天下人の条件
<稲荷神社の宮司>
時は経って永禄六年の初夏になった。
三河と尾張の両国の稲荷神社に、ある文が届く。
それは難民を保護するための支援物資の要求だった。
差出人は三河の稲荷山の稲荷神社に住む、稲荷神を自称する怪しい童女だ。
「宮司様はいかがされるおつもりでしょうか?」
「普通ならば詐欺を疑い、無視するところだが」
あまりに常識外れの内容だったため、ここまで運んできた巫女にも読ませた。
そしてどうしたものかと聞かれれば、実は少々悩んでいる。
ゆえに例の噂について、率直に尋ねてみる。
「お前は、豊川で民に教えを広める稲荷神の噂を、知っているか?」
すると巫女は少しだけ考えて、おもむろに口を開く。
「稲荷神の教えで荒れた土地が豊かになり、病気になる者が減り、怪我の治りも早くなる。
さらには、見たこともない道具や食べ物を作り出し、一揆を鎮圧した稲荷神様の化身の噂でしょうか?」
たった今巫女が語った通り、とんでもない噂が広まったものだ。
これらのどれか一つ取っても、ありえないと笑い飛ばすのは間違いない。
しかもただの知恵者ではなく、稲荷神を自称しているのだ。胡散臭いにも程がある。
「狐の耳と尻尾が生えていると? 本当でしょうか?」
「正直なところ、この目で見るまではとても信じられん」
「私もそう思います」
肌や髪、目の色が違う異邦人は、過去に一度だけ見たことがある。
だが何処の世界に、狐の耳と尻尾の生えた人間がいるものかだ。
神話や伝承にはたびたび登場するし、信仰対象なので神々の世界には存在しているだろう。
しかし現世に本当に居るとしたら、物の怪の類か正真正銘の本物の稲荷神だ。
そうでなければ、あり得るはずがない。
「尾ひれのついた噂でしょうか?」
「そうとしか思えんが、劣勢の松平軍に加勢し、勝利に大きく貢献したとも聞く」
「狼に乗って戦場を駆け、富永忠元をたったの一太刀で討ち取った。⋯⋯でしたか?」
あまりにも劇的な活躍に、藤波畷の戦いがまるで神話のようだ。
なお実際に三河の民の間で、まことしやかに囁かれているし、敵味方双方、大勢の目撃者が居る。
図らずとも、稲荷神はただの噂ではなく本当に存在するのだと、多くの者が信じる結果になった。
かなり悩んだが、やがて結論を出す。
「支援しよう」
「よろしいのですか?」
「戦だけでなく秋祭りでも姿を見た者も居るのだ。今ここで、稲荷神を偽物と断言することもあるまい」
正直まだ迷っているが、取りあえず支援物資を送ってみることに決めた。
もし騙されたとしても、詐欺師の所在地は割れている。
その時には直接文句を言いに行って、強引にでも取り立てればいい。
何より私は、豊川の稲荷神を信じてみたくなった。
「乱世に安寧をもたらしている稲荷神に賭けてみるのも、悪いことではあるまい」
「少々噂が独り歩きしていますが、やっていることは善行ですからね」
巫女も同意しているようで、私も静かに頷く。
「そうだ。詐欺師は人を騙して不幸にする。
しかし稲荷神は、民を幸福にしている」
噂に尾ひれや背びれ、さらに胸びれどころか羽まで生えているが、その教えは三河の民を幸福にしているのは事実だ。
そして詐欺師は分け前を掠め取り、自らの懐のみに富を抱え込む。
だが彼女はお供え物の一部を受け取って、残りは稲荷祭で民に分け与えていた。
戦乱の世にこれほどの善行を行える人間が、一体どれだけ居るやらだ。
「そんなことを言いつつも宮司様は、最終的に一割増しで返ってくることに、期待していませんか?」
「否定はせぬがな」
支援した物資を、後日一割増しで返すと記載されていた。
なので心が揺れたのも事実であるが、この国に仏の教えが広まってから、神道の勢いは衰えるばかりだ。
さらに不正は程々にし、そこそこ真面目に運営しているうちの神社の儲けは少ない。
それでも懐には多少の余裕はあるので、この機会に一割の儲けに期待するのも悪いことではなかった。
ともかく理由はどうあれ、苦しんでいる民草のために支援物資を送るのだ。何の問題はない。
私はいそいそと立派な判子が押された書状を手に持ち、わざとらしく咳払いをする。
蔑むような視線をこちらを向けている巫女を、何とか誤魔化して急ぎ手続きを済ませるのだった。
<稲荷神(偽)>
少しだけ時が過ぎて、永禄六年の夏になった。
全国の稲荷神社から支援物資が続々と届き始めたので、暖かいご支援に感謝感激的な内容の手紙を急ぎ送り返す。
やはり一割増しで返すという条件が効いたのかも知れない。
だが、時と場所までは指定していない。
その気になれば十年、二十年先でも返済は可能なのだ。
しかし、あまり待たせすぎると直接苦情を訴えに来そうだ。
それに今の速度で三河が発展していけば、数年ほどで全ての返済を終えられそうである。
生産量は他国を大きく引き離して激増中なので、何事もなければ借金で首が回らなくなることはないだろう。
そして、今の所は上手くいっている。
だが戦国時代に大量の物資を運搬するなど、鴨が葱を背負っているような物だ。
たとえ自国だろうと略奪目的の野盗に襲われることは多々あるし、他国ならなおさら襲われやすい。
その時に活躍するのが、稲荷大明神ののぼり旗だ。
この時代は神様が存在すると普通に信じられており、お供え物に手を出す罰当たりは殆ど居ない。
もちろん信仰心の欠片もない者も居るが、被害を受ける可能性が減るのは良いことだ。
勝手に名前を使うと各々の神社から抗議を受けるが、中身は女子高生でも見た目だけなら立派な狐っ娘である。
しかも、まだ道半ばだが一応は実績をあげていた。
今では噂にヒレがつきまくって、周辺諸国では稲荷大明神(偽)ぐらいにランクアップされて認知されている。
これなら余程のことがない限り、直接喧嘩を売られることはない。
そう思っていたのだが、どうやら甘かったようだ。
「一向宗から襲撃を受けたと?」
「支援物資を守るは精鋭なので、劣勢だと判断してすぐ山中に逃げ申した。
しかし何人か捕らえて聞き出したので、恐らく間違いはないかと」
本多さんが本宮の社務所の床をドンと叩き、悔しそうな顔をしている。
だがハエのように私たちの周りをブンブン飛び回る一向宗には、毎度毎度邪魔をされていた。
流石にうんざりして、戦国時代って面倒だなーと、表情は変えずに心の中で大きな溜息を吐く。
「最近では東の今川、北の斎藤と武田からも支援物資が送られてきています。
それでも、一向宗は少々目障りですね」
「今川と斎藤と武田は、稲荷神様の教え目当てでござろうか?」
戦国の世に、無償の施しを行うことはありえなくはない。
だが何処の国も資源が有り余っているわけではないし、何かしらの見返りを考えると十中八九私の教えが目当てだろう。
なので私は少し考えて、思いつきを口にする。
「では、彼らの領土にも指導員を送りましょうか」
「稲荷神様! 相手は敵でござるぞ!」
救援物資はありがたくいただくが、敵対しているのだ。本多さんが怒るのも当然だ。
しかし前世を覚えている私にとっては、都道府県の違いはあっても、誰もが同じ日本国民である。
「たとえ今は敵でも、天下を取れば同胞です」
「天下で、ござるか? 今は足利将軍が治めてござったな」
足利と聞いても、下の名前は覚えてない。
私は顎に小さな手を当てて、本多さんの言葉に答える。
「足利将軍はもう、己の役目を果たせていません。
誰かが古きを終わらせ、新たな日の本の国の舵取りをしなければ、平和にはならないでしょうね」
歴史の教科書には織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人が、天下という椅子取りゲームをしていた。
一人目はあと一歩まで迫ったが強制退場させられ、二人目は椅子に座ったが長くは続かなかった。
しかし三人目は、三百年もの天下泰平を築き上げる。
私の最終目標は平和な時代で普通にのんびりと暮らすことだ。
早いところ戦乱の世を終わらせるためにも、さっさと徳川さんに江戸幕府を開いてもらいたい。
(松平さんが家康の可能性が高いし、彼には頑張ってもらいたいなぁ)
だがそれとは別に、足利将軍の頼りにならないことに溜息を吐く。
一応頑張ってはいるのだろうが、任せて安心という気が全くしない。
取りあえず本日のデスクワークの精神的な疲労を癒すために、乾いた喉を温かなお茶で潤す。
すると本多さんがハッとした表情になり、何かに気づいたのか大声を出した。
「なるほど! つまり稲荷神様が天下を取り、新たに日の本の国を治めるのでござるな!」
「ぶふううううっ!!! ごほっ⋯⋯げほっ!? なっ⋯⋯何ですか! それは!?」
本多さんに衝撃的な言葉をかけられて、口に含んだお茶を思いっきり吹き出してしまった。
まるで理解できない。何で私が天下を取らないといけないのだ。
たとえ前世の知識や経験があっても、平凡な元女子高生に、そんな大それたことができるわけがない。
取り乱しながらも、私は布巾で溢したお茶を拭き取る。
だがその間も、彼は瞳を輝かせながら説明を続けた。
「稲荷神様は、日の本の国の神の一柱でありまする!
当然! 朝廷に勝るとも劣らぬ権威を持っておりますゆえ!」
「いっいえ、私は、そんな大した存在では!」
「人と神、どちらが偉いのか! 稲荷神様に、わからぬはずがございませぬ!」
当然、神様のほうが人間よりも偉いと口に出かけたが、グッと堪える。
それを言ったら、何やかんやで私が天下を取る流れになりそうだったのだ。
何とか本多さんを納得させないと、自分の身が色んな意味で危なくなる。
戦国乱世の渦中に飛び込めば平穏な暮らしが遠ざかるし、命の危険もあるだろう。
それにもし全てが上手くいって新しい時代が来ても、今度は政治をしないとけない。
狐っ娘の中身は元女子高生で、おまけに頭もあまり良くはないのだ。
ぶっちゃけ私に日本の舵取りなど無理だし、絶対に暗礁に乗り上げるに決まっていた。
なので何とか本多さんの意見を変えるために、足りない頭を捻って考える。
「今は人間の時代で、私は既に舞台を退いた身です」
少なくとも私の他に人外の存在は見たことないし、噂も全然聞かない。
人間の時代なのは間違いないうえ、表舞台には絶対上がりたくない。
「ですが日の本の国の民は、長い戦乱で疲れ果てております!
なのに争いは激化する一方! もはや稲荷様が再び上に立たねば収まらぬかと!」
何と言うことだ。ここに来て稲荷神(偽)を演じ続けたツケが周ってきた。
過去の偉人が争いを終わらせ、国を統一した事例は多々ある。しかし何処も結局、平和は長くは続かなかった。
日本なら大和王朝や鎌倉幕府。そして今の室町幕府だ。
詳しい意味はわからなくても年表で丸暗記したので、ぼんやりとだけ覚えている。
つまり、だからこそ本多さんは私にお願いするのだ。
人間に駄目でも神様なら、この国を支える礎として相応しい。
それこそ千年の安寧を築くことさえ夢ではないと、本心から信じきっている。
私は大きく溜息を吐いた。
もはやこれまでと諦めたわけではないが、グイグイ来る彼にどうしても聞いておきたいことがある。
「それは、本多さんだけの意見ですか?」
「いえ! 松平殿と織田殿も同意してござった!
さらに拙者の同胞で、稲荷神様の指導を受けた者は、皆同じ意見かと!」
「そっ、そうですか」
肉体的には頑丈な狐っ娘で、胃に穴が開くこともない。
だが何だか気分的に頭が痛くなってきたので、手で額を押さえて社務所の天井を仰ぎ見る。
殆ど男性のみが出世する戦国時代に、女性の私が特例として上に立っても、現場を混乱させるだけだ。
さらに前世で政治に関わったわけではなく、狐っ娘の中身は平凡な元女子高生に過ぎない。
とにかく明らかに分不相応で荷が重すぎるし、天下を取ってやるぜという野心は微塵もない。
望みは命の危険がなく平穏に暮らしたいという、ささやかな幸せぐらいだ。
それに何となくだが、織田信長のほうが野心にギラついているイメージである。
彼が私に席を譲るとかありえないと思うのだけど、同意したとはこれいかにであった。
「そもそも、私よりも天下を握るに相応しい人物が居るのでは? 例えば──」
「稲荷神様が相応しくなければ、他の者は皆不合格でござろう!」
織田さんとかと続けようとすると、先程から一歩も引かない本多さんに断言された。
あまりの気迫に、こちらのほうがタジタジになる。
いつの間に、これ程の好感度を稼いでいたのか。もしくは信仰度と言ったほうが良いのかも知れない。
そう言えば彼はいつも、私の活躍を近くで見ていたことを思い出す。
ならば本多さんの信念を、今この場で突き崩すのは不可能に近い。
私は考え方を変えて、押して駄目なら引いてみる作戦を取る。
「仕方ありませんね。では条件付きなら、引き受けても良いですよ」
「おお! ありがたい! して、条件というのは?」
彼は押しが強いので、このまま問答を続ければ、強引にでも天下を取る約束をさせられかねない。
ならば、こちらが先に妥協して達成困難な条件を出すのだ。
そうすれば、たとえその場しのぎでも、本多さんは納得して引き下がってくれるだろう。
「全国の大名が、私にこの国を治めて欲しいと、嘘偽りなく願うこと。
神とは人々に望まれてこそ、この世に存在することが許されるのです」
「なっ! なるほど! 一理ありますな!」
本当は嘘八百だが、本多さんにははっきりと断言しておく。
でなければ私が首を縦に振るまで、引き下がってくれそうにない。
しかし何はともあれ、彼は納得したようで感心顔である。
「稲荷神様! 拙者は至急、殿に報告をせねばならぬ用ができたため! これにて失礼致す!」
「あっ、はい。ではまた」
本多さんは勢い良く座布団から立ち上がると、風のように社務所の玄関から飛び出していった。
余程急ぎの用だったらしく、引き戸を閉めるのを忘れている。
参道を勢い良く駆け下りていく若武者に、すれ違った多くの参拝者がギョッとした顔で振り返る。
私が日本の舵取りをする条件を、松平さんに伝えに言ったのは間違いない。
しかし、全ての人に好かれる人間は居ない。
つまり彼がどれだけ頑張っても、自分は天下人ではなく長山村、もしくは三河国のローカルゴッド狐っ娘のままだ。
だが本多さんや松平さん、さらにそれを取り巻く多くの人々が、天下泰平の世を目指して動くのは悪くはない。
何より最終的にまだ見ぬ徳川家康が天下の椅子に座りさえすれば、平穏に暮らすという自分の目的は達成されるのだ。
とにかく中身が女子高生の稲荷様(偽)は、これで表舞台に出なくて済むと一安心する。
私は大きく息を吐いて、すっかり冷めたお茶で乾いた喉を潤すのだった。




