共産主義
<ラヴレンチー・ベリヤ>
西暦千九百二十四年、日本の年号で大正十三年のことだ。
私の命令でグルジアでの民族主義者による暴動を鎮圧して、一万人以上もの人々を処分したことが評価されたのか、二年後に正式にグルジア支部長に昇格した。
そして今は、執務室の豪華な椅子に座りながら、諜報員が持ち帰ってきた資料を食い入るように読み漁っている。
「やはり、リトルプリンセスは素晴らしい!」
頬を朱に染めて天井を仰ぎ、切なそうに声が漏れてしまった。
けれど、盗聴には気をつけている。
さらに防音効果も高いので、私の独り言は誰にも聞こえることはないだろう。
「ぜひともお近づきになりたいものだ! そしてゆくゆくは──」
他の女たちのように、壊れるまで愛したい。
自分がそのような性癖を持っていることは良くわかっているし、恥じることなく受け入れていた。
だがいかんせん世間体が悪すぎるだけでなく、犯罪行為だ。
なので周囲にバレないようにこっそりと楽しんだ後、念入りに隠蔽することに心がけていた。
「しかし、この間の攫った女は、そろそろ限界ですね」
かなり手荒に愛したので、心身共に壊れ始めている。そろそろ交換時期だろう。
また新しく年若い女を確保しなければ、欲求は発散できそうにない。
その際には、ぜひとも彼女をコレクションに加えたいものだ。
それはそれとして先日、国家政治保安部のグルジア支部長に正式に就任した。
これで私はソビエト連邦の権力を、一部とは言え自由に振るえる立場になった。
つまりは、海の向こうの隣国にも、ある程度の干渉が可能ということになる。
その後に少しだけ思案して、事務机の上に広げている書類を読み進める。
情報源はソビエト連邦の諜報員で、彼らが命がけで入手してきたので信憑性は確かだ。
そして顎に手を当てて考え、日本とリトルプリンセスの情報を冷静に分析していく。
「やはり、日本の最高統治者を秘密裏に拉致するのは、現状では不可能と言わざるを得ませんね」
近衛や自衛隊に厳重に守られていて、森の奥深くに隠れ住んでいる。
さらに狼たちが二十四時間見張っているため、誰にも気づかれずに拉致するのは困難だ。
さらに情報を見る限りでは、リトルプリンセスは人間離れした怪力と、遠隔発火能力を持っているらしい。
日本国民に対しては寛大なようだが、他国には情け容赦がなかった。
そして卑怯な手段を使う悪人を目の前にすると、同じ日本人でも態度が急変したという、珍しい事例もある。
「しかし日本国民に寛容ならば、そこから突き崩すとしましょうか」
彼女が国内で最高の権威を持っており、どれだけ戦闘能力が高かろうと所詮は小娘だ。
いくらでもやりようはある。
「日本を共産主義に染めあげる!
それこそが、リトルプリンセスを打ち倒す策となるでしょう!」
国民の大多数を赤く染めあげれば、彼女は間違いなく最高統治者から引きずり降ろされる。
共産主義は階級や搾取のない、万人の平等を意味する。
絶対君主主義との相性は最悪で、リトルプリンセスの牙城を崩せるはずだ。
それに日本国民に寛容な性格から、同胞と戦うのは避けるだろう。
結果的に、リトルプリンセスは手を出すわけにはいかず、自国に居場所がなくなる。
そこでソビエト連邦が、亡命の誘いを持ちかけるという策だ。
だが、いくら共産主義勢力に引きずり降ろされたとはいえ、三百年以上も日本の最高統治者として君臨し続けた女傑である。
リトルプリンセスの誇りと気丈さを突き崩すのは、少々難しいかも知れない。
「しかし日本の神として降臨していたのです。
山のような貢物、立派な屋敷、大勢の側仕えや護衛──」
ありとあらゆる贅の限りを尽くしても、なお許される立場である。
彼女は日本国民にとって、数々の偉業を成し遂げて、多くの信仰を集める特権階級だ。
「遥かな高みで全てを見下し、優越感に浸っていられるのも今だけです」
いくら日本国民が文句を一つも言えない立場で利益を吸いあげ、贅の限りを尽くしているとはいえ、不満に思う者は必ずいる。
例えば、収入が少なく生活が苦しい社会的弱者。法に背いても隠蔽された真実を暴く報道記者、または真の理想を追い求める思想家などだ。
彼らは総じて、本当の理想郷である共産主義に染まる。
きっと日本の最高統治者に不満をぶつけ、彼女の醜い本性を白日の下に晒してくれるだろう。
あとは共産主義に染まった日本から追い出された彼女を、ソビエト連邦に招待するだけだ。
他に行き場のない小公女が、二つ返事で飛びついてくるのは確実であった。
「親日国が厄介ですが、共産主義の工作員が裏で確保すれば、問題はないでしょう」
全ての鍵を握るのは、リトルプリンセスだ。
国際社会では彼女を手に入れた国家が、全世界の覇権を取ると言っても過言ではない。
他国の妨害もあるだろうが、裏から手を回して確保してしまえば、どうにでもなるのだ。
それに、計画は既に進行中だ。
共産主義という小さな蟻が、長年かけて築いた城壁に穴を開て、日本の資本主義が瓦解する瞬間が今から楽しみなのだった。
しばしの時が流れて、資本主義の打倒という名目で、国を追われたリトルプリンセスをソビエト連邦に亡命させる。
その第一歩となる日本にコミンテルン支部を作る計画が、密かに進行していた。
いや、正確には進行しているはずだった。
だが私の表情は、苦虫を噛み潰したようだ。
執務室の椅子に座ったまま、送られてきた書類に目を通して、眉間に思いっきりシワを寄せていた。
「何故だ! 何故日本に共産主義が広まらないのだ!」
東アジアでは、工作員が盛んに共産主義を広めていた。
実際に、資本主義を打倒するための駒が着々と増えている。
しかしもっとも力を入れさせていた日本だけが、どういうわけか全く赤色に染まらないのだ。
「貧困層に真に救いを与えられるのは、共産主義だけだ!
それにリトルプリンセスは、国民の血税で贅沢な生活をしている!
報道記者や思想家は真実を突き止め! 断罪するために手を組む! ……はずなのだ!」
私は渋い顔をしながらも、報告書に書かれていることを、もう一度頭の中で整理する。
日本の貧困層が支持するのは、富を平等に分配する共産主義ではなかった。
あろうことか打倒すべき対象である、リトルプリンセスだったのだ。
彼女は、決して国民を見捨てることはなかった。
時々思い出したかのように政治に口を出しては、富を独占するのではなく貧しい者たちへの救済にあてている。
なので日本や親日国では、今は辛くても頑張っていれば、いつの日か神皇様が救いの手を差し伸べてくれる。
誰もが心の底から希望を信じて、毎日を一生懸命生きていた。
そして努力や誠実さは報われ、リトルプリンセスの名の下に幸福な暮らしを送れるように手配されている。
「これでは社会的弱者を、駒として使えんな。……ならば次は」
別の資料に目を通すと、報道記者と思想家の項目だった。
しかし彼らは、こちらの話を頑として聞かなかった。
つまりは共産主義運動を起こし、資本主義を打倒しようと動かないのだ。
リトルプリンセスが裏では、国民の血税を湯水のように使って贅沢したり、人間を見下して虐げている。
工作員が声高に事実を主張しても、逆にこっちの頭を心配される有様だった。
これは、どうにも納得ができなかった。
何故なら一般的な統治者は、民衆の税金で高額収入を得ているからだ。
そして彼女は神皇に就いていて、数百年も昔から贅沢し放題ができる立場だった。
神とは、元来人間を越えた存在だ。
下々の者がどれだけ苦しもうが、何も思わない。
慈悲深い姿も国民を操るために、計算し尽くされた演技だ。
その本性はとても醜く、傲慢そのものであるはずである。
同胞に甘いのは、飼っている動物に愛着を抱く行為、もしくは騙して利用する演技なので、付け入る隙は十分にあったのだ。
それでも、計画は失敗した。
どうにも納得できなかったので、別の例を思案する。
仮に彼女が最初は、清廉潔白な聖人君子だとしても、あれだけ長く崇め奉れれば、少しずつでも慢心や増長をして歪んでいくのは避けられない。
さらに長い時の流れでは、国家でさえ移ろい腐敗していく。
しかし日本国民の支持率から見ても、現状ではそうはなっていない。
これは明らかにおかしい事態であった。
「わっ、わからない! 彼女のことが、まるでわからない!
ああっ! こんなことは初めてだ!」
並大抵の手段では、自分のモノにできないことを思い知らされた。
それでも私は、混乱しながらも気分はとても高揚している。
どうしても諦める気にはなれなかった。
逆に火がついてしまい、何としてでも彼女を手に入れたくなる。
なので諜報員から送られてきた情報に目を通し、他の東アジアの国々を赤く染めるのと並行して、次なる計画を練るのだった。




