ソビエト連邦
<ラヴレンチー・ベリヤ>
秘密警察を組織したり、同志スターリンの信頼を勝ち取ったりと色々なことがあった。
だが私は未だに、ソビエト連邦を掌握するには至っていない。
それでも、執務室の高級な椅子の座り心地に満足できる立場にはなれた。
そんなある日のことだ。
諜報員が送ってきた書類に目を通して、日本が何故共産主義が広まらないのかを分析していた。
「稲荷主義が、これ程までに脅威となるとは──」
例えるなら資本主義と共産主義者の発展型、または上位互換といったところだろう。
「共産主義では、稲荷主義には勝てないな」
天井を見上げながら溜息を吐くが、私の頬は紅潮していた。
何度工作員を送ろうとも、日本は一向に赤く染まらなかった。その相性の悪さが容易に窺える。
さらに細かく分析すると、資本主義でありながら、共産主義の富の分配も取り込んでいた。
権力者や資産家の利益の一部をリトルプリンセスに捧げ、彼女はそれを社会に還元して経済を回す。
傘下である稲荷大社は清廉潔白を貫き、中抜きや汚職は許さなさい。
一見すると締めつけているように見えて、社会や経済の潤滑油を果たしている。
さらに弱者を救済し、日本がより多くの利益や幸福を得られるようにと、活発に動いていた。
「まさに豊穣の女神ですね。だがしかし、流石にこれは予想外ですよ」
ある意味では、国家や社会の理想郷と言える。
だがそれは最上位に居て、富を分配する者が優秀な場合だ。
初代はまだしも、二代目や三代目で失速していくのは、各国の歴史が物語っている。
ソビエト連邦の共産主義も言えることだが、それはそれ、これはこれである。
「やはり、リトルプリンセスは素晴らしい!」
盗聴や防音対策を念入りに行っている執務室で、私は大声で叫んだ。
あまりに興奮しているため、今は彼女のことしか考えられない。
しばらく鼻息を荒くしていたが、やがて少しずつ冷静になってきた。
一旦落ち着くために、コーヒーを入れようと席を立つ。
そして温かいコーヒーを持って執務机に戻り、息を吐きながら椅子の背もたれに再び体を預ける。
「赤く染まらない稲荷主義は、我が国にとって脅威ですね」
リトルプリンセスも日本も、難攻不落の要塞に思える。
しかし多くの諜報員が長年情報収集を行った結果、ある弱点が見えてきた。
「稲荷主義の最大の弱点。それは保守的過ぎることだ」
人は誰しもが、自身の幸福や安全、安定を最優先に考える。
悪いことではないが、外に目を向けて変化を受け入れなければ、大局を見誤ってしまう。
日本は特にそれが顕著なのに、国際的に優位を保てているのは、リトルプリンセスの威光と状況判断が的確なおかげだろう。
さらに彼の国の軍事技術は未だに不鮮明ながらも、世界上位だからだ。
ゆえに眠れる獅子を起こしたくないので、どの国も過度な干渉は極力控えている。
「しかし、いくら圧倒的な軍事力を所持していようと、守ってばかりでは勝てません」
かつてリトルプリンセスは、自衛隊は専守防衛が基本であると公言した。
つまりこちらが攻め込まない限りは、侵略することなく守りに徹するのだ
「リトルプリンセスが降臨してから、三百年以上が経ちました。
しかしその間に海外への派兵、戦争への介入、外国の植民地化は一度も行っていません」
せいぜい懐柔策で、友好的な国を増やす程度だ。
リトルプリンセスが主導になって、国外に軍事力を行使したことは、一度もなかった。
また、台湾に攻め込む機会があったにも関わらず、外交的な威圧のみに留めている。
圧倒的な戦力でロシア帝国から対馬を取り戻した時も、戦争に舵を取ることはなかった。
それどころか敵兵の命を助けて、丁寧に送り返しているのだ。
その後は多額の賠償金をふんだくったが、そこはまあ良いだろう。
とにかく、たとえ共産主義に染められない強国だろうと、保守的過ぎる思想は弱点なのだ。
「容易に攻められない守りの固い城でも、攻略は可能です」
少し前に共産主義を封じるために軍事的に手を組もうと、イギリスから打診があったようだ。
しかし彼女はそれを、きっぱりと断った。
ようはリトルプリンセスが、重い腰をあげなければ良いのだ。
彼女が首を縦に振らなければ、日本も決して動くことはない。
いくら百獣の王と言えども、眠ったままではソビエト連邦にとっての脅威には成りえないのだ。
「最終目標は日本ですが、一筋縄ではいきません。
先に欧州とアジアに進出するにしても、アメリカが介入してきたら面倒ですね」
同志スターリンも、稲荷主義には危機感を持っていた。
そのことからも、きっと開戦に踏み切る。
何しろ共産主義と稲荷主義の相性は最悪で、互いの思想がぶつかれば十中八九で押し負けてしまう。
「まずは、内部工作で戦力を削ぐに限りますね。幸い、向こうにも同志が居ます」
たとえ戦力的に不利であろうと、リトルプリンセスの力が及ばない欧州やアメリカ、アジア大陸は違う。
既に種は蒔いておいた。
共産主義は問題なく受け入れられているので、運動を活性化させて、軍事や経済を混乱させるのは容易であった。
しかし日本や親日国は、既に稲荷主義に染まっている。
こちらの送り込んだ工作員は、見つけ次第、問答無用で刈り取られていた。
もしくは逆に狐色に染められてしまうため、我々にとってやはり脅威だ。
だが私にとっては大変好ましいので、興奮気味に声をあげる。
「リトルプリンセス! 貴女は本当に素晴らしい!
だからこそ! ぜひとも私の手で愛したい!」
共産主義に敗北し、日本を追放されて心身共に弱りきったリトルプリンセスを、眼前に引きずり出して見下したい。
そして私にひれ伏して許しを請い、縋りつくように自ら体を差し出す瞬間を想像すると、興奮して堪らなくなるのであった。
新たな計画を練ってからしばらく時が流れた。
私は軍部と協議を重ねて、綿密な侵略計画を作り上げる。
その後、同志スターリンの執務室を訪れた。
椅子に座り、真面目な表情でこちらをじっと見つめる友人に、堂々と告げさせてもらう。
「同志スターリン、計画書は読まれましたか?」
「もちろんだ。同志ベリヤ。そのうえで、いくつか尋ねたいことがある」
ソビエト連邦の最高統治者とは、互いに信頼し合える関係である。
それはとても光栄なことだし、砕けた喋り方や一見無謀に見える提案も大目に見てくれるのは、とても助かる。
何しろ現在、我が国では大粛清の嵐が吹き荒れているのだ。
彼の機嫌を損ねた者の殆どが、翌日には不幸な事故に遭っている。
その点で言えば、私は彼が信頼を寄せて側近にまで取り立てられた。
事故に巻き込まれる可能性は低いと言える。
それでも無きにしもあらずだが、ある程度の猶予、もしくは前兆がわかるだけでも温情だろう。
そんな考えはともかく、彼は私に質問してきた。
「日本が共産主義に染まる可能性はないか?」
友人の質問に、私は首を振って否定した。
「同志スターリン、日本が共産主義に染まることは、決してありません」
彼は低く唸り、椅子に深く腰掛けて大きく溜息を吐いた。
そして私から視線をそらすことなく、続きを口にする。
「だが稲荷主義は、共産主義を排除はしていないが?」
「それは私が説明せずとも、同志スターリンなら、理由は既にご存知なのでは?」
「むう、……確かにな」
共産主義政党を率いる彼だからこそ、稲荷主義の危険性はよくわかっている。
表向きは敵対してはいないが、水面下では反発しあっている。
しかも思想的には、こちらが押し負けている状況だ。
ソビエト連邦でも何度も議題に上がっているが、対応策が提示できずに保留になっていた。
だが今回私が持ち込んだ書類には、共産主義が稲荷主義を打倒する計画が書かれている。
「開戦に踏み切るしかないか。……他に手は?」
「稲荷主義も共産主義と同じで、着実に世界に広まりつつあります。
時間を与えるのは得策ではありませんし、我々が仕掛けずとも、いつかは互いに潰し合うでしょう」
私は堂々と言い切った。
顎に手を当てて考え込んでいる彼は優れた指導者で、筋金入りの共産主義者だ。
彼女の危険性は良くわかっていた。
ソビエト連邦は多くの工作員を送り込んで共産主義を広めているが、彼女は何もせずとも勝手に主義者が増えている。
しかも、どちらもほぼ同程度の速度でだ。
たちが悪いのは赤まで狐に染められるため、こちらが不利なことだった。
リトルプリンセスは、現実では指一本動かしていない。
そして広めるようにと、指示も出てしなかった。
けれどソビエト連邦は、圧倒的に不利な戦いを挑まざるを得ない状況に陥っているのだ。
そんな規格外の能力を持つ最高統治者だが、もし我が国と手を取り合って共産主義国家の理想郷を築けば、資本主義を駆逐し尽くすことも容易のはずだ。
だがしかし、彼女は天災……ではなく、天才で、偉大な神ではあるが、人類を我が子のように愛していた。
なので重要な仕事の殆どを日本政府に任せて、普段は下っ端が行うような雑用をしている。
はっきり言って、最高統治者のやることではない。
それでも最高統治者として日本の舵を取り、国民と同じ目線で歩み寄る姿勢を示している。
(相変わらず、リトルプリンセスが何を考えているのか。全く理解ができませんね)
しかし、理解できたこともあった。
それは共産主義を全世界に普及するには、リトルプリンセスが最大の障害になる。
さらに時間をかけるほど彼女の味方は増え続け、ソビエト連邦が不利になるのだ。
「早急に共産主義勢力を増やして、稲荷主義を上回るほどの戦力を手に入れるしかありません」
どんな手を使ってでも彼女を倒さなければ、我々共産主義者は遅かれ早かれ敗北する。
同志スターリンも、心の内ではそれがわかっているので、私の意見に反論はしなかった。
「幸い日本は専守防衛に徹しており、リトルプリンセスの統治下では一度も派兵をしていません」
「……そうか。もはや開戦しか、生き残る道はないのだな」
同志スターリンは最後に大きな溜息を吐き、天井を仰いだ。
そして一分ほど目を閉じて思案した後、緊急会議を開くために他の同志を呼び集めて、開戦に備える命令を下したのだった。




