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17 求婚

 結果として、菜苗は半日もたたずに救出された。しかし仁史はずっと生きた心地がしなかったし、菜苗の方こそ、そうだっただろう。仁史は、ふさぎこむ菜苗を家に招待した。仁史の母があたたかい日本茶を出すと、菜苗はソファーで静かに泣きだした。

 震える肩を、仁史は黙って抱いた。母親には悪いが、リビングから出て行ってもらった。ただ菜苗を守りたい。いたわりたい。このままこの家で、一緒に暮らしてほしい。

 菜苗に父母がいないなら、仁史の母を母と思えばいい。菜苗の家族は、あの父親ではない。誰よりも彼女を愛している仁史が、彼女の家族になりたい。

「菜苗、愛している。僕と結婚してほしい」

 考えるよりさきに、言葉が出てきた。こんな言葉がすらりと出るほど、菜苗との交際は順調だった。けれど彼女はびくりと震えて、首を振った。少し考えた後で、迷った表情で言う。

「私の父のことを考えると、あなたとは結婚できない」

 菜苗がこんなことを気に病むなんて、と仁史は驚いた。今の彼女は、だいぶ気弱になっている。

「そういうことは、僕も母も気にしない。もしも気にする人がいたら、それは君が相手にする価値のない人たちだ」

 仁史はきっぱりと言った。菜苗は瞳を泳がせる。

「そうね。私はまだ混乱しているみたい。何か、とても不安で……」

 仁史は、このタイミングで求婚したことをくいた。軽率な行いだった。菜苗は監禁から助け出されたばかりで、さらに犯人のひとりは父親だった。今の彼女は、いつもの彼女ではない。

「急に結婚なんて口にしてごめん。返事は、君が落ち着いてからでいいから」

 菜苗は表情をくもらせた。仁史は、もう結婚のことは口にしないでおこうと思った。


 翌朝、仁史はいつもどおりに出勤した。義則とトニオは、驚いた顔を仁史に向ける。ちなみに場所はサポート課の部屋ではなく、一時的に借りている小会議室だ。サポート課室は、まだ窓ガラスなどが直っていない。

「お疲れではありませんか? 今日ぐらい休んでもいいのに」

 義則が心配そうに言う。トニオも、

「仁史が来るとは思わなかった。今日はアンジーとヨンハは休んでいるぜ」

 仁史はかすかに笑った。

「僕はそこまで疲れていないよ。むしろ家にいる方が、いろいろ考えてしまって落ち着かない」

「そうでしょうね」

 義則が沈痛な面持ちで答えた。仁史はふたりの近くに腰かける。義則もトニオもノートパソコンを開いているが、仕事をするでもなくぼんやりしている。それくらい昨日あったことは強烈だった。

 菜苗は今日は会社に行かず、自宅でゆっくり過ごしている。菜苗の友人たちが彼女を心配して、午前中は一緒にいるらしい。仁史は会社帰りに、菜苗の家に寄るつもりだ。

「宮部社長は、責任を取って会社から去るとおっしゃっています」

 義則が仁史にぽつりと言った。勉の性格を考えると、そう主張するだろうと仁史は予想していた。昨日の彼は本当につらそうで、いたたまれなかった。

「息子が犯罪をおかしたからか? 共犯だったわけじゃないのに、なぜ社長が責任を取る?」

 トニオが不可解そうに、まゆをひそめる。

「日系企業は、――すべてがそうではないが、前時代的だからな。血筋を重んじる気風がある」

 義則が言い、トニオは不満そうに口をとがらせた。だからこそ仁史は、父が存命中は会社の後継者だった。

 それにTSUBAKI本社の場合、一階にあるロビーの受付に人を置いている。普通は受付は無人で、タッチパネルのパソコンが置いてあるだけだ。対してTSUBAKIでは、若い女性たちが応対する。よってTSUBAKIは古風であり、ジェンダー差別と批判されても仕方がない。

「しばらく社内は、ごたごたするだろう」

 義則はため息を吐いた。仁史は静かに気を引きしめる。前社長令息の仁史は、ごたごたに巻きこまれる可能性が高い。むしろ渦中の人と言っていい。これからさき仁史は、うまく立ち回らなければならない。今までどおり、ぼんやりしていられない。

 それに仁史は、TSUBAKIの前時代的なところを変えたいとも感じている。勉にはこんなことで、会社を去ってほしくない。仁史は可能なかぎり、彼を引き留めるつもりだ。義則は仁史の方を向いて、

「昨日、ヨンハとアンジーとともに、正人さんの周囲の人々に聞きこみをしました。正人さんは、月での生活が合わなかったそうです」

 義則の顔は同情めいていた。

「月に来たばかりのころは、はしゃいでいたらしいです。けれど数週間もしないうちに元気がなくなって、地球に戻って肉を思いきり食べたいとか、日本の企業だから社内では日本語をしゃべってほしいとか、不平をよく口にしていたそうです」

 仁史は、そうかとだけ答える。冷たい言い方だが、月面ではよくあることだ。大きな期待をして移住したはいいが、月での暮らしに慣れずにふてくされていく。

 実際に仁史も、慣れるのに苦労した。特に肉が食べられないのがつらかった。仁史には喫煙の習慣はないが、タバコが吸えないのがつらいという話も聞く。さらに月面には移民しかいないので、公用語は英語だ。

「仁史さんに関しては、金持ちの家に産まれて、優秀な部下に恵まれて、元アイドルとも付き合えて、彼は運がいいと言っていたそうです」

 義則はしゃべる。確かに僕は運がいいと、仁史は苦笑した。すると義則は微笑する。

「あなたが運だけでここまで来たとは、私は思っていません」

「俺もだ!」

 トニオが力強く同意する。唐突にほめられて、仁史はびっくりした。

「ありがとう」

 照れ笑いを浮かべて、礼を言う。義則は、顔をまじめなものに戻してから、

「正人さんは宮部社長に関しては、父は息子の自分より仁史さんを厚遇していると、不満を漏らしていたそうです」

 トニオは首をかしげる。

「仁史は厚遇されていたか? むしろ逆に思えるけれど」

「正人さんの目には、そう映ったのでしょう」

 冷静に義則は反論する。

「実際に仁史さんは、課長の職にあります。仁史さんのキャリアを考えると、分不相応な職です。爆発も、仁史さんと社長のふたりをねらった可能性もあります」

 もしも勉がサポート課の部屋に長居していれば、爆発に巻きこまれただろう。

「危害を加えるというよりは、びびらせてやれぐらいの気持ちだったのかもしれません。ネット上の書きこみに関しては、これからさき警察が調べてくれるでしょう」

 義則の言葉に、仁史はうなずいた。正人は書きこみとは無関係なのか、書きこんだうえで犯行に及んだのか、書きこみを見て犯行を思い立ったのか。ただ今となっては、小さなことだ。

 大きなことと言えば、正人が菜苗を誘拐するために雇った三人の男たちは、犯罪組織の者たちだった。ぞっとするほどに危険な男たちに、菜苗は捕らわれていたのだ。三人は抵抗した後で、警察に逮捕された。

「正人は社長令息として、ある程度のえこひいきを期待していたのかもしれない」

 仁史はひとり言のようにしゃべった。義則とトニオは、否定も肯定もしない。仁史の父は、その手のえこひいきが好きだった。だが勉は好きではなかったのだろう。いや、あえて正人に厳しくしたのかもしれない。

 仁史と正人は友人だった。けれどいつからか、正人の心は仁史から離れていた。それとも最初から、離れていたのか。初めて会ったとき、仁史は社長の息子で、正人はその部下の子どもだった。同じような金持ちのおぼっちゃま育ちで、すぐに気が合った。

 仁史は楽器が好きだったが、正人はサッカーが好きで、よくふたりでボールをけった。けれどふたりの関係は、対等ではなかったのかもしれない。

 菜苗もそうだ。ふたりの関係は、対等ではなかった。仁史は父の権力で、彼女を縛った。菜苗も離れてしまうのかもしれない。求婚に暗い表情を見せた彼女に、仁史は不安になっていた。

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