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宿場街 ランダのなかでも、高級宿として知られる『赤羽』は、その評判に相応しい立派な佇まいだ。その重厚な扉の前で、一行を出迎えたのは、背の低い丸顔の男だった。
「本日は宜しく頼む」
アレクシスのその言葉に男は丁寧に礼を取った。アレクシスが言葉を促せば、「ようこそお越しくださいました」と言って朗らかな笑みを浮かべる。
「私は当宿『赤羽』の主 カルダーと申します。まずは、この度の戦勝お慶び申し上げます」
男ーーカルダーのその言葉に、ラインヴァルトは破顔し頷き返していた。
「どうぞ、皆様。宿をご案内致します」
カルダーから導かれ、一行は宿に入った。
宿は貸切にしてもらっている。
アレクシスがそのことに礼を述べれば、カルダーは首を横に振った。
「我が宿をご利用いただけるだけで光栄なことでございます」
戦勝の伝達の馬が通ったとはいえ、人気宿を貸切にするのは、なかなか骨が折れただろう。
だが、それを微塵も感じさせないカルダーの言動にアレクシスは好感を持った。
廊下の壁に等間隔に並んだランプが行先を照らしている。一定の照度を保つ灯りの光源は、炎ではなくアスタイトを用いている証だ。
アスタイトを用いたランプは高価で、それを廊下の照明に用いるとは、流石、高級宿だと感心してしまう。
アレクシスの後ろには、護衛とともにラインヴァルトが歩いており、アレクシスよりも格段に宿に泊まる機会が少ない彼は、辺りを物珍しそうに眺めているのがアレクシスにも分かった。
エミーリアは、カルダーの「怪我をしている女性を先に」という一言で、いち早く部屋へと案内されている。高級宿の主人に相応しいその心配りに、ラインヴァルトは満足そうな笑みを浮かべている。そして、それは彼女をあまり人目に晒したくないアレクシスにとっても有り難かった。
ラインヴァルトが部屋に入るのを見送った後、案内された部屋は扉から正面にベットがあり、それ以外には扉から見て左側に机とソファがあるだけのシンプルな部屋だ。だが、家具や壁紙一つ一つは重厚な趣きがある。
突き当たりのドアは、おそらく浴室だろう。そう思えば、土やホコリにまみれている上に、汗のせいでべたつく気持ち悪さが気になって仕方がない。
ラインヴァルトの元へ向かうと約束したのは、三十分後だ。簡単に汗を流せる時間がある。
ついでに頭から水をかぶれば、エミーリアの今後の処遇について考える冷静な頭を取り戻せるだろう。
アレクシスは上着を脱ぎ、無造作にソファに置くと、すぐに浴室へ向かった。
約束の三十分後。ラインヴァルトの部屋までやって来たアレクシスはラインヴァルトの護衛に労りの言葉をかけた。
「ここには俺がいるから、一時間程外してくれ。食堂に食事を用意してもらってある」
そう言えば、護衛は破顔した。
「ありがたく!」と踊るような声音に、アレクシスは頷き返す。さっと手を振れば、護衛は一度礼を取り、踵を返した。
アレクシスはその背が食堂へ続く角を曲がるまで護衛を見送ってから、ラインヴァルトの部屋の扉を叩いた。
返事はすぐにあった。アレクシスが部屋に入れば、目の前に襟を緩め濡れた金髪を無造作に横に流したまま、水差しの水を飲んでいるラインヴァルトがいた。
「ライヴァ。なんだ、その格好は。だらしのない」
「城ではしないさ」
悪びれもせずに返されたその言葉に、アレクシスは眉をひそめる。
「当たり前だ」と言って、ソファの背に掛けられたタオルを渡せば、ラインヴァルトは軽く肩をすくめながらも、素直に受け取った。
ガシガシと乱暴にタオルで髪の水気を払うその様子に、アレクシスは眉間の皺を深くさせた。
どうにもラインヴァルトの行動が雑になった気がする。粗野な兵たちと共にいる期間が長かったからだろうか。
戦場では、兵たちとできるだけ近い位置にいたいというラインヴァルトの意思を尊重し、侍従は連れて行っていない。
何度かの戦の経験で、身支度くらいは一人で出来るから、困るような事態にはならなかったが、この分では、城で侍従にチクチクと嫌味を言われそうだ。
「なんだ、アレク。機嫌が悪そうだな」
溜息が出そうになるのを抑えていたアレクシスに呑気な言葉がラインヴァルトからかけられ、今度こそアレクシスは隠すこともせず溜息を吐いた。
「ああ。これからを思えば自然、機嫌は降下する」
「未来は明るいと思うぞ」
髪はまだ湿り気を帯びつつも襟を正したラインヴァルトは、ソファに勢い良く座った。
ソファに座れと手振りで示されたが、それには首を横に振り、アレクシスは扉に背を預け、腕を組んだ。
「エミーリアの夕食は、俺が部屋に運ぼうと思う」
先程、水を浴びながら考えた内容を口にすれば、その唐突さもあってか、ラインヴァルトは目を見開き、首を傾けた。
「何故、わざわざお前が?宿の従業員に任せればいいだろう?」
「もう遅いだろうが、彼女を人の目に極力触れさせるべきではなかった。万が一、赤い髪を持つと知れれば、混乱を引き起こすことになりかねない」
「エミーリアは『赤を持つ者』。我々の希望だ。彼女を隠さなければならない必要性など、何もない」
案の定、ラインヴァルトはその言葉に不服そうな表情を浮かべた。その表情のままソファに深く背を沈ませると、足を組みながら「アレク」と名前を呼んできた。
「少しだけでいい。もう少しだけ好意的になれないか?」
その言葉に、アレクシスは思わず眉を寄せた。
子供のように、素直に信じる方がどうかしている。
そう思うが口にはせず、「…善処する」と言えば、ラインヴァルトは嬉しそうな笑みを見せた。
「だが、食事の件は譲れないぞ」
アレクシスがそう言えば、ラインヴァルトから駄々を言う幼子をたしなめるような視線を受けた。
「ライヴァ。それだけは、譲れないからな」
繰り返せば、ラインヴァルトは一度首を回し、唸ってから、「しょうがない。そうしてくれ」と頷いた。
ラインヴァルトと戦後処理について軽く意見を確認し合った頃、護衛が戻ったのが扉の外の音で分かった。
丁度、一時間。優秀なことだ。
アレクシスがそう思いながら退室の意をラインヴァルトに告げれば、ラインヴァルトは手に持っていた書類から顔を上げ、「なあ、アレク」と名を呼んできた。
上目遣いに、思わず顔が引きつる。
「…なんだ」
「エミーリアへ食事を運ぶのは、私では駄目か?」
「………」
意識して明るくおどけた様子の声音でそう言ったラインヴァルトを無言で見つめることしばし。
ラインヴァルトから謝罪の言葉を受け、アレクシスは三度目の溜息を吐いた。
「エミーリアによろしく」
そのまま出て行こうとしたアレクシスの背に投げられたその言葉は、聞こえなかったことにした。
アレクシスが、カルダーに食事の件を伝えると、カルダーは「かしこまりました」と礼をとった。
「では、また用意が出来たら呼んでくれ。よろしく頼む」
「恐れながらお待ちください」
アレクシスが踵を返そうとしたところをカルダーに引き留められる。視線で用を問えば、カルダーはアレクシスに布包みを差し出した。
「分を超えた行動かとも思ったのですが。妻が若い時に来ていた服です。お連れのお嬢様の服が、少し破れてしまわれているようでしたので」
本当によく気が付くものだ。
アレクシスは、カルダーに分からないように一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに微笑みへと変える。礼を言いカルダーから布包みを受け取ると今度こそ踵を返した。
エミーリアの部屋と扉の前には、二人の兵が立っていた。確か、アンディとブレットという名だったはずだ。
二人は、アレクシスに気付くと簡易な礼を取った。
「…呼んでくれ」
部屋を視線で示せば、ブレットが頷き、扉をノックした。
部屋の中から応じる声がしてすぐに現れたエミーリアは、汚れた服を着替えていなかった。だが、髪を覆っていた布は取られ、赤い髪は結い直されている。
「髪を布で隠してくれ」
そう告げれば、エミーリアは不思議そうに首を傾けた後、アレクシスの指示に従うために、一度部屋へと引き返した。
再度現れたエミーリアは、アレクシスの指示通り髪を布で覆っていた。それに安堵しながらアレクシスがカルダーの言葉とともにエミーリアへ服を手渡す。
すると、エミーリアは嬉しそうにその表情を和ませた。
「ありがとうございます。この服以外も落ちた際に汚してしまったようで…。洗濯場を借りようかと思っていたところです。助かります」
「礼なら、宿の主人へ」
そのまま、部屋に戻るつもりで言葉少なく告げたアレクシスに、エミーリアは微笑んだ。
「ええ。ですが、アレクシス様もわざわざ足を運んでくださり、ありがとうございます」
そう言ってからアレクシスに向けて礼をとったエミーリアに目を奪われる。
軽く腰をおり頭を下げるその礼は、どの貴族令嬢のそれよりも美しく堂に入っていた。
その一朝一夕では決して身に付かない仕草を、彼女は、こともなげに行った。
彼女は、きちんと教育されている。しかも、淑女教育を。
「少し話せないか?」
そう思った途端、思わず口にした言葉に、アレクシス自身驚く。だが、エミーリアはさらに驚いたことだろう。
困惑に眉をしかめたが、彼女は小さく頷きアレクシスを自室へと促したのだった。




