板海苔
結論から言えば、最初の紙漉き職人との交渉は上手くいかなかった。
しかし、気落ちしている暇はない。
今度は事前にしっかりと、話を通しておいた紙漉き職人の工房に向かう。
港町の紙業界では一番貧乏な零細個人事業主で、職人の家は最大手と比べれば小ぢんまりしていた。
町の外れにポツンと建てられていて、簡素で何だか少し寂しい気がする。
「こういうので良いのですよ。こういうので」
けれど私は満足そうに何度も頷く。
征夷大将軍を退位して楽隠居したあと、立地や家の理想だ。
将来的には一人静かに住みたいので、とても憧れる。
ちなみに零細紙漉き職人の略歴を簡単に説明すると、港町一番の工房の親方の利益最優先主義に反発し、首になったらしい。
それでも諦めきれずに奥さんに資金援助してもらい、最近になって独立起業した。
だが残念ながら工房と道具一式を揃えた辺りで銭が尽きてしまい、木材資源は品薄で値段が高騰している。
何より喧嘩別れした親方が、港町の紙業界を牛耳っているのだ。
仕事が入ることは滅多になく、さらに裏から手を回して潰される有り様であった。
そしてこれからどうしたものかと進退窮まり頭を悩ませていた時に、急に征夷大将軍が尋ねてきたのだ。
私は小さな工房の中に通されたので、若い夫婦を前に木の床に座って真面目にお話をする。
今度は交渉が成功すれば良いなと思いつつも、表情には一切出さない。
「板海苔ですか?」
「そうです。紙と同じ工程を踏めば、実現可能なはずです」
直感だが、彼ならやってくれそうだ。
私はここぞとばかりに押せ押せで説明をすると、彼は考えることのなく嬉しそうに頷く。
「良いですよ。うちは仕事を選べる立場ではありません。
何より稲荷神様に言われた通りに板海苔を作れば、買い取ってくれるのでしょう?」
若い職人の期待するような表情に、私はしまったと言葉を詰まらせる。
思えば自分は無一文で、遠出の費用も全て松平さん持ちだ。
最初の目的は北条さんの引越し前のご挨拶と、難民の救済だ。
用が終われば、すぐに帰るはずだった。
しかし期間は延長して、武田さんの領地に寄り道して、次は今川さんに頼まれた仕事を終わらせて豪遊している。
奇病の解決は日本のためになると自信を持って言えるが、板海苔うんぬんについては完全に私のわがままだ。
果たしてそんな俗物的な理由で、松平さんに投資してくださいとお願いして良いものかどうか、迷ってしまう。
私は深く考えるフリをしながら、横目で案内役に視線を送って小声で話しかける。
「板海苔の産業は今川さんの領地が発祥になるので、出資してくれませんか?」
すると護衛の人は大きく頷き、次に大声で口を開く。
「主君である今川氏真様の代理として、そなたらを雇用しよう!
心配には及ばん! 稲荷神様のお墨付きだ!」
その発言を聞いて、若夫婦はお互いに仲良く両手を握る。
ようやく仕事ができると言わんばかりに大喜びしたが、私はまだ支援できるかわからないし最初から全部上手くいくとは限らなかった。
「おおっ! 稲荷神様と今川様にご支援いただけますか!
ありがたき幸せで存じます!」
私はアドバイスぐらいしかできないので申し訳ない気持ちがあるが、板海苔事業発祥の地として今川さんが喜んでくれて、紙漉き職人も仕事にありつけるなら構わない。
今はとにかく、松平さんに迷惑をかけずに済むように頑張ろうと、内心で気合を入れるのだった。
今川さんに、板海苔事業に出資する契約を結んでもらう。
詳しくは後ほどだが、嘘は言っていないので紙漉き職人の若夫婦は俄然やる気になった。
お殿様もきっと、これから今川領の産業として盛り立てていくつもりだろう。
その際に私も、いくつか契約書にサインするハメになった。それだけ今川さんも本気ということだ。
苦境に立たされていた若夫婦が協力してくれるなら、何だか知らんがとにかくヨシと前向きに考えるのであった。
やがて契約を交わして、数日が経過した。
今の私が何をしているのかと言うと、板海苔の試行錯誤である。
別に難しいことはなく、生海苔を紙漉きで薄く伸ばしたあと、日向に干して乾燥させるだけだ。
はっきり言って近い将来誰かが思いついてもおかしくなく、真似るのも容易である。
しかし今は、生海苔自体の数が少ない。
もっぱら朝廷や大名や身分が高かったり、お金持ちの人への献上品となっている。
天然物に頼り切っているので大量生産は厳しく、零細の工房で小規模な実験するほうがやりやすかった。
そういう面でも、大手を断って正解だったようだ。
そして、今川さんに出資してもらうためには、とにかく早期に成果を出さなければいけない。
なので本来は日光に当てて乾かすのだが、少しでも時間を短縮するために狐火で炙る。
それでも何度も試行錯誤をしたけれど、板海苔を強引に完成させた。
藁や薪が調達できればいいのだが、現状では厳しいので苦肉の策だ。
何度も試食をしたので大丈夫だと思うが、念の為に料理レシピ付きで案内役に渡す。
そして彼に今川氏真さんに届けるようにと伝えて、数日が経過したのであった。
お弟子さんを雇う余裕がない夫婦共働きの小さな工房では、今は私やお供の者たちが弟子の代わりになって働いていた。
ちなみに今日は晴天である。
板海苔を工房の外に置かれた木枠の棚に、一枚ずつ丁寧に干していた。
「与作はー、へいへいほー」
何処で聞いたかも覚えていない謎の歌を、呑気に口ずさむ。
さらに桜さんや花子さん、桔梗ちゃんも交えて労働の汗を流す。
すると今川さんの元まで書類を届けに行ってくれた武士の人が戻ってきた。
彼は無言でこちらに近づいてくると、何だか申し訳なさそう表情で話しかけてきた。
「稲荷神様、海苔の養殖についてお聞きしたいのですが」
「そのお話は、なかったことになったのでは?」
私は磯の匂いが強い生海苔を、木枠の棚に干す作業を桜さんたちに任せる。
そして手を止めて、まずは彼の話を真面目に聞くことにした。
「今川様が、おにぎりに板海苔を巻く食べ方を、大層気に入られまして」
「美味しいですものね。海苔巻おにぎり、手にもくっつきませんし」
「……はい」
案内役の人も、炙り板海苔を味見と称して、おにぎりに巻いて食べたことがある。
ただのこれまでとは大違いだと実感しているので、今川さんの気持ちは痛いほどわかるのだろう。
そして今川さんには試作の板海苔と、それを使ったレシピも送っていた。
海苔の文化がまた一ページ、日本の歴史に刻まれたのである。
歴史書には、初めて板海苔を食べたのは今川氏真だとか記載されそうだ。
だがまあ、そんな歴史家たちの議論など知ったこっちゃない。
今は海苔の養殖についての話を進めるのが肝心だが、一朝一夕でできるものではないので匂わせただけだ。
私も詳しくは知らないから無理だよ的な内容を、書面に記載したはずだった。
しかし今川さんは諦めきれないようで、そこを何とかと強く頼み込んできたのだ。
「うーん、海苔の養殖ですか」
「何とかなりませぬか?」
少し前には五穀豊穣の神と海の神は相性が悪かったり、流石に海は無理だろうと言われていた。
けれど板海苔を食べて意見が変わったので、私も少しだけ真面目に考える。
海産物の減少を抑えたり安定した生産量を確保するためにも、養殖は望むところだ。
できれば前世のように海苔が気軽に食べられて、毎日食卓に並ぶようにしたい。
なので嘘偽りなく、正直に説明していく。
「私の教え通りに行えば、自然の海苔を回収するよりも効率が上がります」
「おおっ! では!」
「しかし、失敗する可能性もあります」
最初から全てが上手くいくはずがない。
同じような人工栽培である、茸の菌床栽培も一箱から多くて十本が良いところだった。
前世の日本では不作にもほどがあったが、それでも関わった職人たちは大成功だと喜んでくれた。
だが気を使ってくれているのはバレバレで、次回はもっと沢山収穫できるように頑張りましょうと声をかけるのが精一杯であった。
つまり海苔の養殖も、失敗する可能性が高いのだ。
原因を究明して一歩ずつ前に進めていれば、いつかは成功するが道のりは果てしなく長い。
「海苔に詳しい方に協力してもらえば、天然物の採取よりは効率は高まるかも知れません」
テレビのニュースや海の見える場所に観光したときには、海苔を育てている人たちを見たことはある。
ただし私は全くの素人で、網を海に浮かせて海苔がびっしりついている光景しか思い浮かばない。
海藻の生育に関しての基本知識こそあるが、私だけでは海苔の養殖には程遠かった。
「稲荷神様! 何卒! 何卒よろしくお願い致します!」
「わかりました。微力を尽くしましょう」
取りあえずまずは、海苔の天日干しが一段落してからだ。
その間に彼が地元の漁師たちに話をつけるという流れになり、後日説明会を開くことになる。
前世の海苔の養殖法を朧気でも教える流れだ。
先行きに若干の不安を感じるし、今のうちにある程度資料をまとめておこうと思ったのだった。




