神頼み
<松平元信>
東条吉良氏の居城は、何度攻めても落とせない。
小城をいくつも占領して、吉良氏の包囲網を完成させたまでは良かった。
しかし、結局は奪還されてしまう。
戦で毎回敗北をするという、散々な有様であった。
春から始めたこの戦いも、秋になっても決着がつかない。
兵の士気は下がる一方で、恐らく次に敗北すれば、もはや軍を維持することはままならなくなる。
部隊は瓦解し、多くの兵が我先にと逃げ出してしまう。
そうなれば、もはや本城に撤退するだけの余力もなくし、吉良氏の追撃を受ければ自分の命すら危うい。
だかと言って今から逃げ帰ったところで、消耗した軍を立て直すのは容易ではない。
たとえ辛勝だろうと領地と民衆を取り戻さなければ、失われた多くの人命や資源が全て無駄になってしまう。
つまり、一度始めたら負けは許されない。今回の戦はそういうものだ。
「ここが正念場ですね」
私たちは、これから向かう平地に陣を構える。
遥か遠くの東条城には、吉良氏の旗がたなびいていた。
それを真っ直ぐ見据えるが、正直なことを言えば何とも気が重い。
勝てば官軍負ければ賊軍とは、よく言ったものだ。
最悪、自分の命は今ここで終わりかねない。それ程までに旗色が悪い戦であった。
そしてこのままでは、今川氏への反抗を証明する大前提である、三河統一さえ成せないまま朽ちていくのは、無念としか言いようがなかった。
ただし、晴天吉日に馬にまたがり、立派な鎧を着ている。
身なりだけは何処に出しても恥ずかしくない武将姿ではあるが、心の内は本当に勝てるのかと不安ばかりが大きくなっていく。
だが兵を率いる将というのは、いついかなる時でも堂々としているものだ。
私は己の迷いを振り払うように、大きな声をあげる。
「稲荷神様! どうか我ら三河武士に勝利のご加護を!」
「殿! 稲荷神は戦の神ではありませぬぞ!」
砦から出て東条城を攻めるための陣を、少し先の平野に敷かせている。
そちらに向かう道中に、武将の一人である本多広孝が私を叱責した。
「ええ、わかっています。
しかし戦勝の御利益のある神や仏にどれだけ祈ろうと、これまで負け続きでした」
戦の前の願掛けに、御加護があると伝わる神社や寺に出向き、供え物や寄付金を出して信心深く祈りを捧げた。
しかし、結果は連戦連敗。
とうとう次に負けたら終わりという、崖っぷちまで追い詰められてしまうのだった。
やがて本陣の予定地に到着して、兵たちを休ませつつ敵を迎え撃つことにする。
私は気心の知れた武将のみを陣幕の内に呼び、馬を降りて大将の椅子に座った。
今後の作戦などを伝達するので、人払いをして会議を開く。
(稲荷神様、どうか我々をお守りください)
もし今ここで松平の未来は潰えると言うなら、最後ぐらいは自分の心の底から信じる稲荷神に祈ったところで、バチはあたらないだろう。
これまでの勝利祈願に何の意味もなかったので、なおさらである。
不安にさせるので表情には出さないように気をつけていたが、部下たちは気づいているようだ。
「殿! そう悲観なされるな! 今度こそ勝てますぞ!」
「私もそう信じてはいますが、その言葉、何度目ですか?」
部下を従える上司としては、弱気な発言をするのは如何なものかと思う。
だが春から秋にかけて殆どの戦で負け続きでは、気が滅入ってくるのも仕方ない。
そしてこのような状況だからこそ、本多広孝や周りの武将は何も言わない。
自分と同じく重い雰囲気で、敗北濃厚な戦場に出陣しなければならないのだ。
だがそこで、本多が堂々とした態度で私に告げる。
「とっておきの策がありまする!」
「策ですか?」
生真面目な彼が嘘を言うとは思えないので、きっと本当に策を練ってきたのだろう。
ならば物は試しに聞いてみるのも、やぶさかではないのだった。
聞いてみると、起死回生の策だった。
それをすれば、どん底まで落ちた兵の士気は上がるのは間違いない。
だがしかし万が一にでも失敗したら、彼はもう生きてはいられないだろう。
たとえ戦で命を落とさなかったとしても、切腹という最後を迎えた悲劇の武将として歴史に残ることになる。
まさに背水の陣である。
「本当に良いのですか?」
「この老兵の命で戦に勝てるのなら、遠慮なく使ってくだされ! 」
「貴方の忠義、決して無駄にはしません!」
そして私は決意を固めて、藤波畷の戦いでの勝利を願った。
本多広孝は必ず勝利して帰るという決意の印として、多くの将兵の前で、自分の鎧の上帯の結んだ端を二度と解けないように、平岩元重に刀で切らせた。
これによって三河の軍勢の士気は、一時的だが大きく上がった。
同時に勝利以外は許されない雰囲気になり、撤退は即ち全軍の崩壊を意味することとなったのだった。
決死の覚悟で挑んだものの、やはり吉良氏の軍勢は強かった。
松平勢は最初こそ善戦したものの、やがてジリジリと後退させられてしまう。
これではどちらが攻めているかわからない程の、一進一退の乱戦となった。
富永忠元が単騎で突撃してきたのは好都合だが、三河の武将が二人がかりでも彼を仕留めるには足りない。
それどころか、逆に押されて討ち取られてかねない危機的状況にもなっている。
このままでは味方が総崩れとなり、大久保大八郎と鳥居半六郎の両名が命を落としてしまう。
しかし全軍に指示を出し終えた自分は、見守ることしかできない。
助けようにも手の空いている将兵はおらず、皆が目の前の敵への対処で精一杯だ。
指示を出し終えた大将はその場から動けず、皆を信じて吉報を待つことしかできない。
そんな私でも出来ることは、神に祈ることだけだった。
心の底から、稲荷神様が皆を守ってくれることを願う。
だがこれは、きっと自分だけではないはずだ。
彼女を見知った人々が困った時に神頼みをするならば、誰もが稲荷神を連想する。
しかし、ここで奇跡が起きた。
祈りが天に届き、救いの女神が戦場に舞い降りたのだ。
彼女は将兵で埋め尽くされた戦場を、まるで無人の野のように狼を引き連れて疾走する。
そんな稲荷様の美しさに、敵も味方も戦いを忘れて見惚れてしまう。
そこからはもう、怒涛の展開だった。
稲荷様は二人がかりでも倒せなかった富永忠元を、武器も使わずたったの一撃で地面に沈める。
その後は、これで用が済んだとばかりに、颯爽と戦場を去っていく。
あまりの急展開に、両軍はしばらく唖然としていた。
だが稲荷神様の突飛には比較的慣れていた松平軍は、敵よりも早く正気に戻る。
私は今こそ好機を判断して、大声で叫んだ。
「稲荷神様が富永忠元を討ち取った! もはや我らの敵ではない! 押し返して城へと攻め上るのだ!」
「「「おおー!!!」」」
稲荷神様がお救いくださったのだ。朝敵を定める錦の御旗よりも、余程効果があった。
先程までとは打って変わり、松平軍の士気は急激に上がって天元突破する。
逆に吉良氏の軍は、富永忠元を失ったことで大幅に低下する。さらに各部隊が大混乱に陥って、敗走が始まった。
このような経緯もあり、藤波畷の戦いは、劣勢だった松平軍に奇跡が起きる。
結果的に稲荷神様のおかげで、危ういところで逆転勝利したのであった。




