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ラインヴァルトはアレクシスと数名の男たちと共に、恵美の元へ戻ってきた。再び膝を地につきかけたラインヴァルトの後ろからアレクシスが腕を掴み止める。
ラインヴァルトは、眉を一瞬寄せアレクシスを振り返った。しかし、当のアレクシスが素知らぬ顔を返せば、ラインヴァルトは諦めたように小さく息を吐くと、アレクシスに掴まれた腕を振り払い、恵美を見下ろした。
「エミーリア。私たちと共に来てほしい」
「これは命令だ。君に拒否権はない」
ラインヴァルト、アレクシスの順に発せられた言葉に、恵美は目を瞬かせる。
何故、自分に対して、彼らはそのような命令を下すのだろうか。
恵美が困惑したままラインヴァルトを見れば、彼はほんの少しだけ、口角を上げた。
そんなラインヴァルトの表情を見て、恵美は思わず目を見開く。
優しげな表情を浮かべているのに、彼の碧の瞳だけが渇望の光をたたえ、恵美を見つめていた。
ラインヴァルトに縋りつかれるような、そんな感覚に、恵美は背を震わせる。
何かが起きている。しかも、自分の知らないところでだ。
否やと言いたい。だが、王太子直々の命令が拒否できるものではないことも、恵美は分かっていた。
渇望の光を瞳に宿したまま、ラインヴァルトは言葉を続ける。
「エミーリアの身柄は、ここにいるアレクシスが預かることとなる。護衛には、その二人をそのまま残すから、今後は三人の指示に従って行動してくれ」
ラインヴァルトはそこまで言うと、恵美の横に居てくれているアンディとブレットを見た。
「お前たち、頼んだぞ」とラインヴァルトが言えば、二人とも一度体を震わせ、そして勢いよくラインヴァルトに礼を取り、是と答えた。
「これから馬で今日の宿泊地まで向かう」
そう言ったアレクシスは、まずアンディに向けて馬を取りに行くように、次いで、恵美には、髪を再び布で覆うようにと指示を出した。
これからどうなるのか。
恵美は不安な思いを抱えたまま、その指示に従い、頭を布で覆い始めた。
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「うう…」と恵美は思わず唸り声を上げる。
足を庇い、腰の痛みを我慢しながら、アンディやブレットの手を借り、抱えられ、なんとか馬に乗ったものの、目線が高く体も不安定で、鞍を必死に掴む。
その後すぐブレットが恵美の背側に乗り、恵美の腰に腕を回してくれたおかげで、ようやく息をつくことができた。
恐々としながらも前を向けば、馬が軽快に走り去っていくのが見える。伝達のための早馬らしい。その早馬を見送ってから、先頭から声が聞こえ、恵美を含むその他の一行は出発した。
ゆっくり馬を歩かせて進んでいる。馬の振動が腰の痛みに響くが、怪我をした足を考えれば有り難かった。
慣れてくれば、背後のブレットや、二人の横で馬を進めるアンディと会話も出来るようになった。
聞けば、驚くことにこの一行は隣国であるティエンサン公国との戦の帰りらしい。
成る程、武装しているはずだ。納得しながら、恵美は周囲を見る。
周りには、荷馬車や騎馬の横を徒歩で進む兵たちも多い。怪我をしている者たちでさえ歩いているのが痛ましく、自分の怪我の方がよっぽど軽度だと申し訳なさを感じる。
「ブレットさん。私も歩きますから、どうぞ怪我の酷い方を馬に乗せてあげてください」
額に包帯を巻き足を引きずって歩く男が目に入り、堪らなくなってそう言えば、ブレットは驚いた後、微笑んだ。
「エミーリア様、お気になさらず。そもそも、怪我の酷い者は国境の町にて療養しております。ここにいるのは、皆、歩けると判断した者たちばかり。見た目程、酷くはありません」
「ですが…」
「エミーリア様を歩かせたとなれば、それこそ、兵士の名折れだと彼らはその命を絶つでしょう。折角、捨てずに済んだ命なのです。その温情は嬉しく存じますが、どうかそのまま」
私が歩いたくらいで大袈裟な。とそう思うが、ブレットにそこまで言われてしまえば、二の句が告げない。
「エミーリア様。ブレットの言葉こそ、気にすることないですよ。こいつは、大げさなのです」
当惑で口を閉ざした恵美に、アンディが笑い混じりで口を挟んだ。
「第一、ブレットだって、むさ苦しいおっさんと馬に乗るより可憐なエミーリア様と乗りたいに決まっているじゃないですか」
「おい!アンディ!」
ブレットがアンディを諌めたが、アンディはそれに応じもせず、恵美に悪戯が成功したような目を向けた。
それに、恵美は思わず小さく笑声を上げてしまう。
「では、遠慮なくここに居させて頂きますね」
焦るブレットの気配に、恵美がそう言えば、彼は安心したように息をついた。恵美はそれにまた、少しだけ笑った。
*****
ラインヴァルトが後方に視線を向けたのを見て、アレクシスは何度目か知れない溜息を吐いた。
ラインヴァルト、アレクシスの護衛兵らが歩かす馬のすぐ後ろに、ブレットたちの馬はいる。
「ライヴァ。そんなに気になるか」
声をかければ、ラインヴァルトは視線をアレクシスへと移した。
「ああ。気になる。何を楽しそうに笑っているのだろうか」
その言葉にアレクシスも後方を確認すれば、確かにエミーリアは笑顔を見せていた。
「年の頃も近いし、話が合うのだろう。……不服そうだな」
「不服というわけでは…。だが、私の側に居て、あの笑顔を見せてくれたら良いのにとは思うが」
そう言いながら、ラインヴァルトがアレクシスを睨みつけてくる。それに、アレクシスは肩をすくめた。
「自分と共に馬に」
そう言うラインヴァルトを無視して、アレクシスがブレットと馬に乗るようにという指示を出したことが面白くないのだろう。
「お前がやり過ぎたのが悪い」
そう言ってやれば、髪に口付けたことを言っているのだと分かったのか、ラインヴァルトは「悪いと思っていない」と言ってそっぽを向いた。
その様子に流石に呆れつつも、ラインヴァルトから周囲へと視線を移せば、多くの兵がエミーリアの様子を盗み見ているようだ。
エミーリアの様子を伺い知れない離れた場所に居る兵たちもまた、落ち着かないことだろう。
ライヴァといい、兵たちといい、浮き足立って…。
「彼女をあの場で多くの兵が見たのは、失敗だったかもしれないな」
アレクシスは顔をしかめ、ラインヴァルトに周囲を見るよう促した。ラインヴァルトはアレクシスの視線を追うように周囲を見て、苦笑した。
「確かに、この兵たちを統率するのは、骨が折れそうだ」
アレクシスは笑い事じゃないと、再び溜息をついた。
浮き足立つラインヴァルトや兵たちを軽く諌めながら、しばらくそのまま歩みを進め、ようやく今日の目的地ーーランダに到着した。
ランダは中規模の街ではあるが、宿場街として栄える賑やかな街だ。
その街を、ラインヴァルトとアレクシスは、数人の護衛と共に進んだ。
残りの多くの兵は街の外壁に沿うように野営を行うため同行していない。宿泊施設に泊まるのは、ラインヴァルトたちを除けば数人の上級将官だけだ。
急きょ宿に泊まることになったエミーリアと二人の護衛も、アレクシスたちの後に続いている。
エミーリアの同行により、予定より遅い時間となってしまったな。とは思うが、無事に着いたことで、満足すべきだろう。
第一、街の住民や宿泊客たちは、予定より到着が遅かったことなど、気にしていないようだ。街道の至るところで、戦勝を祝う万歳の声がかけられ、それにラインヴァルトが鷹揚に手を振り返している。
アレクシスも手を振りながら、街の人々の視線が、ある一点で一度止まることに気付いた。視線の先を追えば、困惑した表情で、この騒ぎを見ているエミーリアがいた。
そのことに、アレクシスは唇を噛む。
迂闊だった!己を罵る。
戦帰りの一行に、女性が同行している不自然さに気付かなかった。
いつもなら、気付いていた。そう思えば、自嘲の笑みが溢れる。
その不自然さに気付くことが出来なかったのは、アレクシス自身、エミーリアの登場に混乱しているからだろうか。
明日には街中で、彼女は何者だ。ティエンサン公国の人質か、はたまた、ラインヴァルトの恋人か。そんな噂が流れるだろう。
ラインヴァルトになんと言われようが、荷馬車にでも乗せて隠してしまえば良かったと、そう思った。
街道からさらに進み、道中が青い光に照らされ始めれば、万歳と叫ぶ声も、手を振る人々もまばらになる。
青い光を放つランプが軒先に吊るされる場所が、宿である証だ。
ゆらゆらと光と影が揺れ、街路全体を幻想的にしている。
その光景を、エミーリアが興味深そうに軽く身を乗り出して眺めていた。
先程とは異なるその呑気な様子を、アレクシスは苦々しい思いで見た。
彼女は、事の重大さを、どれ程理解しているのだろうか。
アレクシスは、怖ろしい。
『赤を持つ者』として、突然現れた彼女。
王位継承権は王族の男子のみに与えられることから、『持たざる者』であるラインヴァルトの脅威には、なりはしない。だが、彼女の存在は、シルゴート王家だけでなく、王国全体に混乱を呼ぶのではないだろうか。
ラインヴァルトが、エミーリアの様子を微笑ましそうに見つめているのも、その恐怖に拍車をかける。
まるで、恋しているような瞳だ。
王太子位にいる『持たざる者』として悩み葛藤するラインヴァルトが、エミーリアを肯定したがる気持ちは、アレクシスだって理解出来る。アレクシスも、『赤を持つ者』を焦がれる者の一人だ。
だが、彼女が偽物だった場合、ラインヴァルトはどうなってしまうのだろう。彼の心は粉々に崩れ落ちるのではないだろうか。
アレクシスの不安が膨れ上がる中、青いランプの中でも一際大きな光を放つ宿に、一行は到着した。




