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早朝の外はまだ暗い。


アンディが灯りを持って、馬車まで誘導してくれる。


馬車は、恵美が以前ハロルドとともに山を下りた先にある町で見たものよりとても立派な造りだった。

二頭の馬が引く長方形の箱型の馬車の扉や窓枠にも凝った装飾が付いている。


これに乗ってしまえば、もう後戻りは出来ない。

思わず二の足を踏んだ恵美を、アンディは痛ましげに見た。


「足が痛みますか?」


見当違いではあるが、アンディのその気遣いに恵美は首を横に振る。すると、アンディは安心したように笑った。恵美もアンディに向けて微笑めば、更にその笑みは深くなる。


行くしかないのだ。


恵美は意を決して馬車に乗り込もう一歩を踏み出した。



馬車は恵美が想像していたより、とても座り心地が良かった。

柔らかな座席にクッションやブランケットまで用意されている。

扉に小窓が、その反対側にはそれより大きな窓が付いており、今は両方ともカーテンで閉ざされている。



恵美は持たされた朝食の入ったバスケットを横に置き、座席に身を深く沈みこませた。クッションを強く抱きしめる。


これからどうなるのか。正直、不安に胸が押しつぶされそうだった。



がたがたと軽い振動を体に感じ、馬車が動き出したのが分かった。

アンディとブレットは、馬車の横と前で馬で走っているだろう。


ブランケットを体に巻きつけ、恵美は目を閉じる。

無心になろう。馬車の振動だけに意識を向ける。

そして、いつの間にか恵美は眠りについていた。




満ちた空間の中に一点だけ橙色の暖かな光が差し込んでいる。辺りは霞みに覆われ、その闇と橙色の光の境目は曖昧だった。


ここはどこだろう。

恵美が周囲に目を凝らすと、光の中に人がいるのに気付いた。


あの人に会わなければ。


何故かそれが義務であるかのように感じ、一歩一歩、光へ進んでいく。

時間の感覚が曖昧で、どれだけ経ったのか分からない。一瞬のようにも思えたし、何日も経ったようにも思えた。


光の中にいる人のシルエットは、丸みを帯びている。

女性だ。

だが、霞が邪魔して容姿ははっきりとしない。恵美が光の中に入って、ようやく、その霞は晴れた。



そこに居たのは、黒い髪に黒い瞳の自分と同じ顔の女だった。



ああ。夢だ。


恵美はそう思いながら、彼女を見つめた。彼女は嬉しそうに、口角を上げた。

「恵美。バイバイ」

恵美に向かって、彼女は手を降り、そして光に溶けるように消え去った。

彼女は、戻っていく。

元の世界へ。日本へ。


突然、恵美はそう感じた。

追いすがるように、その光の中へ手を伸ばす。

だが、その手は空を切った。



「嫌!待って!」


ガタンという馬車の振動とともに、恵美はびくりと体を震わせた。背中が汗でぐっしょりと濡れている。


「…私もそっちへ連れて行って」


還りたい。

黒髪の彼女の別れの言葉は、恵美に元の世界へ還れないと、そう告げているように思えた。


座席に足を乗せ膝を立て、そこに顔を埋めれば、眠っていた間にずれたのか、髪を覆っていた布から一房の髪がさらりと肩を滑る。



ふと思うことがある。

この髪を持つ意味をリディアたちも知っていたはずだと。

元神官と言うからには、知らないはずがない。


何故、何も言わなかったのだろうか。


だが、「言うつもりがなかったからよ」と笑うリディアも簡単に想像できた。


彼女はそういう人だからしょうがないと思うしかないのだろう。



諦観の念を振り切るように、恵美は顔を上げた。

車窓にかかったカーテンをそっとめくる。それほど寝た訳ではないようで、まだ外は薄暗い。



ああ、これからこの世界で私は何者になっていくのだろう。


恵美は車窓からの景色を見るともなしに眺めた。





フラムスティード公爵領に足を踏み入れたのは、ラインヴァルトたち一行と別れて、三日後だった。



フラムスティード公爵領は、シルゴート王国一、広大な面積を誇るらしい。

一昨日と昨日の夜は宿にとまったのだが、アンディやブレットと話し得た情報を恵美は復習しながら、恵美は車窓のカーテンを少しだけ開けて外を眺める。


長閑な田園風景から、人々の行き交う、賑やかな商店街や住宅街を抜け、しばらく森林が続く。


恵美はカーテンから手をを外し、布で覆った頭に触れる。


もう直ぐ着く。着いてしまう。


そしてそれから数分後。馬車が止まった。



恵美はブレットの手を借りながら馬車を降りる。


眼前には、恵美がこれまで見たどの屋敷より大きな屋敷が構えていた。


二階建ての白壁の屋敷は日の光を反射して美しい。



玄関ホールで恵美を迎えたのは、豊かな赤褐色の髪を左耳下で一つにまとめた女性だった。輝く宝石が付けられた髪飾りがその髪を彩っている。

刺繍が鮮やかな立襟のブラウスと上着に、恵美が着る膨らみのあるスカートとは違い体の線に沿ったスカートを着ており、スタイルの良さが際立っている。


彼女の後ろには数多くの使用人が控えていた。

艶やかな微笑みを浮かべる彼女には、人を従わせ、それを当然とするオーラがある。

彼女が、王妹であり、フラムスティード公爵夫人であり、そして、アレクシスの母 イリーネ クルトだろう。

正直、イリーネはアレクシスの母であることに恵美が驚くほど若々しかった。



イリーネは恵美へと一歩踏み出した。

そして、じっと恵美を見つめる。


『赤を持つ者』と皆は言うが、正体不明な女がクルトの姓を名乗っているのだ。


アレクシス同様、恵美に対して思うところがあるはずだ。


恵美は体を強張らせた。俯き、イリーネから視線を逸らし、地面を見つめる。


と、ふわりと薔薇の香りがした。

いい香りだと思ったその瞬間、恵美はイリーネに抱き締められていた。


「あの、公爵夫人?」


イリーネの腕の中で戸惑い思わず声を発した恵美に、イリーネはその腕の力を弱めた。

そして、恵美の頬を両手で挟み、顔を上に上げさせた。


「ふふ。なんて、可愛らしいの!」


そう言って、イリーネは輝くばかりの笑顔を見せた。


それからは、お風呂だ、怪我の治療だと、イリーネの指示のもと、恵美は色々な部屋に振り回された。

最後に、今まで見たことのない美しい服を着せられ、いつの間にか自分の体からも薔薇の香りがしているのに気付いた時は驚いた。

髪を布で覆うのも禁止されてしまい、流石にそれには慌てた。


「アレクシス様が…」と、アレクシスとのやり取りを説明する。するとイリーネはその美しく整った眉をひそめた。


「愚息がごめんなさいね。でも、無視して頂戴」


きっぱりと言い放ったイリーネに絶句する恵美の髪を、イリーネはそっと撫でた。


「これほど美しい髪を隠すのは、馬鹿げたことよ?」

イリーネは笑う。

「エミーリアは記憶がないと聞いたわ。

赤い髪を持つこと。それは、記憶もない貴女にとって、とても恐ろしいことでしょう。でも、貴女自身がそれを誇りに思わなければ、駄目よ?」

「…公爵夫人」

「ええ。私はフラムスティード公爵の妻よ。そして、現王の妹であり、王太子の叔母でもある。

私は、たくさんの重責を背負った人たちを見てきたわ」


「違うんです。私は、記憶喪失ではないのです。そして、決して『赤を持つ者』になり得ない存在なのです」

そう説明できたら、良かった。

だが、それを言ってしまえば、恵美が異世界人だということも話さなければならない。

それこそ、荒唐無稽だ。

信じてもらえるはずがない。



イリーネは、何度も恵美の髪を撫でる。

その優しい手つきに、祖母を、母を思い出す。二人も良くそうしてくれた。


「大丈夫。私は、貴女の味方だわ」


恵美の頬を温かいものが伝う。

その言葉は、恵美の心にゆっくり浸透していった。

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