13-1
オレゴンから北東方面に1日歩いたところの山奥に、ハイラントという温泉町が存在する。山峡にあるこの町は怪我と不妊に効くという温泉が湧き出ており、湯治目的の観光客や兵士、冒険者で非常に賑わっていた。
その温泉町の一角にある小さな温泉宿『日の本の湯』の前に、1台の馬車が止まる。そしてその馬車から一人の黒髪の女性が降りてきた。
「さぁ来て。ここが私の経営する宿だよ」
降りてきたのはミカだった。彼女が指を指して案内すると、続々の他に乗っていた者たちも降りてくる。
「うわぁ……なんか町全体がすごいホカホカしてる臭いがするなあ」
馬車から降りたシーラは周囲を見渡し、多く並ぶ宿を眺めていた。
「私は何度か来たことあるな。パンギア王国の兵士の療養地として、休暇を取った兵士がよく来るんだ。パンギア王国指定の旅館もいくつかある」
次に降りたコニールだった。そして次に降りてくる人に手を貸すために乗降口で待機する。そして手を取ると、アオイが降りてきた。
「すごい……なんか日本の温泉街みたい。見てよユウキ。ミカさんの旅館の名前なんて、日の本の湯だって。絶対これ日本を意識してるよ」
アオイに次いで今度はユウキが降りてくる。コニールがユウキに手を貸してやり、ユウキは恥ずかしがりながらコニールの手を取って馬車から降りた。
「ああ……。それよか尻が痛い……。馬車の中で寝るんじゃなかった……」
ユウキは馬車から降りると、馬車の揺れで赤くなった尻を擦っていた。まだところどころに包帯が巻かれており、怪我が完治していないことが伺えた。痛そうにするユウキに、ミカは自信満々に声をかける。
「なあに! ウチの温泉に浸かれば、その怪我も尻の痛みも全部取れちゃうから! とりあえず部屋に案内するからこっちついてきて!」
「はいはい」
ユウキは肩を落としながら答えた。旅の目的を考えれば怪我が治るまでゆっくりするのもどうかという思いが頭をよぎるが、その事もいったん棚上げにするくらいにユウキは疲れていた。他の面々も同様――というよりもユウキが心配で、先を急ぐよりもまず休養が必要だという思いだった。
――話は1日に戻る。
× × ×
ドラゴンとの戦いから1週間が経った。領主であったイサクと、前領主であったトスキの死。町の守り神でもあったグングリスドラゴンの暴走による被害で町はまだ復興しきれていなかった。
オレゴン城下町は膨大な事後処理に追われていたが、政治的な空白が起こることはなかった。トスキが引退を見越してすでに後継者の指名や、行政の整理を行っていたため、むしろ強引に領主の座を奪ったイサクのいた頃よりも安定していた。
ユウキ達も町を守った英雄として、パンギア王国に密告されることもなく、怪我の治療のためにケイリンの勤める病院にVIP待遇で入院することができた。とはいっても入院するほどの怪我をしているのはユウキとアオイだけで、そのアオイも1日で退院することができたので、実質的にユウキだけが個室で入院していた。
ただユウキの怪我は非常に重く、ケイリン曰く『壊れていないところを探す方が早い』というほどの重傷だった。回復魔法の存在により、怪我であればどんな重傷でも5日で退院できるだが、1週間も入院しているにも関わらず、まだ体中に包帯が巻かれていた。
ベッドで寝ているユウキの横で、コニールがミカンを剥いていた。オレゴンの町が今は味方になってくれているとはいえ、二人がパンギアから追われているのは変わらないため、コニールも病院で寝泊まりして、ユウキと離れないようにしているのだった。
「この町のミカンは甘いんだな。町の特産品にミカンを乾燥させて抽出した果糖が売られていたよ。砂糖よりも甘くて、上品な味になるそうだ」
コニールが皿の上にミカンを並べると、まず自分が一口取る。そしてそのあとにユウキも手を伸ばしてミカンを食べた。
「俺の故郷では、毎年冬にミカンが並ぶのが通例でしてね。俺も冬は毎日食ってました。……今は10月か。こっちに来て、もう1月経つんだな……」
エルミナ・ルナも太陽暦を使用しており――というより、どうも天体の仕組みは地球と同じようであった。ユウキも星に詳しいわけではなかったが、月があり、北極星も北斗七星もあった。365日なのも同じで、現在の居場所が北半球に位置しているためか、季節の変わり目もほぼ同様だった。
「逆にまだ一か月なのか君が来てから……。随分馴染んだもんじゃないか」
コニールはもう一口ミカンを取りながら言う。割とハイペースで食べるコニールを見て、ユウキは微笑みながら言った。
「前から思ってましたが、コニールさんて甘いもの好きなんですね」
「どうしたんだ急に」
「いや、初めて会った時も、俺らに構わずパンケーキ頼んだり、ぶどうソーダおごってもらったこと思い出しましてね」
「ははは……別にいいじゃないか。休みの日は城下町の有名なスイーツの店に行くのが趣味だったんだよ」
コニールは笑いながら、ユウキが2週間ほど前の出会いを覚えていたことに安堵していた。この入院生活中、ユウキにあの戦闘で何かあったのかを聞こうとすると、当時の記憶が無くなっているのかよくわかっていないとのことだった。
アオイの証言から、ユウキが正気を失って暴走していたことを聞いており、かつ戦闘が終わってから数日はこちらの問いかけに答えることすらできなかった日が続いていた。
「へえ……いいな甘いもの。コニールさんがおすすめの店ってどんなところです?」
「そうだな……。すごいおいしいラズベリーのタルトを出す店があってな。そこで淹れるミルクティーが何故かわからないけど抜群に香りがいいんだよ。よくメアリーにズルして仕事場に持ってきてもらって食ってたな……」
「ラズベリーか……俺は苦手なんすけど、酸っぱくて」
コニールは内心お前の苦手は今言うもんじゃないだろと思いながら、口に放り込んだミカンと共に飲み込んだ。ユウキと話してるとこんな感じで話の腰が折れることが多々あったが、これがシーラの言う“ボンクラ”ぶりなのかと感じていた。
× × ×
シーラとアオイは別室で、ケイリンと共にいた。ケイリンはトスキの娘ではあったが、3番目の妻の娘であることと、元から重要なポストに就くことも望んでいなかったため、医者をそのまま続けていた。
ケイリンが机の上に資料を広げる。それはユウキの診断の結果が書かれたものであり、シーラとアオイはそれぞれの資料を手に取って見た。
「……結論から言えば“離人症”のような症状と言える。私の専門は外科の方だから心の方はあまり詳しくないんだが、彼の現状はあまりよろしくないようだ」
アオイはユウキの暴走を目撃し、かつ直接その状態のユウキと相対していたこともあり、ユウキの入院中に同時にケイリンに検査を依頼していたのだった。そしてケイリンも怪我を治しながらユウキの検査を別の先生に依頼し、その結果が今日出ていたのだった。
「離人症って……?」
アオイは聞いたことのない症名にピンとこずケイリンに尋ねる。ケイリンはどう言葉にすべきか少し悩んだ後に答えた。
「う~ん……。まあ一言で言うなら自分が自分じゃないという感覚がずっと続いてしまうってものでね。現実感の喪失、それに伴う無感情の連続、無軌道な行動が特徴なんだ。……あの戦いで彼はあれほどの重傷にも関わらずラルダイン様を倒し、アオイ君に襲い掛かった。これも自分が怪我していることを無視している……そしてアオイ君に危害を加えていることに気づいていない。そう言えるだろう」
アオイは横にいるシーラと顔を合わせる。アオイにはユウキの症状に心当たりがあった。この世界はあまりに現実感がなさすぎる。文化レベルも日本とは遥かに違く、言ってしまえば“ゲームのようなファンタジーの世界”そのものだった。
アオイは瞬間移動の特殊能力はあれど、ユウキのような圧倒的な力を持っていないため、その意味ではまだ地に足がついていた。
「確か彼は戦闘の記憶を失ってるんだろう? ならそのままにしてあげた方がいい。これは思い出しちゃいけない記憶だ」
「なぜ?」
アオイがケイリンに尋ねるとシーラが横から答えた。
「……多分“必殺技”としてハイリスクすぎるから。それでもって発動条件が緩すぎる。いくら使っちゃいけないものだって認識してても、簡単に使えるなら使っちゃうもんですし」
「次があっても……というか絶対に次は使わせちゃいけない。だったら発動方法まで含め忘れてもらった方がありがたいってこと。わかった?」
ケイリンからの忠告にアオイは頷いて答えた。
「はい……。わかりました」
「うん。それで……」
「すみませーん」
ケイリンの話を遮るように部屋の外から声が聞こえ、次いでドアがノックされる。
「ああ、いいぞ入ってくれ」
ケイリンが予定していたかのように来客に対応したのを見て、アオイは不思議そうに尋ねた。
「誰か呼んでたんですか?」
アオイの質問にケイリンが答える。
「私。ユウキ君の治療に役立つ人を呼んでたの」
ドアが開かれると、黒髪の女性が一人入ってくる。アオイはどこか見覚えのあるその女性をまじまじと眺め、その視線に入ってきた女性も気が付いたのかアオイを見る。そして入ってきた女性の方から声をあげてアオイに詰め寄った。
「あー! アオイじゃない! なんでここにいるの!?」
その声を聞いて、アオイもようやく誰だったのかに気が付いた。
「ミカさん!? なんでここに!?」




