認識のズレ
<幣原外務大臣>
稲荷神様が去られて、個室に自分一人だけになった。
しばらく呆然としたまま座布団に座っていたが、やがて私は頭を抱えて低く唸る。
「とっ、とんでもないことを聞かされてしまった!」
何とか冷静になろうと、すっかりぬるくなったほうじ茶を一口すする。
段々と気持ちが落ち着いてきたところで、あらためて大きな溜息を吐いた。
「戦勝国は敗戦国から賠償金や資源、さらには領土という大きな利益を得る。
それは当然の権利のはずだ」
しかし稲荷神様は、そんなものは犬にでも食わせてしまえとばかりに、あっさりと捨ててしまった。
これでは日本は、膨大な軍事費と人的資源を投資したが、何の成果も得られないことになる。
しかし、自国の防衛という大義は果たせた。
精神論だけを見れば悪くはないが、経済的には大損にも程がある。
「好きにしろと、言われてもなぁ」
稲荷神様は大陸には手を出すなと言われたが、最終判断は我々に任せるようだ。
正直、とても気が重い。
私は再び溜息を吐いて、正座ではなく足を伸ばした。
そして綺麗に掃除された個室の畳の上に、大の字に寝っ転がる。
あまりにも危険な爆弾を渡されてしまい、外務大臣としての体裁を取り繕う余裕すらなくなってしまう。
なので、普段は言わないような愚痴をポロリとこぼす。
「私は絶対に内閣総理大臣にはならんぞ。
もし指名されたら、遠くに引っ越してやる」
今の役職でも、稲荷神様に事の真相を告げられて気が重いのだ。
もし内閣総理大臣になったら、一体どれ程の気苦労を背負い込むことになるやらである。
自分がそうなる姿は想像できないが、万が一にもなったら即刻辞退するつもりだ。
「今は何にせよ、稲荷神様のお言葉を他の者たちにも伝えねばなるまい」
正直、自分一人だけでは手に余る案件だ。
こういう時は会議を開き、各々から意見を求めるに限る。
船頭多くして船山に登る、または会議は踊るになるかも知れない。
だが危険な爆弾を、一人でいつまでも抱えていたくない。
取りあえず自分の負担を軽くしようと、私は寝転がっていた体を、よっこらしょと起こす。
続いて日本政府の重役たちと急ぎ連絡を取るために、慌てて個室を出るのだった。
防音や防諜に万全を期している稲荷大社で謁見の間に、日本政府の関係者を急ぎ呼び集めた。
当然ながら稲荷神様は不在で、近衛や側仕えも稲荷大社で別の仕事をしている。
あとは言わずもがなだが、外国の役人たちは一人残らずお帰りいただいた。
事前に厳重機密情報として、稲荷神様のお言葉を一語一句誤りなく伝えてはある。
そして各々の席に座っている大臣たちの表情だが、自分と同じように穏やかではなかった。
だがとにかく、会議を進めないと対策も打てない。
ここは言い出しっぺの法則で、外務大臣の私が仕方なく音頭を取ることになった。
「では、今後の日本がどう動くかですが──」
今は取材陣もおらず、格式高い内閣府の会議ではない。
なので、各々に忌憚のない意見を出してもらうことになる。
大社の巫女たちに手が届く範囲にお茶と菓子を順番に並べてもらい、挨拶もそこそこに本題に入った。
「東京に靖国神社を建てるのは問題ありません。
戦没者を追悼して平和を祈念する象徴は、これからの日本には必要でしょう」
靖国神社に関しては、反対意見は出ない。
各部署の大臣たちも、首を縦に振って肯定を示している。
第二次世界大戦は終わったのだ。
これからは戦後日本であると国民に広く知らしめて、暗いイメージを払拭するのは重要なことだった。
さらに稲荷神様が建築を命じられた神社だと公表すれば、戦没者も死後安らかに眠れる。
悲しみに暮れていた遺族もとても喜んで、前向きな気持ちになれるだろう。
「こちらに関しては、稲荷大社が建築費を出すとのことです。
しかし日本政府も、資金援助を行ったほうが良いでしょう」
これに関しては思う所があるのか、大臣のうち数名が発言する。
「稲荷神様を支持する姿勢を見せるのだな」
「国家予算の一部を使うにしても、そこまで大した額ではないだろう」
「何にせよ、亡くなった遺族の心の拠り所は必要だ。渡りに船と言える」
各関係者に事前に根回しする時間がなかったので、少し不安ではあった。
そんな思いとは裏腹に、概ね肯定的な意見だ。
なので私は呼吸を整えて、もう一つの議題を口にした。
「では次に、日本の大陸での利権についてですが──」
その言葉を発した瞬間、会議の場が凍りついた。
集まった政府関係者たちが、揃って顔を引きつらせたのがわかる。
「どなたか意見がある方。発言をお願いします」
これを口にしないと話が進まないため、私は構わず続けた。
だが予想通り、あまり良い反応は返ってこない。
「意見って言われてもなあ」
「前門の虎、後門の狼と言えるな」
「稲荷神様の仰る通り、火中の栗を拾うこともあるまい。
しかし、逃した魚は大きいとも聞く」
今までは、外で戦争が起きても傍観者に徹してきた。
だが、第二次世界大戦では祖国の危機だと立ち上がり戦ったのだ。
損害や犠牲が出たが、何とか勝ちを掴んだが、損失の補填、もしくはそれを上回るほどの利益が欲しいと思うのは、至極当然である。
それに敗戦国とは、沙汰を待つ囚人のようなものだ。
戦勝国が一方的に無理難題の要求を突きつけられるため、これを逃すにはあまりにも惜しかった。
「日本は連合の盟主だ。
敗戦国に対しても、意見が通りやすい立場だろう」
役人の一人が腕を組みながら、そうはっきりと発言した。
別に実際に無理難題を通そうと言うわけではなく、何となく口にしただけのようだ。
しかし、たったそれだけのことで、蜂の巣をつついたように大騒ぎになってしまう。
「稲荷神様の意に背くのか!? わっ、私は嫌だからな!」
「おい! 足抜けはずるいぞ!」
「うるさい! 私だって、政府で仕事してなきゃなあ!」
予想はしていたが、随分と混沌としてきた。
最高統治者の稲荷神様は、大陸には関わらないことを望んでおられたのだ。
しかし政府がどのような舵取りをしようと、勝利の美酒に酔った国民感情としては、目先の利益に食いつきたくて仕方ない。
まさか上の稲荷神様と下の民衆の認識に、ここまで大きなズレが生まれることになるとは思わなかった。
国民の代表である政府が上手く調整しないと、下手をすれば日本全国に波紋が広がってしまう。
責任重大な立場な私は、この先を考えて気が重くなり、大きな溜息を吐くのだった。




