精通――その物事について詳しくよく知っていること。
「佐藤くん」
不意に名を呼ばれ、俺は突っ伏していた机から慌てて顔を上げた。
「はっ?」
寝ぼけ眼を擦りながら辺りを見回すと、机に向かうクラスメイトたち、そして黒板の前で念仏のように退屈な話を続ける中年の男性教師の姿が目に入る。下手な子守歌なんぞより遥かに強い睡魔を呼び寄せる授業。不眠に悩む現代人は皆学生に戻ればいいと思う。
科目は地理で、内容は外国の気候や風土に関するものだった。日本に産まれて日本で暮らす日本人の俺が、外国のことなんか知ってどうするんだっつーの。
そう、ここは俺が中学の三年間を過ごした学び舎(といっても勉強はあんましてなかったが)で、つまり俺は中学生?
「よかった。佐藤くん、また先生に怒られるよ」
と、俺の左隣から、高くも低くもなく決して特徴があるわけではないが不思議な温もりを感じる女子の声がした。俺は声のした左側を向き、まだほんのり霞がかった視界にその姿を捉える。
隣の席の土屋さん。たった今俺を起こしてくれたのも、もちろん彼女である。決して美人とかかわいいタイプではない。肌は地黒だし、やや小ぶりの目は垂れ目気味で一重だし、鼻筋は通っているが高くはないし、口は平均よりやや大きい。髪型は決まってショートボブで、日によって違う色のヘアピンをつけている。
男子の間の人気はあまり高くないが、優しくて、何故かいつも幸せそうに見える。そんな彼女のことが、俺は好きだった。ライクの範囲を少しだけ超えて。
「……ああ、ありがとう、土屋」
佐藤『くん』と君付けの距離感を縮めたくて、俺は敢えて彼女のことを土屋と呼び捨てにしていたのを思い出す。しかし、下の名前――佳奈――と呼ぶことはついにできなかった、淡い思い出。
「起こしてもらってよかったね、佐藤くん」
背後からまた別の女子の声。驚いて振り返ると、後ろの席には見たこともない金髪碧眼の美少女が座っていた。
誰だっけ、コイツ? 外人? つーかこの列は男子の列なのに、何故俺の後ろに女の席がある?
いや待てよ、そもそも俺の後ろに席なんてあったか? 俺は一番後ろの席じゃなかったっけ?
ただでさえ寝起きで上手く働かない頭の中を無数の疑問符が飛び交い、それを自覚する間もなく辺りは暗転して、一瞬で次の場面へと移り変わる。
ふと気付くと、俺は見慣れた街の雑踏の中にいて、交差点で信号が変わるのを待っていた。
俺が生まれ育った東京の、排気ガスと人間の体臭が入り混じった独特の生温い空気。この風景は、俺が中坊ぐらいの頃よく通っていた池袋のゲーセンの近くだ。小学生の頃に格ゲーが流行った時期があって、ゲーセンに足繁く通うようになり、中学になってもその習慣が残っていた。飽きたのは高校に入ったあたりだったか。
そして、そう――たしか、この辺りで。俺は周囲を見回した。週末の池袋はいつにも増して賑わっている。信号待ちの人だかりに飲まれると、まだ中学生の俺の身長では何も見えなくなってしまう。
それなのに、道路を挟んだ反対側、人の壁が僅かに裂けた向こうに、俺は見てしまった。
土屋さんが、誰か俺の知らない男子と楽しそうに話しながら腕を組んでいるのを。
最初は人違いかと思った。学校で見る彼女とは雰囲気がまるで違ったからだ。しかし、隣で毎日見ている顔を見間違うはずもない。それは紛れもなく土屋さんだった。
信号が青に変わり、歩道の人溜まりはパラパラと磁石に引きつけられる砂鉄のように動き始める。土屋さんと男は、よりにもよって横断歩道を渡ってこちらに歩いてきた。何でこっちに来るんだよ!
俺は彼女に見つからないよう、近くを歩いていたデブの影に身を隠しながらそれをやり過ごす。しかし、その必要すらなかったかもしれない。土屋さんは相手の男しか見ていなかった。もし俺が普通にのんびり歩いてすれ違っていたとしても、きっと気付かれることはなかっただろう。それぐらい、土屋さんはその男に夢中だった。
「おいガキ、お前何やってんだ?」
隠れ蓑にしていたマツコ級のデブに睨まれ、俺はすみません、すみませんと謝りながらその場を走り去った。
その後、どこをどう歩いたか記憶は曖昧だが、気付けば俺は家の近所にある公園のベンチに座っていた。結局ゲーセンにも行っていない。新しい筐体が出るから楽しみにしていたのに、もう全くゲームをする気分ではなくなってしまった。
シーソーも回転ジャングルジムもごく当たり前に存在した昔の公園。三十路のオッサンが一人で休んでいたら不審者扱いされる可能性が高いが、中学生なら誰にも文句は言われまい。
薄桃色に染まり始めた空を眺めながらぼんやりしていると、不意に耳元で女の声がした。
「土屋さんのこと、好きだったの?」
「うわっ!?」
驚きのあまり、文字通り飛び上がりながら振り向くと、声の主はあの金髪碧眼の美少女。クラスで俺の後ろの席に座っていた女だった。ベンチの背の後ろに立ったその女は、口元に微笑をたたえながらじっと俺を見つめている。
「……な、なんだよお前、毎度毎度いきなり後ろから話しかけるんじゃねえよ」
「ごめんごめん、タケル――いいえ、ここではケンタ、と呼ぶべきなのかしら?」
「タケル? 誰だよそれ。俺は佐藤健太――ん、あれ……?」
女が口にした『タケル』という名前が、俺の頭の中で鈍く反響し始める。いや、俺はたしかに佐藤健太だ。だが、タケル、という名にも、不思議と聞き覚えが――。
そもそもこの女は何者だ? うちのクラスにハーフの美少女なんていないはずだし、小学校やそれ以前の記憶を辿っても、こんな女は身の周りにいなかったはず。にもかかわらず、俺はこいつを知っているような気がする。
「ようやく気が付いた? タケル――」
タケル。女にもう一度呼ばれ、俺はようやく思い出した。そうだった、俺の名はタケル。エリウと俺、佐藤健太の間にできた子供だ。してみると、このパツキンの美少女は……。
「……フィリア、か?」
姉妹のまとめ役にして一日の大半を寝て過ごす、予知夢を視る能力を持つ姉、フィリア。
すると、女はにかっと破顔してこちらに駆け寄ってきた。
「ようやく気付いてくれた。そうだよ、私はフィリア。あなたの夢の中に遊びに来たの」
「夢の中……?」
そうか――ようやく合点がいった。
人の呼気と車の排気が入り混じった何とも生温い空気、都心に近いはずなのにどこか退廃的な雰囲気の漂う住宅街、高層マンションに囲まれた東京の狭い空。
この懐かしくも不安定な世界は、俺の夢だったのか。
「そう。私のこと、予知夢を視るだけの女だと思ってるみたいだけど、実は姉妹みんなの夢にこっそり参加することもできちゃうの。ま、あんまり役には立たない能力だけどね」
「夢の中、って……なんだよ、そのプライバシー皆無のインチキ設定は!」
仮面夫婦も隠れオタクも、夢の中まで自分を隠し通すことはできない。人にとって夢は心と同様、いやそれ以上のブラックボックスであり、それ故に心の拠り所でもあるわけだ。その夢を勝手に覗くなんて、人として許されざる所業だと言わざるを得ない。
「ごめんね、タケルが夢の中で母親のエリウさんとイチャイチャしまくってることなんて、誰にも言わないから。他の子の夢の話だって、私、一言も話してないでしょ? でも、夢ならいいけど、現実にはエリウさんといかがわしいことしちゃダメだよ? 近親相姦はいけないことだから」
夢の中でエリウとイチャコラしてんのはタケルではなく前世の俺だから近親相姦には全く当たらないのだが、それを説明すると余計話がややこしくなるのでやめておいた。
「つーか、お前、そういうの普通に知ってるんだな」
「え? だってタケルの夢ってそればっかりだもの。毎晩のように見せられたら、そりゃあ覚えるでしょ? それに他の子たちだって、知識がないなりに……っと、これは秘密か」
一瞬さらっと気になることを言ったが、それを追求しても絶対に口を割らないだろう。フィリアの口の堅さは、たしかに信用してもいいように思われた。
「フィリアが夢に入れるのは、姉妹だけなのか?」
「うん。おそらく、血の繋がっている知人、という条件があるんだと思う。タケルも私たち姉妹も、皆父親は同じでしょ? ――ところで、本題に入ってもいいかしら。私、他の子の夢には一度も干渉したことないんだけど、今回タケルの夢の中でこうしてあなたに接触したことには、理由があるの」
「理由? なんだよ」
「この世界のことに決まってるじゃない。タケルの夢ってさ、信じられないぐらい高い建物がびっしり並んだ、見たこともない街並みの世界が舞台になってることが圧倒的に多いじゃない? もちろんここは夢の中だから、現実には存在しない世界が創り出されることは有り得る。でも、タケルの夢の世界と登場人物たちは、空想の産物とは思えないほど精巧に作り込まれすぎているの。他の子たちが創った空想の世界と比べると、リアリティには雲泥の差がある。想像力の違いという言葉では片付けられないほどにね。ねえタケル、あなたもしかして――」
フィリアはそこで言葉を切り、一度タメを作ってから、押し出すようにゆっくりと言った。
「もしかして、異世界転生者なの?」
異世界転生者。
その言葉がフィリアの口から飛び出したことに、俺はまず驚いた。異世界転生という概念は、向こうの世界でこそ割と一般的(創作物の中でだぞ?)になっている。しかし当の異世界の住人でありアニメとかなろう系という存在すら知らないはずのフィリアが、ごく自然に異世界転生という言葉を口にしたのだ。これはひょっとして作者の設定ミスではなかろうか?
「お、お前、なんでその言葉を知ってるんだ?」
「なんでって、タケルの夢の世界で見たからよ。この世界では常識なんでしょ?」
「常識と言うと語弊がありすぎる。創作の世界の言葉だよ」
「へえ……でも、自分が異世界転生者であることは否定しないのね」
「……いや、それはだな」
「全く有り得ない話ではないでしょう? サンガリアには輪廻転生の信仰がある。この世界と異なる世界が存在して、尚且つ相互に人が行き来できるとしたら、異世界の人間がこちらの世界に転生することだって可能かもしれない。だとすれば、一つの仮説が成り立つわ。タケルは、この世界とは異なるどこか別の世界の人間の生まれ変わりで、だから夢の中にこれほど壮大な別世界が広がっている」
夕暮れ時を迎えた空、公園の傍の道路を流れる車の列、公園の植木の向こうに聳え立つ、空に届かんばかりの高層ビル群。フィリアはそれらの風景をぐるりと眺めながら言った。
「私たちの父親であるサンガリアの救世主もそうよ。どこからともなく『光る船』に乗って現れて、サンガリアの民を解放した後、同行者である巫女を『元の世界に連れて行く』と言い残し、忽然と姿を消してしまったと言うじゃない? 彼もまた異世界の住人だったとすれば、辻褄は合う。『光る船』は見たことないけれど、この世界には、『光る船』の伝承とよく似た乗り物がたくさん存在しているわ。ねえ、タケル、誰にも言わないから教えてよ。あなたは異世界から転生してきたの?」
さて、フィリアの問いにはどう答えるべきだろう。
俺が異世界からの転生者であることは、なるべくなら隠しておきたい。だが、ここまで俺の過去を知られてしまって、今更白を切るのも難しいのではないか。フィリアの話によると、彼女が俺の夢に忍び込んだのは今回が初めてではない。情報を集め、フィリアなりに確信を持ったからこそ、夢の中で俺に接触してきたのだ。
しかし、どうやら俺がサンガリアの救世主、つまり俺達の父親の生まれ変わりであることにはまだ気付かれていないらしい。俺の本名『健太』はエリウにしか教えていないし、エリウも俺の本名を誰にも話していないからだろう。俺が隠しておきたい核心の部分はまさにそこであって、異世界転生者であることだけなら、フィリアに明かしてもいいように思えた。完全に否定するよりは、その方がフィリアも納得してくれるのではないか。それに、全てを嘘で塗り固めるよりは、俺自身も気が楽だ。
俺は腹を括った。
「……ああ、そうだよ。俺は、この世界で死んで、お前たちの住む世界に生まれ変わった、異世界転生者だ」
すると、フィリアは穏やかに微笑んで言った。
「打ち明けてくれてありがとう、タケル。お礼と言っては何だけど、私のもう一つの能力を見せてあげましょう」
フィリアはそう言うと、徐に右手を頭上へ上げ、パチンと指を鳴らす。静寂に包まれた公園の中で、ポール牧を髣髴とさせる指パッチンの音はやけに耳に残った。都内の週末の夕暮れ時の公園がこんなに静かなものかとも思うが、そこはほれ、夢だから上手いこと調整されているんだろう。
にしても、もう一つの能力と言うから何が起こるのかと思ったが、辺りにこれといった変化は見られない。雷を落とす奴やら炎を起こす奴やら、そんなチート人間に囲まれているから感覚がおかしくなっているのかもしれないが、些か拍子抜けの感は否めない。
しかし、もう一つの能力って何だよとフィリアを問い詰めるべく、彼女の指先から顔へと視線を戻した瞬間、俺は異変に気付いた。
「どう? タケル……じゃなかった、佐藤くん。上手く化けられてるかしら」
ついさっきまでフィリアが立っていたその場所に、土屋さんがいる。
いやそんなはずはない。土屋さんはさっき男と一緒に……。
「土……屋……さん?」
と、一瞬錯覚を起こしてしまうほど、フィリアの変身は完璧だった。容姿だけじゃない、声までそっくりだ。
「フィリア、お前……」
「これが私のもう一つの能力――といっても変身できるだけじゃないよ。私は夢の中なら何でもできる。空を飛ぶことも、雨を降らせることも、地震を起こすことだってできるの。夢の中だから誰の目を憚ることもないし、目が覚めたらそれで終わりだから、何でもやり放題」
「なんでも……明晰夢、ってやつか?」
明晰夢。夢を夢と自覚し、夢の中で自由自在に振る舞うこと。明晰夢を見る人間は、夢の内容を自分の意志で操作することすらできるという。詳しくは自分でググってくれ。
まあ的中率100%の予知夢を見る能力を持つフィリアだから、今更明晰夢ぐらいで驚くことはないが、他人の夢に侵入してまでそれができるとなると話は違ってくる。
「メイセキム? ――わからないけど、とにかく、何でもできる。何でもしてあげられる。タケル、あの土屋さんっていう女の子が好きだったんでしょう?」
土屋さん――に化けたフィリアはゆっくりとこちらへ歩いてきて、俺の耳元で囁いた。
「土屋さんと何がしたかったの? したいこと、何してもいいよ」
「なんでも……?」
何してもいい。
何でも、と言ったな?
土屋さんと何がしたかったか、だって?
中学生の男子が妄想することなんて決まりきってるじゃねえか。
ふと気付けば、辺りには車も人通りも一切見当たらず、街も死んだように静まり返っている。これもフィリアの明晰夢の力か。
俺はもう一度念を押した。
「本当に、何をしてもいいんだな?」
土屋さんは、いやフィリアは微笑を浮かべながら頷いた。
俺が何をしたいのかも全て見透かしたような微笑み。
!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i
「……はっ!?」
夢の中の土屋さんと一通りの行為を終えた直後、俺は自分のベッドの上で目を覚ました。
夢の記憶なんて目覚めたときにはほとんど消失しているものだが、今夜の夢の内容、そして土屋さんの肌の感触は、まだはっきりと体に残っている。これもフィリアの明晰夢の力だろうか?
それにしても、と俺は思い直す。いくら中坊の頃とはいえ、俺にあんなに純真無垢な時期があっただろうか? それによくよく考えてみれば、中学の頃、隣の席に土屋という女子がいたことは確かに覚えているが、そいつのことをそんなに好きだったっけ?
まあよほどのブスでもない限り女子を性的な目で見てしまう年頃だから、近くで体臭か何かを嗅いで、ああヤリてえと思ったことはあるかもしれないが、それは何も土屋だけに対して向けられたものではない。むしろもっとカワイイ子とか乳のでかい子の方を日常的にズリネタにしていたはずだ。
つーか、そもそも土屋ってそんなに優しい女の子だったか?
わからねえ。
まあ、夢ってのは大概そんなものである。対して好きでもない芸能人が突然夢に現れて、それから急に気になり始めたりする。深く考えるだけ無駄なのだ。
窓の外はまだ真っ暗。いやぁ、すっかり目が覚めちまったな。今すぐに寝直すのも無理そうだし、さてどうするか、と体を起こしたその刹那。
俺は下腹部の異変に気付いた。生温かくぬるっとした感覚。これはまさに――。




