2
「この度は、お慶び申し上げます」
そう言った理由は結局教えてもらえそうにない。
リディアは笑顔のまま、いつか分かると繰り返すだけだからだ。
そんなリディアは澄ました顔でお茶を飲んでいる。恵美は眉を下げてその様子を眺めた。
リディアに分からないようにそっと嘆息し、自身もお茶を飲む。お茶は少し冷めていて、渋みが強くなっていた。
「さて。それではエミ、何から教えてほしい?」
「え?」
お茶の苦味に思わず顔をしかめた所でかけられた突然の問いに、恵美は瞬時に反応出来ず目を瞬かせた。
そんな恵美に、リディアはふふっと笑う。
「何から教えて欲しいのかしら?」
ゆっくり、噛んで含めるような言い方だった。
先程の言葉の理由は教えてくれないのに…。
恵美は眉を寄せそうになるのを、一度首を横に小さく振ることで抑えた。
そのことに拘ってばかりではいられない。
状況を把握しなければ。
「ここはどこですか?」
「私の家よ」
「…なぜ、私はここにいるのでしょう?」
「知らないわ」
「……」
リディアの返答は、恵美の眉間に皺を結局、刻まさせることになった。
この女性は、質問に本当に答えるつもりがあるのだろうか。
困惑と落胆、そして怒りが心に生まれる。
リディアを睨むように見れば、だが、彼女は、美しい微笑みを浮かべ、恵美を見ていた。
ああ、違うな。
リディアのその美しくも静かな微笑みに、恵美はふとそう思った。
彼女はおそらく恵美が知りたい情報を知っている。でも、教えたい情報しか教えるつもりがないのだ。
ならば、聞くことは一つしかない。
「リディアさん」
「なあに?」
恵美の呼びかけに、リディアは微笑みを浮かべた表情を崩すことなく、ゆっくりと返答した。
「リディアさんが私に教えてもいいと思っている情報を、すべて教えてください」
恵美の問いに、リディアは目を見開き、微笑みを浮かべる口元を崩した。だがそれも一瞬で、すぐに目を細め、口は再び笑みの形を描いた。
恵美を見つめながら、リディアは了承の返事をした。恵美はリディアを見つめ返す。
リディアの瞳が、きらきらと煌めいて見えた。
**
恵美は、リディアによって案内された部屋の扉を開けた。リビングに当たるのだろう暖炉のあった部屋 とは違い、少しひんやりした、それでいて少し埃っぽい空気が恵美の脇を通った。
リディアは既に横にいない。隣の部屋から大きな布を持ち出し、それを恵美に渡すとすぐにリビングへ去っていった。
渡された布は、綿が入っているのか少し厚みがあった。キルトのようだ。
キルトを両手で抱いて、一歩部屋へと進む。
小さな物置のような部屋だ。
えんじ色というのだろうか、濃い赤色をした大きな長方形の木箱が扉正面の壁面に、その右側にはホウキやハタキ等の掃除道具が、左側には四足が付いたキャビネットがあった。そのキャビネットの横には、少し汚れた横長のソファが置いてある。
目立つものはそれくらいで、後は本が積まれていたり、木箱がなぜか床に置いてあったり、麦わら帽子が転がっていたりと、細々としたものが雑多にあふれている。
足の踏み場がないとはこういうことを言うのかと、恵美は思った。
点々と存在する物が置かれていない床を、飛び石を踏むようにして歩き、ようやくソファにたどり着いた。その上で、恵美はキルトを頭から被り、膝をかかえた。
どうやら、ここは異世界らしい。
リディアの説明は、恵美にとって信じがたいものだった。
この世界には、十二人の神がいる。
父神と、彼の妻である四人の女神。そしてその子供が七人。
これら十二人のうち、父神以外十一人それぞれが加護する国を持ち、その十一人の内、末の息子であるボーデンが加護する国 シルゴート王国に、恵美は今いるらしい。
そして、ボーデンを祀る神官だったのだと、リディアは自身のことを説明した。
『神官だった』
その言葉通り、それは過去のことで、今は職を辞しているらしい。ただ、リディアは、ボーデンの眷属に近しい血筋を持つことから、ボーデンから特に加護を受けている人が判るのだと言う。
そして、恵美がそれに当たるらしい。
「エミ。貴女は、ボーデンに特別に加護を与えられた。そして、彼によってこの世界に連れてこられた」
絶句する恵美に構わず、リディアは言葉を続ける。
「ボーデンは、貴女にこの世界ーーいいえ、この国で生きることを望んでいるのね」
そう告げた彼女は、やはり微笑んでいた。
何故、異世界の神が恵美に加護を与えたのか。
どうして、この世界へ連れてきたのか。
そして、元の世界へ還ることができるか。
部屋に独りでいると、疑問ばかりが不安と同時に押しあがってくる。
恵美がソファに身を横たえると、カビと埃のにおいが鼻についた。それは恵美に涙を誘い、涙が一筋流れると、止まることなく頬を流れだした。
**
寝てしまったのか。
恵美はのろのろとソファから身を起こした。涙でべたついた顔が不快だった。
それにしても、どれくらい寝たのだろう。だいぶ、寝た気がする。空気の冷たさからして朝かもしれないな、と思う。
恵美はソファの上で軽く腕を伸ばした。
たくさん泣いたせいか、まだこの現状に納得はできていないものの、少しすっきりした気がする。
一つに結んだままだった髪を解き、そのまま手で梳く。長時間結んでいたせいで癖が残ってしまったようだ。真っ直ぐなはずの髪の中途半端な部分が、うねっている感触がする。
髪が涙でべたべたの頬に張り付き、不快感もあった。
鏡が見たくなり部屋を見渡せば、雑多に物が落ちている床に小さな手鏡を発見し、それを拾い上げる。鏡を見れば、情けない表情をした女がそこにいた。
泣きはらしたせいで、瞳は真っ赤に充血している。
「ああ、目さえも髪と同じ色になってしまった」
鏡の中の自分を見つめながら呟いた声は、思ったより、大きく部屋に響いた。
恵美の髪は赤色だ。
褐色ではない。朱色に近い色味をしていた。
その髪のせいで、幼い頃から誹謗中傷を受けて育った。
両親共に黒髪なので、それが余計に周囲に奇異に映ったのだろう。
実際は、隔世遺伝なのだ。
祖母は外国の人で、恵美の物心ついた時には既に白髪だったが、娘時代は同じ色合いの髪を持っていたらしい。
「大丈夫よ、恵美。恵美の髪、私は大好きよ。とても、とても美しい髪だわ。神に祝福された色よ」
この髪は異質だという思いは、未だ恵美の心に燻ってはいる。だが、そんな祖母の口癖に、どれほど救われただろう。
祖母を思えば、他の家族を、日本での生活を思い、また泣きそうになる。
思いを振り切るようにして、恵美は部屋を出た。
リビングへと行くと、すでに暖炉では薪が燃えていた。炎の橙色の温かさは、恵美の心を安らげてくれる気がした。
リディアは、キッチンで忙しそうにしていた。恵美がリディアに声をかけると、リディアは手を止め振り向き、恵美の顔を見て目を丸くさせた。
顔を洗えたら良かった。
思わず頬を触る恵美に苦笑しつつ、リディアは席に着くよう恵美を促した。
「もうすぐで朝食ができるから、待って頂戴」
そう言って、リディアは濡れたタオルを恵美に渡した。そのタオルを有難く受け取り、顔を拭く。タオルの冷たさが心地よかった。
朝食は、丸いパンが二つと目玉焼きに、昨日とは風味の異なるハーブティだった。パンは周りが固く、中はふわっと柔らかい。焼き立てなのか、まだ温かさが残っていた。目玉焼きは黄身までしっかり焼いてある。
「美味しいです」
恵美はリディアに一言告げ、その後は夢中で食べた。
最後に爽やかな後味のハーブティを飲みほし、ふと我に返る。
ひどくがっついてしまった。
向かいに座ったリディアがこちらを見ている分、余計に、恵美は羞恥心を覚えた。
確かに、昨日はここでクッキーを食べただけで、それ以降何も食べていなかった。それでも、こんなに無我夢中に食べるなんてマナーも何もあったものではない。
「ご馳走様でした」
食後の挨拶だけでも、と恵美はリディアの顔を見て頭を下げた。リディアは、それに微笑みで返す。食器を流しへ持っていこうと椅子から腰を浮かべると、リディアに引き留められた。
恵美が座りなおすと、リディアは机の上で手を組み、微笑みを深くした。
「エミ、元の世界へいろいろ思いはあるでしょうけど、今はあきらめて頂戴ね」
美しい笑顔でとんでも無いことを言う。
恵美は絶句した。




