織田の思惑
<織田信長>
三河に密偵を向かわせ、内情を探らせる。だが例の噂に関しては、未だに良くわかっていないことが多い。
しかし別に部下たちが無能と言うわけではなく、懸命に仕事をしているのはよくわかっている。
これが斎藤や今川、武田ならば問題ないだろう。
だが、松平の内情を探る仕事では、あまり上手くいっていない。
何故なら、稲荷神を自称する者のやること成すことが、あまりにも規格外過ぎるからだ。
従来の常識には囚われずに、全く予想だにしなかったことを次から次へと生み出している。
なので現場でそれを目にした密偵は大いに混乱し、おまけに一度に持ち帰れる情報も限りがある。
彼らは皆熟練の密偵であり、裏打ちされた過去の経験に従い、持ち帰る情報を取捨選択する。
結果、不要だと切り捨てたそれこそが、もっとも大切であったという失態を、たびたび犯してしまうのだ。
それに松平が偽装情報を広めたり、他国の密偵の侵入や監視を厳しく取り締まっている。
余計に稲荷神を名乗る者の実態が掴み辛くなっているからこそ、埒が明かないと考えた儂は自ら動くことに決めた。
「百聞は一見にしかずじゃ! 案内をよろしく頼むぞ!」
「よろしく頼むぞで片付けるのも、どうかと思うのですが!」
頼りになる護衛は連れてきたし、三河とは同盟を結んでいる。
しかし戦国の世に絶対はなく、油断は禁物だ。家族や親友に寝首をかかれるのは良くある話だ。
実際に岡崎城下までお忍びでやって来た時は、謁見に応じた松平殿が大いに驚いていた。
けれど好機と判断して儂を討たないので、猪武者ではなく先を見据えた判断ができる知恵者だと理解する。
彼自身は裏切る可能性が低く、同盟相手に相応しい。
儂の命を危険に晒したが戦乱の世では良くあることだし、松平殿の人となりが知れただけでも、無駄ではなかった。
その後は渋々ながらも、長山村までの案内を引き受けてくれた。
織田勢と松平勢がそれぞれに分かれて馬に乗り、稲荷神の住居を目指す。
秋晴れで涼しい風が吹く街道を進み、互いにぎこちないが刀を抜いて害そうとは考えていない。
儂も家臣も余程無礼を働かない限り、刃を向けられることは決してないだろう。
何故なら噂の稲荷神が、松平の同盟相手として織田を選んだからだ。
松平殿や家臣一同、そして民衆たちは稲荷神に絶大な信頼を置いている。
密偵の報告で既に明らかになっているからこそ、その誓いは決して破られることはない。
だがまあ、中には逆らう者も居るかも知れないが、少なくとも松平殿は忍耐強い大名だ。
そして現在、彼が同行を許した部下も稲荷神を信頼していると見ていいだろう。
それに、これから彼女にお忍びで会いに行くのだ。
せっかくの機会だと、稲荷神にお目通りしたい者が松平殿に願い出て、同行を志願するのは当然と言える。
「しかし三河国に入った頃から感じておったが、稲荷神社の数が多い気がするのう」
「寺院の多くが稲荷神社に改宗していますからね」
儂は密偵からの情報を頭の中で整理する。
現在自ら見聞きしているものと、答えを合わせていく。
つまりは一向宗が稲荷神へと改宗しているのだ。
三河国の宗教勢力図が少しずつ変化していることを理解する。
「本願寺はどうするつもりじゃ?」
「今さら動いても、時既に遅しですよ。少なくとも、三河に関してはですが」
「なるほど、もはや戦にならぬか」
一向宗は僧兵を持ってはいるが、それは自衛のためだ。実際に駒として動かすのは農民たちである。
常日頃から抱えている不平不満を統治者に向けさせて、一揆という形で爆発させるのだ。
本来ならば本願寺が檄を飛ばした時点で、その波は三河全土に波及する。
時には統治者の部下まで一揆に加わり、国を崩しかねない大きなうねりになるはずだった。
全国の大名が抱える頭の痛い問題だ。
しかし三河国は違い、一向宗を稲荷神が塗り潰しつつあった。
彼女は念仏や説法で、民衆に語りかけるわけではない。
これまでの常識とはかけ離れた教えと道具を民衆に与え、日々の生活を豊かにしているのだ。
仏の教えとして心のあり方を説くのは立派だが、それで戦国時代の戦や飢えや寒さなどの、人を死に至らしめる原因が消えるわけではない。
彼らが唱えているのは苦痛から解放されるまで、痩せ我慢と泣き寝入りをすることだ。
生き地獄の中で心安らかに過ごすなど常人には不可能であり、必ずいつか爆発する。
それに人は、楽な方に流れていくものだ。
もし日々の暮らしが明らかに良くなり、明日への不安がなくなるならば、たとえ敵でも喜んで従うだろう。
さらに相手は見返りを求めず、民衆に救いをもたらす稲荷神だと名乗っているのだ。
その教えが瞬く間に国中に広がり、誰もが教えを信じるのも無理はなかった。
なお密偵の報告には、偽装情報が多数入り混じっていた。
しかしその中のほんの一部だけでも事実だと仮定すれば、本物の五穀豊穣の神なのは疑いようがない。
それに松平殿は、表では本願寺や三河国内の一向宗に媚びを売ってなだめすかしながら、裏では稲荷神の布教を熱心に行っている。
だからこそ数年で、ここまで爆発的に信者が増えたのだ。
さらには一向宗の力を大きく削ぎ落とすことに成功する。
そこまで考えた私は、難しい顔に変わっていく。
(稲荷神が一向宗に成り代わっただけとも言える。下手をすれば三河国を乗っ取られかねんぞ)
稲荷神の教えは三河全土に広まり、殆どの民衆は本物の神様だと信じきっている。
ならば三河国の統治権を、松平殿から神を自称する子供に乗っ取っても不思議ではない。
「危ういのう」
「何か言いましたか?」
儂の微かな呟きは、松平殿には聞こえなかったようだ。
何にせよ今話すことでもないし、下手をすれば同盟関係に亀裂が入る。
慌てて話題をそらして、青空を見上げて大きく声を出す。
「いや、何でもない! 早く稲荷神に会いたいものよのう!」
儂が思うに、三河だけではなく日の本の国の行末の鍵を握るのは、間違いなく稲荷神だ。
もし彼女が邪な思惑で知識と力を振るっているのならば、戦国の世はさらに激化する。
尾張の立ち位置を慎重に見極めなければ、あっさり滅ぼされるだろう。
それ程までに、稲荷神を名乗る者は恐ろしくて得体が知れない。
かつて隣の大国を傾かせた妖狐九尾が、正体を偽っている可能性もある。
とにかく、直接会って話をしなければ何もわからないのは確かだ。
(さて、鬼が出るか蛇が出るか。何にせよ楽しみじゃのう)
しかし、ここまで心が沸き立つのは久しぶりだ。
儂は稲荷神の思惑を見極め、今後の尾張の対応を決めなければいけない。
そのために松平勢と共に、長山村へと向かうのだった。




