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10 国民的アイドルだった彼女

「君もうわさで知っているだろうが、私の息子が今、この本社で勤めている。数か月前に、日本から来たんだ」

 勉は表情をかたくした。しかし仁史は、そのうわさを知らなかった。勉の息子は正人(まさと)という名前で、仁史よりふたつ年上だ。仁史の友人でもある。

 なぜ正人は月に来たのに、仁史に連絡しなかったのか。薄情なやつだ。……と思ってから、気づいた。たがいの今の立場を考えると、正人が仁史に会いに来られるわけがない。

「だが私は、血縁者を、――息子をひいきすることはない。正人にも、そう伝えている」

 厳しい顔をした勉に、仁史は、はいと答えた。けれど、そこまで堅苦しく考えなくてもいいのではと思う。仁史の心を読んだのか、勉は苦笑した。

「長居したな。仕事の手を止めて悪かった」

 勉は秘書とともに立ち去った。仁史はドアを閉めて、部屋の中へ戻る。ヨンハが仁史に、遠慮がちに話しかけた。

「正人さんが月に来たことを、仁史さんは知らなかったのですか?」

 ヨンハは困惑している。社内では、よく知られた話なのだろう。

「うん」

 仁史は情けない気持ちで、うなずく。仁史はおぼっちゃま育ちで、ぼんやりしている。ヨンハはつらそうに、唇を引き結んだ。

「宮部社長は自身の社長就任直後に、正人さんを地球から呼び寄せました。自分の後継者として呼び寄せたのでしょう。嫌な言い方ですが、会社の乗っ取りとうわさされています」

 ヨンハは悔しそうだ。仁史は、会社を自分のものとは認識していない。しかし乗っ取りという言葉には、気持ちがざらついた。

「無重力ピアノの開発継続も、仁史さんが失敗することを期待して、許可した可能性もあります」

 結果として無重力ピアノは売れたが、一度は採算が合わないと開発中止になった商品だ。もしも売れなかったら、仁史は責任を取って会社を去っただろう。

 ヨンハはまだ何かを言いたげだった。が、耐えるように口をつぐんだ。その隣、義則はひとりで考えこんでいる。やがて彼は冷静という服を着て、口を開いた。

「仁史さん、あなたは前社長のひとり息子で、創業者一族の御曹司です。そして何より、無重力ピアノの立役者です。あなたは今、知らずしらずのうちに、正人さんから後継者の座を奪い返そうとしています」

 それがいいことなのか悪いことなのか、仁史には分からなかった。仁史には他者と争ってまで、トップに上る気概はなかった。

「今はあなたの周りは静かですが、そのうち騒がしくなります」

 義則は具体的には言わなかった。けれど、彼の言わんとすることは分かった。仁史はすでに、後継者争いだの派閥争いだのの渦中にいるのだろう。

 ヨンハは心配そうに仁史を見ている。アンジーは面倒そうにまゆをひそめ、トニオは嫌そうに顔をしかめた。

「俺はそういうのは嫌いだ。みんなで楽しくピアノを作ればいいじゃないか!」

 トニオはいすから立ち上がり、部屋から出ていった。

「嫌いと口にすれば避けられる、そんな簡単なものではないけれどな」

 義則がため息を吐いた。それから仁史に向かって、

「トニオは、無重力ピアノを完成させた一流の技術者です。トニオを仁史さんの下から引き抜きたい、と考えている人もいるでしょう」

 仁史の今の成功は、トニオが仁史のもとへ来たからだ。なぜトニオが、なんの縁もゆかりもなかった仁史のもとへ来たのか、いぶかしがる人たちもいる。

 するとトニオがすぐに、部屋に戻ってきた。きょとんとした顔をして、手には紙バッグを持っている。

「近くの廊下に置いてあった。誰かの忘れものか? すごく重いのだけど」

 仁史はバッグを見て、どきっとした。アイドル時代の、十代の菜苗がステージ衣装を着て笑っている。そして、NANAEと大きくローマ字で書かれていた。

「紙バッグにプリントされているのは、菜苗の写真と名前だ。アイドル時代のファングッズのひとつだと思う」

 仁史は答える。トニオは、ふーんとうなずいた。

「じゃあ、仁史のものか」

「いや、こういうものは、僕も母も持ち歩かない」

 菜苗と婚約するまでは、仁史は彼女のポスターを部屋にはり、ファングッズのうちわやキーホルダーなどを持っていた。今、トニオが持っているものと、にたような紙バッグも所持していた。

 おしゃれなグッズに関しては、母も好んで使用していた。が、菜苗が家に来るようになると、母はそれらの使用をやめた。仁史もファングッズはすべて、押し入れの奥にしまいこんだ。

 菜苗がアイドルをやめて、もう十年近くになる。なぜ今ごろ紙バッグが、こんなところに置かれているのか? 菜苗の目に触れることを期待しているのか? 何の変哲もない紙バッグなのに、不気味だった。

「仁史は脅迫を受けていたでしょ!」

 アンジーがはっとして、さけんだ。初めて聞く事実に、仁史はぎょっとする。トニオが顔を青ざめさせる。そして紙バッグを持って、廊下に戻った。

「トニオも離れて。爆弾だったらどうするのよ!」

 アンジーが血相を変えて、トニオを追いかけて部屋から出ていく。

「トニオ、アンジー!」

 仁史は二人を案じて、追いかけようとする。義則とヨンハがこわばった顔で、仁史を止める。トニオが必死の形相で、アンジーを小脇に抱えて部屋に走り戻ってくる。仁史たちは全員、部屋の奥へ、つまり一番廊下から離れた場所へ移動した。

「後継者争いって、爆弾をしかけるのか?」

 トニオは不安そうだ。アンジーを大きな体でかばうように抱いている。義則も動揺していたが、ひとつまばたきをすると、冷静に戻った。

「爆弾をしかけるとは、考えにくい。――しかし念のため、警察に連絡しましょう。総務部にも連絡が必要です」

 前半はトニオに向かって、後半は仁史に向かって言う。仁史はうなずいた。義則は背広のポケットからスマートフォンを取り出して、電話をかける。

「アンジー、脅迫とはなんだ?」

 仁史は平静さを保って、たずねた。しかし本音を言うと、爆弾だの脅迫だの実感がわかない。

「元アイドルと付き合えてねたましい、爆発しろとインターネット上に書きこまれていたの。トニオも一緒に見たわ。そのときは、ただの悪ふざけと思って放っておいたの」

 アンジーは身を縮めて、トニオの腕の中にいる。

「確かに、普通の落しものの可能性もあります。ですが、そうでなかった場合、不用意に近づくのは」

 義則が電話口で、総務部の社員としゃべっている。

「危険です」

 どぉっという音とともに、仁史の体が、部屋全体が揺れた気がした。

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