ドイツ
<ドイツのちょび髭>
西暦千九百三十六年、日本の年号で例えると昭和十一年のことである。
私はドイツの首都ベルリンの政庁執務室で、仕事をしていた。
事務机の上に置かれた書類に目を通して、大きく息を吐いて安堵する。
「そうか。リトルプリンセスは、コミンテルンの共同防衛を承諾してくれたか」
少し前にイギリスが、共産主義の拡大を防ごうと日本に提案を行った。
しかしリトルプリンセスはきっぱりと断ったため、ドイツが頼んでも同じ返事になるかもと半ば諦めていた。
なので、彼女が受けたことは少々意外だ。
「日本と関係を深めるための一助になればとは思っていたが、嬉しい誤算だな」
なおドイツが日本に持ちかける前に、ソビエト連邦から共産主義同盟を結ばないかと秘密裏に接触があった。
もちろん断ったが、ここ最近の世界情勢に不安を覚える。
なので、もはや猶予はないと判断した私は、急いで日本政府と連絡を取って協力を願い出たのだ。
妥協案もいくつか用意したが、予想外に色好い返事をもらったので、もうその心配はなかった。
今日は、久しぶりに旨い酒が飲めそうだ。
「国家稲荷主義ドイツ労働者党は、ますます勢いを増すだろう」
私は政庁の執務室でほくそ笑む。
今回リトルプリンセスが後ろ盾になってくれたので、もはや向かうところ敵なしだ。
ちなみに日本の国際的な立場は上位の下といったところで、今ひとつパッとしない。
理由は軍事や技術的な機密が多すぎるからであり、各国が警戒して発言力を下げざるを得なくなっている。
だからと言って、アメリカのように世界の警察官を主張して、国際社会でリーダーシップを取ろうとするわけではない。
日本は二番や三番手に甘んじることで嵐を避けて、無難にやり過ごしているのだ。
自らの手を汚さずに利益を手に入れ、ひたすら自国の安定に尽力している。
「事なかれ主義とでも言うのか。しかしその全貌は、未だに見えてこない」
他国にとって、日本は何を考えているかわからず、決して油断できない国だ。
しかし、ドイツは違った。
「他国の思惑はどうあれ、ドイツにとっての日本は、絶体絶命の窮地を救ってくれた唯一無二の友である」
パリ講和会議では孤立無援だったにも関わらず、リトルプリンセスはドイツの味方として名乗りを上げた。
そして諸外国を相手に、一歩も退かなかった。
おかげで戦後の賠償も軽くなり、日本からの援助物資や技術協力を受けられた。
結果、ドイツは敗戦国にも関わらず、かつてないほどの勢いで発展を遂げることになったのだ。
「救国の女神、リトルプリンセスの肖像画をいつか描かせてもらいたいものだ。
だが今は、あまりにも多忙だ。趣味の時間が取れんのが残念でならんな」
誰に聞かせるわけでもないが、現状の嘆きを口に出して大きな溜息を吐いた。
ドイツはまだ復興途中で、賠償の支払いも終わっていない。
治安や経済の安定には、まだまだ時間がかかる。
さらにソビエト連邦もここ最近は不穏な動きをしているため、決して油断はできない状況であった。
「共同防衛は承諾してくれたが、流石に軍隊の派遣はないだろうな」
ドイツとの距離が離れているのはもちろんだが、日本はソビエト連邦と隣接している。
間に海があるが、北方領土を見ればほぼ陸続きで繋がっていた。
ゆえに自国を守ることを優先し、他国への支援は二の次。
そして自衛隊は、専守防衛が基本であった。
ついでに言えばリトルプリンセスが統治してから、日本が海外に派兵したことは一度もない。
「つまりは、日本としての意見表明か? それとも、ドイツに気を使った?
いや、他にも隠された意図が──」
リトルプリンセスが突然の方針変更や、突拍子もない行動を取るのは今に始まったことではない。
「何にせよ、常人の私には予想は困難か」
一般人には理解できないような革新的、または二手、三手先を読みきって動くのは良くあることだ。
考えるのではない。感じるのだを地で行くのがリトルプリンセスである。
なので取りあえず、日本は共産主義がこれ以上拡大するのを良くは思っていない。
そう捉えておけばよいだろう。
「コミンテルンの反攻作戦には、リトルプリンセスに直接指揮をとってもらいたいものだ。
しかしそれは、高望みし過ぎか」
万が一にもソビエト連邦との間に戦端が開かれた場合、日本は領海を警戒しなければいけない。
なので、欧州への派兵はほぼないと言っていい。
しかし、たとえ兵力を送り込めなくても、リトルプリンセスが連合の盟主となってくれれば、ドイツとしては喜んで背中を預けることができる。
それに諸外国の兵士たちも、安心して戦えるだろう。
「欧州連合を組んで防衛戦を築いたとしても、何処も自国の利益を第一に考える。
最悪、他国に損害をなすりつけていては勝機を逃し、前線の維持さえ困難になるだろう」
さらに言えば、連合軍の火事場泥棒も起こりうる。
多国籍軍は言語や文化の違い、他にも髪や肌の色など様々な柵があった。
連携が取りにくいので、大まかな指示には従うが各国が独自に動くのが普通だ。
「だが、リトルプリンセスは狐の耳と尻尾を生やし、不思議な力や知識を持っている」
私は自虐気味に小さく笑い、執務室の天井を見上げる。
人種や言語、肌や髪色の違いなど大したことではない。
リトルプリンセスという普通とはかけ離れた人物が連合の盟主となれば、そんなちっぽけな違いで争うことが馬鹿らしくなるのは間違いなかった。
「だが欧州各国が、彼女を受け入れるには時間がかかるだろう」
神秘が廃れて科学が発達した現代に置いて、そのような特異な存在を受け入れるのは、とても時間がかかる。
現時点では、拒絶されないだけでも奇跡と言えた。
ましてやリトルプリンセスは、日本から出たことが殆どない。
名前や姿は稲荷グッズで知ってはいても、実在する人物だと思わなかった者も大勢いるのだ。
「人は信じたいモノだけを信じる。現状では連合軍の意識改革が精一杯か」
ソビエト連邦が戦争を仕掛けるのならば、彼女を欧州に招待して、ぜひとも連合軍の盟主になってもらいたい。
そうすれば差別や諍いが防げるだけでなく、前線の士気も高まる。
さらには、利益度外視で人命第一の慈愛溢れる彼女だ。
戦いに赴く兵士たちも、安心して背中を任せられる。
「何より、見目麗しい狐っ娘なのが良い」
どうせ命がけで戦うのならば、厳格でむさ苦しい指揮官よりも、見た目が可愛らしい幼子のためと考えたほうが、軍人としての士気も上がるというものだ。
ただまあ、大抵の場合は天は二物を与えない。
見た目に良ければ頭が悪くなり、指揮や状況判断力が高ければ、容姿が残念になったりと色々だ。
その点、リトルプリンセスは文句なしの満点合格であった。
「戦場で指揮を執った経験はなくても、状況判断能力はずば抜けている」
容姿に関しても文句なしだ。
狐耳と尻尾は最初は驚く兵士も居るが、あの可愛らしさにやられて、すぐに慣れるだろう。
それどころか最高統治者らしからぬ献身的な態度や仕草、幼子特有の声色に陥落する者が続出する。
「だがこれも全て、彼女が連合軍の盟主として立ってくれること前提だ」
それに欧州とソビエト連邦で、戦争が起きない場合もある。
全ては仮定の話だ。
しかし最近の情勢から、再び世界を巻き込む大戦が起きる可能性は高いと、そう感じたのだった。
私は執務室の椅子背中を預けて、大きく息を吐いて考えを整理していく。
パリ講和会議以降、ドイツ国民のリトルプリンセスへの好感度は高まり続けている。
今では自分も含めて、国内全てが狐色に染まったかのようだ。
「彼女のおかげで、ソビエト連邦の工作員の検挙率まで上がっていますからな」
いつの間にか入室したのか、私の友人で軍人をしているエルンスト・レームに声をかけられる。
私は彼が執務室の扉を開け、身なり正しく直立していたことに気づく。
「失礼。警備員の許可を取ってから、ノックはしたのですが──」
彼が若干苦笑気味に声をかけてきたと言うことは、独り言を聞かれていたのだろう。
幸いなのは、呟いていた内容は誰が知って問題ないことだ。
今のドイツ国民はリトルプリンセスについて、夜通し語り続けられる。
機密も何もあったものではなく、定番の話題であった。
「総統閣下。自分も語りたいのですが、よろしいでしょうか?」
「良いとも、共に語り明かそうではないか」
ちなみに、レームも同志だ。
彼は念の為に執務室の扉に鍵をかけてから、机を目指して堂々と歩いてくる。
「日本の助力がなければ、最悪ドイツの半分は共産主義に転向したでしょうが──」
室内にある椅子を近くに運んで、私の目の前に置いて腰を下ろす。
そういう所も、気安い友人関係と言える。
「軍の出番がなくて退屈か?」
「いいえ、軍人は暇な方がいいのですよ。総統閣下」
いつもは気さくに呼び合う仲だが、まだ勤務時間中だ。だからこその総統閣下なのだろう。
そこで私は、彼が不敵な表情を浮かべていることに気づき、何か良いことでもあったのかと尋ねた。
「本日捕らえたソビエト連邦の工作員から、情報を得られました」
「ふむ、何が出てきた?」
「数年以内に、ソビエト連邦が欧州各国に向けて大規模な侵攻作戦を行う可能性が高い。……と」
ソビエト連邦と戦争になるのは、現段階でもほぼ確定している。
だが、それがいつになるかは不明だ。
しかし今回得た新たな情報で、数年以内と判明したので、あまり猶予はなさそうだ。
「情報の信憑性は?」
「ソビエト連邦に潜んでいる稲荷主義者からも、同様の情報が送られてきています」
「なるほど、ほぼ確定か」
戦争に備えておいたほうが良さそうだ。だが、あまり時間は残されていない。
レームは軍人としての手腕が振るえることが、嬉しいのだろう。
けれど、それをわざわざ報告するために、執務室を訪れたとは考えにくい。
「総統閣下に、意見具申致します」
私は彼に尋ねようと口を開く前に、先にある要求を出してきた。
「リトルプリンセスを連合軍の盟主となってもらい、彼女の下で戦わせていただきたい」
やはりドイツ国民は、すっかり狐色に染まっていたようだ。
欧州各国にも、まだら模様のようにポツポツと広がり続けている。
ソビエト連邦にも数は少ないが、稲荷主義者の同志の存在があった。
彼らは私たちの良き仲間であり、秘密裏に連絡を取り合ったり工作を行うなど、交流を行っている。
色々な情報を整理していくと、再び世界大戦が起こる可能性がますます高まっているようだ。
リトルプリンセスは、今度はどう動くのかが非常に気になる。
「ドイツの一存だけでは難しいな」
できればレームが言ったように、連合軍の盟主として立って欲しい。
「では、連合国も加えてみてはいかがでしょうか?」
「そうだな。少なくともイギリスは賛成してくれるだろう。まずは、そこから切り崩していこうか」
何にせよ、開戦まで時間はもうあまり猶予はない。
私は目の前のレームと相談して、急いで彼女を表舞台に引っ張り上げる作戦を練るのだった。




