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どれほどの時間をぼうっとして過ごしていたのだろうか。


ノックの音が響いたところでようやく恵美は我に返った。


誰か来た。


慌てて頬を叩き意識を整えて立ち上がる。ジクリと痛めた足が痛む。

しばらく鈍痛だったため、立ったままアレクシスと話していたからだろうか。それとも、心に引きずられたのか、これまで以上に酷く体に響くように痛む。

その足を引きずりようやっと扉を開ければ、そこにはお盆に食事を乗せて持つアレクシスがいた。


アレクシスは扉を開けた恵美を一瞥すると、すぐに眉をひそめた。

「着替えていないのか」

「…申し訳ありません」

アレクシスの非難の声音に恵美が小さく謝罪をすれば、アレクシスは嘆息してからお盆を恵美へと押し付けてきた。

受け取ったそれからは湯気が昇り、頬を撫でる。その温かさに思わずほっと頬が緩むのを恵美は感じた。


「食事だ、食べなさい。空いた食器は取りに来るから、そのまま置いておいてくれ」

それに了承の意を返すと、アレクシスは少しだけ表情を和らげ頷いた。そして、今度は部屋への入室を望まずにすぐに踵を返していった。



アレクシスが持ってきた夕食は、ジャガイモのクリームスープに柔らかなパン、焼いた野菜と羊肉には果実のソースがかかっている。凝った盛り付けと鮮やかな色彩で彩られた食器が美しい。

口に入れれば、その瞬間豊かな香りが広がった。

だが、一人で食べる味気なさに、美味しいと思うより先に悲しみが募っていく。



リディアたちと暮らしていた頃は、主食は固めのパンだったし、スープもこんなに滑らかではなかった。だが、この食事以上に楽しく心が温まる食事だった。

そう、両親と祖母と妹との団欒とは比較できはしないが、この世界に来てからも一人の食事の寂しさを感じたことはない。


ーーああ、帰りたい。


無性に、そんな思いが湧き上がる。それを食べ物と一緒に飲み込むように恵美は一人で口を動かし続けた。



なんとか食事を終えた時、恵美はそこでようやく自身がまだ汚れた服を着ていることに気付いた。

アレクシスから渡された包みに手を掛ける。

中からは上着にブラウス、スカートまで一通りの服三着と、部屋着用に立襟の長袖ワンピースが入っていた。さらには、別の袋に女性らしい手跡で、『良かったらこちらも』と書かれた手紙とともに肌着とそして清潔な包帯も包まれていた。


アレクシスはカルダーからの服は、彼の妻のお下がりだと言っていた。だが、この布の新しそうな様子や肌着まで用意されているところをみると、そうではなさそうだ。わざわざ恵美のために用意してくれたのだろう。


受け取りやすいようにという心遣いから、カルダーがそう言っただろうことは恵美にも容易に想像できた。


それが染み渡るほど嬉しく思う。



広げた服は三着ともとても可愛らしかった。その中から紺色の上着と秋の花のモチーフにした刺繍が施されたスカートを選び、早速着替える。

部屋着に着替えてしまいたかったが、アレクシスが食器を取りに来るのであればそうはいかないだろう。


ついでに包帯を巻き直したが、足を軽く動かすだけでジクリと痛み、恵美は思わず眉を寄せた。足の腫れを緩く撫でる。

足の腫れは明日になればさらに酷くなっているだろう。

一つ大きく息を吐いてから、リディアから貰った髪飾りを使って髪をまとめる。そしてまとめた髪を布で覆ったちょうどその時、再びノックの音が響いた。


「エミーリア様。殿下とアレクシス様がいらっしゃいました」


ブレットの声に恵美は思わず息を飲んだ。


ラインヴァルト殿下もいらしている?


一瞬呆然としてしまったが、足の痛みが恵美を現実に引き戻す。

足を庇いながら立ち上がり、扉を開ければ、アレクシスとその横に笑みを浮かべたラインヴァルトが立っていた。


扉を閉じたい。

にこやかなラインヴァルトとは反対に片頬が引きつるのが分かる。


碧眼が恵美をまっすぐ見つめてくる。

その視線の熱さは恵美の心を凍らせる。

視線からどう逃れれば良いのか分からないでいると、強めな口調でアレクシスから名前を呼ばれた。


アレクシスの声音は相変わらず冷たい。だが、今はラインヴァルトの視線から逃れられるだけで有難いとそう思った。


恵美はラインヴァルトからの視線を振り切るようにしてアレクシスを見た。



アレクシスはまず、恵美に食器の乗せられたトレイを渡すようにと指示を出した。

恵美はもう一度部屋の中へ食器の乗ったトレイを取りに戻る。

足運びがたどたどしく、かなり時間がかかってしまったものの、なんとかそれをアレクシスに渡す。彼はすぐにアンディに渡し、受け取ったアンディは心得たように一礼すると、食器をどこかへ持って行ってしまった。


「明日について少しだけ話したい。足の具合が良くないのだろうが、そのまま聞いてくれ」


恵美の痛めた足を、眉を寄せてちらりと見てきたアレクシスの言葉に恵美が頷きかけたところで、「待て」とラインヴァルトが声を発した。

さらにはアレクシスの体を押しのけるようにして一歩踏み出すと、恵美の手を取る。そして、その手をラインヴァルトの腕に置かせて、さらには恵美の腰を支えるように腕を回した。


「エミーリア、こちらに体重をかけて」


優しい気安い声音に思わず従いそうになる。だが、それが許されるものではないことは、彼が王太子殿下であることを知ってしまった今、流石に知っている。

戸惑いに思わずアレクシスを見れば、彼は仕方がないといった様子で頷いた。

いいと言うのならと、恵美はほんの少しだけラインヴァルトの方に体重を移動する。

すると、足の痛みから多少解放され、思わずほっと小さく息を吐いた。


「すまないな。夜に女性の部屋に入るわけにもいかないのだ。辛いだろうが許してくれ」


ラインヴァルトはアレクシスを見ながらそう言った。

その言葉に恵美は苦笑とともに首を横に振る。

二時間ほど前、アレクシスが部屋で話したことを知っているのだろう。非難するような物言いと視線だ。

一方のアレクシスはというと、ラインヴァルトの言葉に一瞬言葉を詰まらせた。

「あれは夕方だし、他に聞かれたくない内容だった」

そう言い訳のように言ったアレクシスをラインヴァルトは半眼で見ている。


「アレクシス様は紳士でした」


思わず助け舟のつもりで言葉を発すると、何故かラインヴァルトの目がさらに鋭くなってアレクシスへと向けられた。

アレクシスはその視線から逃れるように一度俯いたが、次に顔を顔を上げた時には真剣な眼差しを恵美に向けてきた。

「…すまない。確かにマナー違反だった」


小さな声だが、確かにその謝罪は恵美に届いた。

恵美がそれに慌てて頷くと、横でラインヴァルトは、ふんと鼻を鳴らした。



「…それで本題だが」


これでその話は終わりだと言うように、少し強めの声で言われ、恵美は思わず背筋を伸ばし、アレクシスの言葉を聞く。


「明日から君は我々と別れ馬車で移動してもらう。そして、しばらくフラムスティード公爵邸ーーつまりは、俺の家になるんだが、そこに滞在して欲しい」

「アレクシス様の…」

「戸惑って当然だ。だが今、君の気持ちを慮る余裕は正直ない」


アレクシスは扉の側に控えるブレットと、そしていつの間にか戻ってきていたアンディへ順に視線をやった。


「両名とも、しばらくはそのまま彼女と共にフラムスティード領へ。その後は追って連絡する。いいな」


アレクシスは一度言葉を切り、明るく笑うラインヴァルトをちらりと見てから再び恵美を見た。


「出立は夜明け前、4時頃に。食事は馬車内で食べれるように用意しておくから、そのつもりで準備をしておいてくれ」


アレクシスのきっぱりとした物言いと真剣な声音に、これは決定事項なのだと恵美は思った。

思わず俯き、ラインヴァルトの腕に預けていない方の手でスカートを強く握る。

「分かりました」

了承の言葉は、小さく、そして恵美も自覚するほど震えていた。


「エミーリア。不安に思うことはない」

ラインヴァルトは、そんな恵美に笑顔を向けた。

「フラムスティード領は温暖な良い場所だし、公爵夫人は私の叔母なんだが、愛情深い人だ。それに、私も王都へ戻り報告を終え次第、フラムスティード領へ行く。それまで、しっかり体を休め、傷を癒してくれ」

「…はい。ありがとうございます」



彼には、決して恵美が何を不安に思うか分からないのだろう。恵美へ向けるラインヴァルトの視線は相変わらず強く輝いている。

その視線に耐えきれなくて、恵美は思わず目をそらす。だが、ラインヴァルトは、それには気付かなかったようだ。


「もういいか、行くぞ」

満面の笑みのラインヴァルトに向けて言葉少なくそう言ってアレクシスは踵を返した。

ラインヴァルトは彼の背を目で追いながも、ゆっくりとした動作で恵美の腰に回していた腕を解いた。

名残惜しそうに一度両手で恵美の手を握る。

「良い夜を」

そう言って去っていくラインヴァルトの背を恵美は頷くことも出来ず、ただ見送った。

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