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恵美がフラムスティード公爵邸の客人として扱われるようになって、三日目の朝を迎えた。


フラムスティード公爵邸の数ある客室の内、恵美にあてがわれたのは大きな窓がある部屋で、今その窓のカーテンは開けられ、朝の光が部屋に差し込んでいる。



「エミーリア様。髪を結い始めますね」


恵美を世話してくれることになった侍女のジェシカに声をかけられ、恵美は鏡台の鏡を見た。


鏡越しでジェシカに頷くと、ジェシカはふっくらとした頬を緩めて恵美の髪を櫛で梳かし始めた。



ジェシカは、ふっくらとした体とはちみつのような柔らかい色味の髪を持っている可愛らしい女性だ。

怪我により上手く動けず戸惑うばかりだった恵美を初日から甲斐甲斐しく世話してくれており、二つ年下なのだそうだが、余程しっかりしていると恵美は思う。


ジェシカは恵美の髪を器用に、かつ手早く結い上げていく。その様子を鏡越しに眺めながら、恵美は痛めた足を軽く動かす。まだ痛みが残るものの、だいぶ良くなってきているようだ。


こんなに早く良くなるのは、やはりイリーネが心を配ってくれるおかげだろう。ジェシカを側に付けてくれ、しっかり治療もしてくれた。


イリーネは出会ってから変わらず恵美に優しい。



「公爵夫人なんて他人行儀な呼び方よして頂戴。おばさまとか、イリーネと呼んで?」


初対面で泣いてしまったことを謝った際、イリーネは快活に笑うとそう告げた。


「謝罪よりもそう呼んでもらえる方が嬉しい」とそこまで言われてしまえば、受け入れるしかない。

恐縮しながら「イリーネ様」と呼べば、彼女は破顔し、また抱きしめてくれた。


お茶のブレンドやハーブティーの調合が好きなこと。

読書が好きなこと。

裁縫は、出来るが得意ではないこと。


二日間で様々な話をした。その中で、イリーネは恵美については質問してくるが、ラインヴァルトたちとは違い、恵美の身の上については聞いてこなかった。

興味がないのか、わざとそのことを避けているのか。

恵美はよく分からない。

だが、それが心地よくもあった。



「エミーリア様」


ジェシカに名前を呼ばれ、意識をジェシカへと向ける。

「本日、旦那様ーーいえ、フラムスティード公爵様が城より戻られます。しばらくお城だと伺っておりましたが、急遽、予定を変更されたとか」

「フラムスティード公爵様が…」


鏡の中で自身の顔が強張るのが分かった。


予定を変更したということは、恵美のことが城に伝わったのだろう。


彼は恵美を見定めに戻ってくるのかもしれない。


恵美が、先程のジェシカの言葉を反芻しているうちに、ジェシカは恵美をどんどん貴族令嬢のように仕立て上げていく。


「出来ました。お美しいです、エミーリア様」


花を模した銀色の髪飾りを髪に差し込んだ後、全体を確認してから、ジェシカは鼻の穴を膨らませ、満足げに恵美に告げた。


「ありがとうございます」


恵美の言葉にジェシカは嬉しそうに頬を緩めた。





恵美の元にイリーネからお呼びがかかったのは、部屋でジェシカに淹れてもらったお茶を飲んでいた時だった。

イリーネの私室にすぐに来るようにと言う。


とうとう、フラムスティード公爵が帰ってこられたのだ。恵美は無言でカップをソーサーに置くと立ち上がった。




イリーネの部屋を訪ねると、そこには既に一人の男性がいた。

その男性は、イリーネと寄り添いソファに座っていたが、恵美の入室に気付くとスッと立ち上がった。



レスター ライオネル クルト。


シルゴート王国の中でも一、二を争う広大なフラムスティード領を治め、法務大臣を任されている彼は、敏腕家として広く知られている。


ジェシカからそう聞き、どんな人物だろうと思っていたのだが、今、目の前にいるのがそうだなんて、正直信じられなかった。


レスターは薄い毛髪に恰幅の良い体型で、典型的な中年男性だった。


「レスター。この娘がエミーリアよ」


イリーネはレスターに、どこか自慢気に恵美を紹介した。


「お初にお目にかかります。イリーネが夫 レスターと申します」


レスターは、にこりと笑った。その愛嬌がある笑顔に、レスターの丁寧な挨拶に戸惑いつつ恵美もまた自然笑顔になる。


「フラムスティード公爵様。お会いでき光栄でございます」


恵美がレスターに礼を取ると、恵美のその仕草を見て、レスターはゆっくり目を開き、そして頷いた。



「エミーリア、怪我に障るわ。こちらにきて座って頂戴」

「ああ、そうか。気付かず申し訳ありません」


朗らかなイリーネの言葉に、レスターも同意の言葉を重ねた。

恵美がその言葉に従うと、レスターは恵美の正面に来るようにソファに座った。

レスターにじっと見つめられ、恵美は背筋を伸ばす。


レスターの隣に腰を下ろしたイリーネが、侍女が淹れたお茶のカップを手に取りお茶を飲んでいる。

そのリラックスした様子がほんの少し羨ましい。



「さて、エミーリア様」

「…はい」


口火を切ったのはレスターだった。

なんと言うだろう。緊張で鼓動が早い。


「不躾なお願いとは存じますが、敬語で話すのをやめてもよろしいでしょうか」

「……え?あ、はい!」


予想外の質問に戸惑ってしまったが、すぐに合点がいき、恵美は慌てて頷いた。


レスターはその口ぶりから恵美を『赤を持つ者』として扱っている。

『赤を持つ者』は王家の血筋なのだから、公爵位という貴族の最高位にいるレスターでも『赤を持つ者』には敬意を示さねばならないのだろう。


だが、恵美は自分が『赤を持つ者』でないことを知っている。

敬意を表す必要などない。

思わず俯いてしまった恵美の様子を全く気にする様子もなく、レスターは「ありがたい!」と腹を揺すって笑った。


「敬語は使い慣れておらんのだよ。間違えた敬語を使うのではと内心ひやひやしていた」


その朗らかさに、恵美は救われる心地がする。

俯いた顔を上げたところでレスターと目が合い、ウインクされた。

そのレスターの仕草に思わず恵美は頬を緩める。


なんだかお茶目な方のようだ。


恵美の肩の力が抜けたところで、レスターは「ところで本題なんだが」と言葉を発した。


「イリーネから聞いたのだが、お茶のブレンドが好きらしいね」


聞き間違いだろうか。思わず唖然としてしまい、慌てて口を閉ざす。


「違ったか?ハーブティーを作るのも好きなのだろう?」


やはり、聞き間違いではなさそうだ。恵美が肯定すると、レスターは満足そうに頷いた。


「では、エミーリアのお茶を飲んでみたいのだが、今から用意できるかな?」

「あら、素敵!エミーリア、どうかしら」


レスターの言葉に、イリーネが期待の瞳を恵美へと向けた。


恵美を見定めに来たのだと思っていたのだが、先程からの流れは一体どういうことだろうか。

レスターの本意が、分からない。

だが、レスター、イリーネの二人からの望みを否とは言えない。


「簡単なもので、宜しければ」


恵美は、困惑しつつも、そう答えた。




レスターは一週間程滞在した。


その一週間、恵美が淹れたお茶を飲みながら、イリーネを交えて話すということを繰り返した。

だが、やはりイリーネ同様、レスターも恵美の身上を尋ねてくることはなかった。


フラムスティード公爵邸には、リディアたちの家にあったものより、ずっと立派なハーブ園があるのだが、レスターから好きに使っていいという許可まで貰えた時には、本気で驚いた。

それからは毎朝そのハーブ園へ向かうのが恵美の日課に加わり、レスターの出発の朝には、ハーブ園のハーブを数種類混ぜたものをレスターへ手渡した。


馬車で城までは一日半かかり、とても嫌だと言っていたレスターの気分転換になればと思いながら作ったものだ。


「清涼感とリラックス効果をもたらしてくれるものを選んでますので、ご移動に疲れた時などに、是非ハーブティーにしてお召し上がり下さい」

「ありがとう、良い土産だ。自慢しよう!」


レスターは恵美を抱き締め喜んでくれた。


珍しくもないハーブティーの土産を、誰に自慢するというのか。

そう思ったが、レスターに喜んでもらえたことは素直に嬉しく、そしてその温かな腕の中は、恵美に父のような安心感を思い出させた。


「またお会いできますか?」

「ああ、勿論だ。近いうちに必ず」


レスターの腕の中で思わず尋ねれば、レスターは快活に笑い、大きく頷いた。




その言葉が、一ヶ月後には実現するなんて、この時の恵美は想像さえしていなかった。

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