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蝦夷

<江戸幕府の外交官>

 永禄十一年の春、稲荷神様の命によって、船団を率いて蝦夷の交渉に向かった。

 あちらは陸続きではなく、広大な海に隔てられている。だが別に、前人未到の地ではない。


 そもそも征夷大将軍とは、蝦夷征討のために遣わされた軍隊の総大将だ。

 それが今回は友好的に接し、国交を開かせるようにと、直接命令を受けた。

 これまでの常識では考えられない事態だ。


 本当に稲荷神様は、色々と規格外なお方である。


 彼女は過去の慣習を廃して、新しい決まり事を定めていた。

 普通ならば大いに反発するか戸惑うのだが、それは最初だけだ。


 慣れてしまえばどれも理に適っていて、むしろ何故今まで悪習を続けていたのかと、自己嫌悪に陥る事態となった。


 ならば詳細を説明してくれれば民衆が混乱することもなかったが、残念なことに稲荷神様は度々説明を端折る。


 だが、それは短絡的な物の考え方だ。

 彼女は決して、理論を知らないとか面倒だからで説明を端折ったわけではない。


 我々は経験を積んで、個々に答えを導き出さなければならない。

 そうでないと知識や技術の発展は頭打ちになるだけでなく、本当の意味では納得できないからだ。


 一代限りの繁栄ならば、それでも良いだろう。


 だが稲荷神様は、数十年どころか、百年以上先のこの国の未来を見据えている。

 今回の蝦夷との友好関係の構築に関しても、海よりも深いお考えがあるのは、想像に難しくなかった。




 過去を振り返りながら、甲板に立って遠くに見える蝦夷の地を見据える。

 そんな私だが、他に外交船団の代表に選抜されて同じ船に乗った役人が、ある疑問を口に出した。


「勝殿、軍隊を送って蝦夷を支配したほうが楽なのでは?」


 それは予想された質問なので、答えを用意するのは容易い。

 私はすぐに説明を始める。


「稲荷神様は、争いや犠牲を好まぬお方だ」


 彼女は戦だけでなく怪我や病気、飢餓や寒さなどのあらゆる犠牲。

 それらの脅威から、味方だけでなく敵対勢力をも守ろうとうする。


 天下を統一する過程でも、武力によって攻め滅ぼすことはなかった。せいぜい悪人を懲らしめる程度だ。

 比叡山延暦寺や日本中の大名たちを、その御力で平伏させたのは有名な話である。


 それらの功績だけでも、霊験あらたかな日本の最高統治者は伊達ではないとわかる。


 質問してきた役人が、なるほどと納得した。

 ちょうど良い機会なので、今度は私から話を振る。


「最初に言っておくが、蝦夷は試される大地だぞ」


 彼は私の言葉から意味を探ろうとした。

 だがどうにも思い浮かばなかったで、肩を竦めて降参し、率直に尋ねてくる。


「勝殿、それはどのような意味でしょうか?」

「それはな。本州とは比べ物にならぬ寒さで、人が住むには過酷な大地と言う意味だ」


 原住民は寒さに慣れているのか、辛うじて生活できている。


 しかし本州の最北端に住む者たちさえも、一度海を渡った後は皆、過酷な大地であると断言する。


 だからこそ稲荷神様は、武力で攻めて支配しないのだ。

 何故なら敵に殺されなくても、現地住民の協力が得られなければ、自然の脅威で多大な犠牲が出るからである。


 元々争いを好まれない優しい性格なのもあるが、交渉役を派遣し、どれだけ時間がかかろうと、現地住民と友好的な関係を築くようにと命じられた。




 自分の考えを整理しながら話す私と同様に、役人も全く同じ答えに行き着いたようだ。

 これ以降の質問はなかった。

 

「では、我々の責任は重大ですな」

「その通りだ。稲荷神様からは狼たち、松前藩からは通訳を借り受けた。

 だが流石に、一朝一夕にはいかぬであろうな」


 稲荷神様が家族として接している狼たちは、誰もがとても賢くて強い。

 人間の言葉もわかるらしいし、白眉毛のマロ様には期待していた。


 今も私たちと同じ船に乗っているが、邪魔にならないように甲板の隅に寄り集まっている。

 マロ様以外の狼たちも、適当に寝転がって体を休めていた。




 まるで躾の行き届いた忠犬のようだが、実は先祖は狼だったらしい。

 ならば、あながち間違いでもないかも知れない。


「勝殿、そろそろ蝦夷の港に付きますぞ」


 蝦夷の港と距離が近づくにつれて、船の速度が落ちてきた。

 確かに、そろそろ上陸準備をすべきだ。


 私は大声で号令を行う。


「総員! 上陸に備えよ!」


 すると乗組員たちが反応するよりも早く、甲板の隅で体を休めていた狼たちが一斉に起き上がって伸びをする。

 完全に言語を理解していないと出来ない行動に驚く。


 どうやら稲荷神様の御使いは、伊達ではないようだ。

 目撃した者たちは揃って、驚きの表情を浮かべるのだった。




 蝦夷の渡島半島南部にある港に、外交団は上陸した。


 そして現在、この地の支配権を持った大名の、松前慶広まつまえよしひろ殿の歓迎を受ける。


 何はともあれ、現状把握が第一だ。

 まずは彼に先頭に立ってもらい、頻繁に交易を行い親交の厚い原住民の集落から、順番に紹介をしてもらうのだった。




 そもそも言語や文化は、我々とは大きく違う独自なものだ。

 まともに会話を行うのも困難で、松前殿も一応は喋れるようだが、念の為にいつも通訳を連れている。


 今は全員が馬に乗って街道を北上していた。

 果たして友好関係を築けるだろうかと、私は不安に思ってしまう。

 だがとにかく、千里の道も一歩からだ。一度や二度の失敗で挫けるものかと、内心で気合を入れる。




 周囲には本州ではあまり見ない木々や、草花が生い茂っていた。

 外交団と松前藩の者たちが揃って、細く険しい街道を北上していく。


 そのまま一時間ほど、馬を走らせる。

 すると、やがて小さな集落が見えてきた。


 我々と似たような木造の家に住んでいるが、雰囲気や服装は大きく違った。

 やはり蝦夷は、海を隔てた異国だと再認識する。


 だがとにかくまずは、松前殿が先頭に立って和やかに会話を行ってもらう。

 交渉の取っ掛かりを作ることが先決で、私たちはそのままゆっくりと前進し、集落の中へと入る。


 そして注意深く辺りを見回し、たまたまた近くを歩いている住人らしき者に、おもむろに声をかけた。


「忙しいところを失礼する。村長殿はご在宅か?」

「これは松前様。村長なら家に居ますよ。

 ところで、後ろの方々はどなたでしょうか?」


 通訳を挟んで、村の中年男性と松前殿の会話を聞いている。

 だが確かに言語を理解するのは、困難だと感じた。


 そして流れで松前殿が我々を紹介してくれることになり、外交官は揃ってにこやかに応じる。


「後ろの者たちは、新たに任命された征夷大将軍様の、外交使節団である」


 松前殿が続いて、私たちの役割を説明する。

 だが話を聞いている村人は、何処か他人事であった。


「外交使節団とは? ふむふむ、なるほど。

 代替わりを伝えに、わざわざ海を越えられましたか。それはご苦労なことですな」


 どうせ日本とは海を隔ている。

 自分たちには関係ないと考えているのは間違いなかった。


 さらに松前殿から一人ずつ外交官の紹介を受けている村人は、次第に興味をなくしていく。


 征夷大将軍から支配権を与えられているとは言っても、蝦夷が素直に従うわけもない。

 やはり最初はこんなものだ。私は大して落胆することもなく、次はどんな手を打ったものかと頭の中で整理を始める。


 なお話の途中で、彼は完全にどうでも良くなったようだ。

 適当に聞き流しつつ、視線を彷徨わせたところで、あるモノを見つけて物凄く驚いた表情に変わる。


「あのっ! 松前様! そっ、そちらの狼たちは!?」


 すると松前殿は挑発的に笑い、彼に狼のことを説明する。


「あの狼たちは新たな征夷大将軍。つまりは、稲荷神様の御使いであらせられる」

「かっ、神様の御使い様っ!?」


 狼たちの一糸乱れぬ整列と、微動だにせずに着席し続ける姿を見たのだ。驚く気持ちはわかる。

 私たちは慣れているが、初見は衝撃が大きすぎる。


 だがとにかく、今は絶好の機会だと判断した。

 私は親睦の証として用意しておいた、稲荷神様の人形を取り出す。


「友好の印です。よろしければどうぞ」


 それを松前殿に渡して、話を繋げてもらうようにお願いする。


「征夷大将軍の稲荷神様をかたどった、木像でござる」

「狐の耳と尻尾!? まっ、まさか……本当に!?」


 松前殿が通訳しながら、村人に手渡した。 


 本当は等身大の神像を遠路はるばる運んできて、村の者たちの度肝を抜きたかった。

 しかし各集落にばら撒くので、とにかく数を用意する必要があったのだ。


 両手に収まる小さな木像を受け取って、さらに動揺する村人に対して、私はあくまでも和やかに通訳してもらっていく。


「疑うのならば各集落の代表を揃えて、征夷大将軍様に謁見を申し出られてはいかがでしょう?

 船や旅費は、こちらで用意しますよ?」

「いっ、いえ! 疑うなど! 滅相もない!」


 駄目押しとばかりに、狼たちが統率の取れた動きで順番に遠吠えをし始めた。

 もうこれは信じるしかない。何しろ人間の指示がなくても、独自に行動を取れるほど賢いのだ。


 あらかじめ伝えておいた松前殿まで驚愕している。

 騒ぎを聞いて集まってきた村人も、面白いように皆同じ反応をする。


 なお外交使節団は、自分たちが既に通過した道を振り返っている気持ちになり、何ともほっこりするのだった。







 後日談となるが、村長の家には行かなかった。

 表の騒ぎを聞きつけて、本人がやって来たのだ。

 なので彼にも稲荷神様の木像を渡して、新しい征夷大将軍について説明する。


 話が終わったあとは、あっさり日本に帰化することになった。


 彼らアイヌ民族は、神が肉と毛皮を携えて人間界に現れた姿が熊だと信じている。

 さらには集落で大切に飼育したり儀式を行っているのだから、稲荷神様の御使いである狼との相性は抜群だった。


 稲荷神様も狐の耳と尻尾を生やしているので、本物の神の証明になり、もはや疑いようがない。


 蝦夷の原住民にとっては信仰の対象が、熊ではなく自分たちと同じ人間の姿に変化して、現実世界に現れたようなものだ。


 彼女が仲良くしましょうと手を差し伸べれば、一も二もなく喜んで飛びつくのも無理もない話である。




 今回は蝦夷の集落が一つが帰化を宣言しただけだが、これから急速に広まっていきそうだ。


 たとえ別の宗教や文化、価値観を持っていたとしても、障害にはなり得ない。

 何故なら、朱に交われば赤くなるからだ。


 周りの集落が日本の一部になって繁栄を謳歌しているのに、帰化していない部族だけは、辛く厳しい境遇に身を置くことになる。


 そんな極限状態に、心身がいつまでも耐えられるわけもない。

 遠くないうちに、蝦夷のあちこちで狐色の旗が勝手にあがることになるだろう。




 さらに後日となるが、同じく精霊信仰が盛んな南の濠太剌利亜オーストラリアも、蝦夷と同様の事態となり、日本への帰化を宣言する。


 だが稲荷神様は、距離が遠く国土が広すぎるので自分の手に余ると拒否してしまう。

 これを聞いたオーストラリアの民衆は心底ガッカリするのだが、それはまた別の話であった。

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ついに南のペロリストが…
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