辛い時間の本当の始まり
それからさらに数週間が過ぎた。
食堂での1件以来、私が近づくと不安定な様子を見せ、接触を試みてもその一切を無視するようになっていたジェイド殿下。
ここにきて、その様子がまた変化を見せ始めている。
「こそこそと人の尊厳を踏みにじるような真似をしておいて、自分は優雅にお茶か?いい気なものだな」
侮蔑のこもった言い方、冷ややかな声色、憎々しさを隠しもしない視線を一身に受け、さすがに息苦しくなる。肺が空気をため込むのを止めてしまったような心地だ。
その日は学園の食堂だった。
昼食を終え、残りの休みの時間をメイとサマンサ様とゆっくりお茶を楽しみながら過ごしていたところに殿下がやって来たのだ。
側近であるエドウィン様やリューファス様、最近ではいつも隣に寄り添っていたはずのデイジーも連れずに、1人で。
テーブルを囲んで座っている私に向けて威圧的に立ち、こちらを睨みつけるジェイド殿下。
あと一歩距離が近く、手が届く範囲ならば暴力を振るわれたかもしれないと身の危険を感じるほどの勢いだ。
もちろん食堂には私たち以外にも何人もの生徒がいるわけで。
不安そうにこちらを見る者、あからさまに好奇の視線を向けてくる者、隠しもせず嘲笑を浮かべ観察している者。その反応は様々だが、そんな生徒達の中の半数以上が私に対して侮蔑の感情を抱いているのが分かる。
最近のジェイド殿下は、こうして積極的に私を罵りに現れるのだ。
どこにいてもやってくる。どんなに避けようと場所を選んでも、1日に1度はこうして捕まってしまう。
まるでそうするために私を探しているかのようだった。
せめてもの救いはいつでもメイやサマンサ様が側にいてくれること。
そうした事態が3日続いた時点で彼女たちは意識してなるべく私を1人にしないようにと気遣ってくれるようになった。本当に感謝してもしきれない。
2人が一緒にはいられないときにも、今のところ運よく魔法基礎の仲間の誰かや、お兄様が一緒にいてくれていた。本当に1人で行動している時でも捕まるのは大抵今日のように人がたくさんいるような空間で、そういう場合もたまたまテオドール殿下やカイゼルが側にいて助け舟を出してくれていた。
運よく、たまたま。
その確率の高さに少し疑問を抱いている。
本当に、たまたまなのだろうか?
「なんとか言ったらどうだ?本当に性根の腐った女だな!デイジーとは大違いだ」
思案の海に飲み込まれていた私は続く罵倒の言葉に思わず体が震え、現実に戻ってくる。
1度目に何度も向けられ、もはや見慣れてしまっていた憎しみのこもった目。
繰り返している今回の中でも別に初めてではない。
それでも、苦しい。
どれだけ多くの時間それに晒されようと、人から向けられる憎しみに、侮蔑の視線に慣れることなんてないのだ。
その厳しい視線の向こう側に、今はもう見られない思い出の中の優しい視線が頭の中で重なる。そしてその度に、世界から空気が徐々になくなっていくような感覚に陥っていく。
息が、苦しい。呼吸が上手くできない。辛い、苦しい、辛い。
体の陰で無意識に握っていた左手が不意に温もりに包まれる。
隣に寄り添うように立っていたサマンサ様が、私の手をそっと握ってくれていた。
負けてはならない、飲み込まれてはならないと、意識してそっと深く呼吸をする。
そうだ、戦っているのも、辛い思いをしているのも私だけではない。
今私に温かさを分けてくれているサマンサ様の右手は、彼女の辛い思いを象徴している。
「ジェイド様、お言葉ですがどうか場所を選んでくださいませ。あなた様のお立場にも関わります」
毎回そうだが、ジェイド殿下の言葉にどう返すべきか迷ってしまう。
彼はいつでもデイジーを引き合いに出して私を責め、罵るけれど、具体的な内容を叫ぶことはないのだ。1度目の断罪の時のようにありもしない罪でも上げ連ねてくれた方がまだ「事実ではない」と反論できる。
結局、いつもジェイド殿下の興奮の波の合間に、なんとか諫めるような言葉を紡ぐことしかできない。
「そんな風に話をすり替えて、反省する気もないのだな」
「では聞きますが、ジェイド様は私に一体何を反省せよと申されているのですか?」
「その耳障りな声で私の名を呼ぶな!!」
一際大きな声に、ひゅっと自分の喉が音を吸い込むのを他人事のように感じた。
『殿下などと。いつものようにジェイドと呼んでくれ』
『今後は名で呼ぶのは控えてくれ』
繰り返しの最初に困ったような笑顔で言われた言葉と、1度目の途中で今よりは幾分かましな冷たい表情で言われた言葉が同時にフラッシュバックする。
「……申し訳ございません」
私が頭を下げると、ギャラリーと化した生徒の中から、かすかに嘲笑が漏れ聞こえる。
ジェイド殿下の要領の得ない罵倒に、サマンサ様や私の味方でいてくれる人は困惑する。何を言っているのか、何に対して責め立てているのか分からないから。
しかし、これをまるで喜劇のように楽しんでいる者たちからすれば、その実内容などどうでもいいのだ。殿下が責め立て、私が責められる。その時点で私が悪者であり、嗤っても良い存在になる。それが全て。今日のように流れがどうであれ私が謝罪する形になれば、彼ら彼女らにとってはただ悪役が成敗される気持ちのいい展開の出来上がり。
それが楽しくて、面白くて仕方がないのである。
ジェイド殿下を中心に、私の周囲には歪んだ悪意が漂っていた。
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「いつもうまく助けることが出来ずに申し訳ありません……」
サマンサ様がそう言って項垂れる。
「とんでもないわ!側にいてくれるだけでどれだけ心強いか。1度目に1人で耐えるしかなかったことを考えると涙が出そうに嬉しいのよ」
疲れた笑みを浮かべながらそう本心を零してしまう。
サマンサ様はそっと私を抱きしめてくれた。
幸いなのは、殿下は決して側に寄り添う私の味方にまで矛先を向けないこと。あくまで私だけが彼のいら立ちの対象らしい。
異常でしかない現状も、なぜか許容される雰囲気になる。誰もおかしいと思わない。
殿下を止めない。間違っていると嘯くことはない。
1度目をなぞるような展開に、ぞわりと肌が粟立つ。
近づいて、きている。
1度目の今頃は、まだ何の問題もなくデイジーの存在も他の生徒たちの中に埋もれるばかりだった。
全ての展開が早まっている。
「まるで、1度目の始まりの頃までに全てが終わる様に事態が急いでいるようですわね……」
ぽつりとサマンサ様がそう言った。
やはり、全てが始まった2年生の始まりの時期がターニングポイントなのだ。
2年かけて卒業パーティーの断罪にまで進んでしまった異様な空気は、1年足らずで今その土台が出来上がり始めている。
私が力を覚醒した状態で巻き戻ったように、デイジーの光属性適性の覚醒が早かったように、1度目の歪んだ現実の因果が「今」に持ち越しているのかもしれない。
完全に1からやり直しているわけではないのだ。
それでは……このまま本来歪みが始まるはずのタイミングである2年生の始まりの時期になったとき、どうなるのだろうか?どこまで事態は進むのだろうか?
重ねた因果は膨らむばかり。
反対にその時期こそが、私達が事態を解決するための1つのタイムリミットでもあるような気がした。




