屋に響いた。



恵美の髪は赤色だ。

褐色ではない。朱色に近い色味をしていた。

その髪のせいで、幼い頃から誹謗中傷を受けて育った。

両親共に黒髪なので、それが余計に周囲に奇異に映ったのだろう。


実際は、隔世遺伝なのだ。

祖母は外国の人で、恵美の物心ついた時には既に白髪だったが、娘時代は同じ色合いの髪を持っていたらしい。


「大丈夫よ、恵美。恵美の髪、私は大好きよ。とても、とても美しい髪だわ。神に祝福された色よ」


この髪は異質だという思いは、未だ恵美の心に燻ってはいる。だが、そんな祖母の口癖に、どれほど救われただろう。



祖母を思えば、他の家族を、日本での生活を思い、また泣きそうになる。

思いを振り切るようにして、恵美は部屋を出た。



リビングへと行くと、すでに暖炉では薪が燃えていた。炎の橙色の温かさは、恵美の心を安らげてくれる気がした。

リディアは、キッチンで忙しそうにしていた。恵美がリディアに声をかけると、リディアは手を止め振り向き、恵美の顔を見て目を丸くさせた。

顔を洗えたら良かった。

思わず頬を触る恵美に苦笑しつつ、リディアは席に着くよう恵美を促した。

「もうすぐで朝食ができるから、待って頂戴」

そう言って、リディアは濡れたタオルを恵美に渡した。そのタオルを有難く受け取り、顔を拭く。タオルの冷たさが心地よかった。


朝食は、丸いパンが二つと目玉焼きに、昨日とは風味の異なるハーブティだった。パンは周りが固く、中はふわっと柔らかい。焼き立てなのか、まだ温かさが残っていた。目玉焼きは黄身までしっかり焼いてある。

「美味しいです」

恵美はリディアに一言告げ、その後は夢中で食べた。

最後に爽やかな後味のハーブティを飲みほし、ふと我に返る。

ひどくがっついてしまった。

向かいに座ったリディアがこちらを見ている分、余計に、恵美は羞恥心を覚えた。

確かに、昨日はここでクッキーを食べただけで、それ以降何も食べていなかった。それでも、こんなに無我夢中に食べるなんてマナーも何もあったものではない。


「ご馳走様でした」

食後の挨拶だけでも、と恵美はリディアの顔を見て頭を下げた。リディアは、それに微笑みで返す。食器を流しへ持っていこうと椅子から腰を浮かべると、リディアに引き留められた。


恵美が座りなおすと、リディアは机の上で手を組み、微笑みを深くした。


「エミ、元の世界へいろいろ思いはあるでしょうけど、今はあきらめて頂戴ね」


美しい笑顔でとんでも無いことを言う。


恵美は絶句した。

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