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難民

<難民>

 永禄六年の春に、三河の周辺諸国にある噂が流れた。


 稲荷神様が三河の地に降臨し、貧しい農民たちに五穀豊穣をもたらしているらしい。

 普通に考えれば嘘や詐欺を疑うべきだろうし、この目で見るまではとてもではないが信じられない。


 真面目に信じてる奴らは頭がおかしいなどと、多くの者が笑い飛ばして話を聞こうともしなかった。


 しかし、今は戦乱の世だ。

 銭も食料も権力者が独占し、社会的な弱者である農民には、まさに生き地獄と言っても過言ではない。


 戦か飢えか、病や寒さか、常に明日への不安に苛まれる日々を送っている。

 そのため、たとえ信憑性の低い噂だとしても、一揆を起こして破れかぶれになるよりはマシだと、藁にもすがりたくなる者もいるのだ。




 かくして貧しい村を捨てて、難民となる者が続出する。


 三河を目指す道中では、他にも稲荷神様の噂を聞いた者たちと合流し、いつの間にやらその数は千を越える大所帯となった。


 しかしながら、途中で飢えや病気、または怪我等で亡くなる者も大勢出てしまう。

 それでも心の底から救いを求める難民たちの歩みは、決して止まることはなかった。


 今さら故郷に引き返したところで、ただ死を待つだけだ。

 冬を越して春まで辛うじて生き延びたが、もはや今年を乗り切るだけの余力は残されていない。


 領主様はお救米をくださると約束してくれたが、それでも飢えに苦しみ、今年の年貢がまともに納められる状態ではなかった。


 昨年通りの農作業をしようにも、最近の戦で大勢が帰らぬ人となっている。

 村の労働力は、全く足りていなかった。


 なので、あちらこちらで故郷を捨てる者が続出し、多くの村人が難民になる。

 噂の稲荷神様に救いを求めるのも、無理もないのであった。







 そんな藁にもすがる思いで三河国を目指す難民たちだったが、長年連れ添った家畜さえ食べねば飢えて死ぬ有様だ。

 皆、徒歩で長い距離を移動していた


 おまけに村を去る前に持ってきた少ない食料は、とっくに尽きている。

 山や森に入って木の実か茸、またはその辺りの野草を採って食べ、雨や川の水で空腹を紛らわしていた。


 途中で長旅の疲れが溜まったのか、今年十になったばかりの息子が足を止めて、細い街道の隅にへたり込んだ。

 やせ細ってあばらの見えるお腹を押さえて、父親の私に声をかけてくる。


「父ちゃん、腹減ったよぉ」


 妻も疲れ切った表情で歩みを止めて、息子に寄り添う。

 村の者たちも皆、不安そうな顔をしていた。


 今自分たちが居るのは、三河の国境沿いの村の付近だ。


 この国の殿様は難民が押し寄せていると知るや否や、多くの兵士や役人を送り込んで、死にたくなければ指示に従うようにと厳命した。

 村の中には入れずに、街道沿いで待ちぼうけをするハメになった。


 役人たちの様子を伺うと、難民の正確な数の把握を行っていようだ。


「お侍さんの仕事が終わったら、寺に行って食べ物を恵んでもらおう。だから、それまでの辛抱だ」

「うん、わかったよ。父ちゃん」


 食物の話になって、息子は少しは元気が戻ったようだ。そんな彼の頭を優しく撫でる。

 たとえ作り笑いだろうと大丈夫だと告げて安心させ、役人の仕事が終わるのを黙って待つ。


(息子にはそう言ったが。果たして寺の住職が、俺たち難民に食料を分けてくれるのか?)


 役人も問答無用で追い返さないのは良いが、自分たちをどのように扱うかはわからない。

 それに寺院に食料があっても、理由をつけて施しをしない場合もある。


 何しろ大雑把に数えても、千人を越えているのだ。

 物資を与えようにも到底足りない。


 だがそんな残酷な現実に息子は気づかず、ようやくご飯が食べられると無邪気に喜んでいる。

 とてもではないが、告げる気にはなれなかった。




 俺たちは稲荷神様の救いを求めて、三河国までやって来た。

 だが何処の国でもそうだが、難民の扱いはかなり厳しい。


 奴隷として使い潰されるか、農民より下の身分に落とされるならまだ良い方だ。

 重労働が出来る男手以外は用がないと、その場で切り捨てられることも十分にあり得る。


 それが、戦乱に明け暮れる世の常なのだ。

 しかしもしそうなったら、自分はどうなっても良いので、妻と息子だけは助けて欲しいと懇願しようと決意を固める。


 やがて難民を数え終えた役人の一人が、こちらに向けて大声で呼びかけてきた。

 俺はそれに気づいて、大きな声を返事をする。


「この村の代表は名乗りを上げろ!」

「お役人様! 申し訳ありません! 村長は長旅の途中で!」


 冬の間はろくに食べられたなかったことと高齢が重なり、道中で息を引き取ってしまった。


 村民一同で弔いはしたが、街道の隅に浅い穴を掘って埋めただけだ。

 それでも仕方がないと諦めて冥福を祈り、村長の死を無駄にしないためにも、何とかここまで辿り着いた。


「ふむ、そうか。では今は、誰が代表だ?」

「今は俺が、村長の代理をしております」


 残りの人数を教えたり、落ち着いて指示に従うようにと言い聞かせたりしている。

 俺はかつての村長のような仕事をしていた。

 他にやりたがる者が居なかったので、仕方なくである。


「では、お前を村の代表として扱う!

 これより塩粥の炊き出しの説明を行うので、代表一名のみ、後に付いて来るように!」


 役人に了解致しましたと返事をしたあとに、ふと妙なことに気づいた。

 塩粥の炊き出しを行うとか聞こえたのだ。疑問に思った私は、すぐに慌てて尋ねる。


「お役人様、質問があるのですが」

「何だ? 聞きたいことがあるなら手短にな」

「我々難民に、食事を恵んでくださるのでしょうか?」


 普通は神や仏が炊き出しを行うもので、お役人が難民に施しをくださるのは、うちの村ではあり得なかった。


 せいぜいお救米をほんの少し恵んでくれるだけで、料理をそのまま食べさせるなど、常識外れにも程がある。


「塩粥は稲荷神様からの施しだ! お慈悲に感謝するのだな!」

「「「ははー!!! 海よりも深く感謝致します!!!」」」


 瞬間、周りで話を聞いていた他の村人も、自然に一斉に頭を下げる。

 役人の言われたそのままに、稲荷神様の慈悲深さに大いに感謝した。


 この先どうなるかはまだわからないが、取りあえずは今すぐ飢えて死ぬことはなさそうだ。


 私たち家族だけでなく村人全員は、これからの説明のために代表を案内する役人の背中に視線を向ける。

 中には涙を流して祈りを捧げる者も居るが、一時的とはいえようやく心の底から安堵したのだった。




 役人に案内されて、俺は炊き出しの集合場所までやって来た。

 横一列に並んだ多くの大鍋の前には、難民たちの長蛇の列がでいる。

 彼らは皆とても良い笑顔を浮かべて、茶碗一杯のお粥を受け取っていた。


「満腹になるには量が足りぬが、食料も無限にあるわけではない! 一人一杯を厳守せよ!」

「了解致しました!」


 役人の命令を心の中で何度も繰り返して、しっかり覚える。

 お粥を食べられるだけでも、とてもありがたい。しかも塩味までついているとは、破格の待遇であった。


 これで一先ずの食事は何とかなったが、その後の展開にはまだ少し不安が残る。


 心構えをする時間を作るために、今ここで尋ねようと口を開きかけたところで、役人から先に言葉をかけられた。


「難民たちの今後の処遇だが、この地で一晩休息をとった後は、開拓村に拠点を移す」


 少し離れた位置から炊き出しの様子を観察しながら、役人は淡々と説明を行う。

 しかし、今の言葉だけでは何のことかわからない。俺は再び尋ねる。


「あの、開拓村とは?」

「言葉通り、お前たちが新たに起こす村のことだ。

 一年間の衣食住の保証は稲荷神様が行うが、二年目からは四公六民の年貢を払ってもらう」


 言葉もなかった。一年間の生活の保証も、二年目から四公六民もとんでもないことだ。

 私の村では六公四民だった。

 だからなおさら、破格の待遇だと理解させられてしまう。


 思わず聞き返そうと口を開きかけると、役人が面倒そうに頭をかきながら、先に説明を行う。


「言っておくが、間違いではないぞ。全て稲荷神様がお決めになられたことだ。黙って従え」

「ははー! ありがたき幸せで存じます!」


 とにかく、そう返答するのが精一杯だった。

 しかしここで何より問題なのは、今聞かされた事実を、村人たちにどう打ち明けたものかである。


 あまりにも俺たちに都合が良すぎるため、嘘だと思われそうだ。

 下手をしたら騙そうとしていると疑いをかけられるし、とにかく皆を納得させるのに苦労しそうである。


「あの、お役人様」

「お前が村人全員に説明するんだ! 俺は絶対に手を貸さんぞ!

 もう稲荷神様の代理として崇められるのは、懲り懲りなんだよ!」


 協力を求めようとしたところで、先程まで穏やかだった役人があからさまに声を荒げた。


 その後に詳しく事情を聞くと、過去に何度かは村民に直接説明をしていた。

 最初は疑われるが稲荷神様の名前を出すと、最終的には納得してくれたようだ。


 しかし、そのたびにあまりの待遇の良さに感動した村人たちから祈りを捧げられたり、ありがたや~と涙を流されたらしい。

 彼の後ろに、稲荷神様を見ているのは明らかった。


「開拓村の施設や道具は、全て無償で提供される。

 だがその代わり、こちらの指示。つまりは稲荷神様の教えには必ず従ってもらう」

「了解致しました!」


 絶対服従を強要されるとは、まるで奴隷のような扱いだ。

 しかし、一年間の生活保障と自分たちの村を再び持てるのだ。


 さらに来年からは四公六民という高待遇なのだから、文句などあるはずがなかった。


「稲荷神様の教えは、これまでの常識が全く当てにならん。

 ゆえに疑問に思うことなく、とにかく黙って従え」

「あの、稲荷神様の教えとは?」

「こればかりは口で説明しても、今のお前には到底理解できぬわ」


 役人も無駄なことはしたくないだろうし、黙って頷いておく。


 その後は今炊き出しに並んでいる列がさばけたら、次がうちの村だと聞かされる。


 なので、愛する妻や息子、これからも苦楽を共にする村の者たちに、急ぎ知らせに行った。


 三河に来たおかげで、これからの未来に希望が持てた。

 稲荷神様には本当に感謝しかない。御恩に報いるためにも教えにはしっかり従い、開拓に励もうと思う。

 村民一同、決意を新たにするのだった。

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