晴れ空みたいな恋でした
「ハンカチを落とされましたよ」
そんなひとことから始まった。
もう20年以上も前の春。当時の彼は19歳の政治経済学の学生で、わたしは服飾高等専修学校へ通う16歳の生徒だった。
実際には、わたし、なにも落としてなんかいなかったの。話しかけるきっかけが欲しかったんですって。5回目のデートのときに小声でそう教えてくれた。
わたしたちは似た者同士で、同じ本で笑って、同じ歌劇で泣いて、同じ事件報道で怒った。それに、お互いが本当に好きだった。
白いバラを「ビアンカ」って異国風に呼ぶ彼のこと、かっこいいなってわたしは思っていた。たぶん、彼もかっこをつけてそう呼んでいたのよ。そしてあるとき、わたしへ一本差し出してくれたの。
「君みたいだね」
彼が言うに、バラの白のように純粋で、気高くて、とても美しいですって。すごくキザだと思う。わたし、それまで美しいなんて言われたこともなかった。だから、舞い上がってしまった。だって、そんなお姫様みたいな扱い、夢みたいじゃない?
「大好きだよ、マリア」
彼は折に触れてそう言ってくれた。真っ直ぐな言葉が恥ずかしくて、わたしはちょっと甘えて、こう返す。
「そうね、サミュエル。きっとわたしもよ」
はっきりと約束したわけではなかったけれど、いつかこの人と、いっしょになるんだろうって自然に考えていたの。
だれよりもわかりあえている人で、お互いを思いやれて、大好きな人。
わたしにとって初恋の人。
だからね、びっくりしてしまって。
「服飾意匠画展、入賞おめでとう」
卒業証書と表彰状を受け取ったわたしを迎えて、花束をくれて、笑顔で彼はお祝いしてくれた。
そして、言ったのよ。
「有終の美を飾れたね。趣味をここまで立派にやり遂げられたのは、すごいことだよ」
わたし、驚いて「えっ?」って聞き返してしまった。
彼は在学中に上流階級の方からの推薦を受けて、大学卒業と同時に外交官の見習いとして働き始めていた。忙しくて頻繁には会えなくなったけれど、いつも宝物みたいな言葉が並んだメッセージカードを届けてくれる。メッセンジャー・ボーイが階段を駆け上がって来る音を、そわそわとわたしは心待ちにしていた。それに、月に一度は必ず時間をとっていっしょに食事をしてくれるの。お仕事の内容は守秘義務で話してはもらえないけれど、いかにやりごたえがあるかを、いっしょうけんめい伝えようとしてくれる、その生き生きとした表情が好きだった。
「ねえ、サミュエル」
わたしの声、ちょっと震えたかもしれない。
「わたしの、服飾の勉強……趣味だと思っていたの?」
彼はちょっと首を傾げて、それから、困ったような顔をした。
思えば、あのときにちゃんと話し合っておけばよかったんだわ。
わたしも、彼も、あいまいにしてはいけないことを、あいまいにしてしまった。
彼はさらに忙しくなって、メッセージカードだけの月が、ふたつ過ぎた。わたしはその間に就職活動をしていた。何件かブティックの面接を受けて、そして「いつから来られますか?」って言ってもらえたのは夏が終わるころ。わたしうれしくなって、彼からのメッセージのお返事に、就職先が決まったって書いたの。
すぐに届いた返信は『どういうこと?』というひとことだった。
わたしは、就職先の詳しい情報がほしいのだと思って、住所とオーナーの名前、そして働き始める日付けを書いて送り返したの。
彼からは『あり得ない』と返って来た。
そして、メッセンジャー・ボーイが、わたしの家のドアノッカーを打ち鳴らすことはなくなった。
わたしから、何度かメッセージカードを送った。でも返信はなくて、わたし自身も忙しくなって、気にかかりながらもなにもしていなかったの。
そう。
わたし、なにもしなかったのよ。
初雪がちらついた日の夕方。彼がわたしの職場のドアベルを鳴らして入ってきた。
「まあ、サミュエル……!」
「やあ、マリア。ひさしぶり。オーナーとお話しできるかな」
わたし、ひさしぶりに会う彼を見て、どきどきしてしまった。だってかっこいいんだもの。少しだけ疲れたような、そしてどこか有無を言わせぬような空気感。それって、きっとお勤めするようになってから身につけた、大人の雰囲気よ。
オーナーはにこやかに彼を奥の部屋へ招いて、手ずからお茶を淹れてもてなした。わたしは「君は、いい」って言われてしまって、しかたないから閉店作業をしていたわ。
「――さて、話はついた。帰ろうか、マリア。レストランを予約しているから」
「えっ、待ってちょうだい。わたし、この後に注文していた図版を受け取りに――」
「今日じゃなくてもいいだろう? ねえ、それ、僕たちの話とどっちが大事?」
彼の目が、これまでになくすごく真剣だったから。わたしはうなずいた。
そして、レストランでは個室に通されて。出てきたお料理は、なにかのお祝いの日かしら、と思うような高級なコースだった。
話ってなにかしらって思ったけれど、なんだかわたしからは尋ねづらくて、彼が切り出すまで待っていたの。
食後酒が運んで来られたときに、彼は口を開いた。
「――来年の春から、南方植民地の総督府へ配属の打診が来たんだ。その前に、結婚しよう」
「えっ⁉」
わたし、思わず手元のフォークを落としてしまった。あまりにも急なことで。
「待って、南方って、異民族の土地の?」
「そう。官僚としての道が拓けたんだ。他の先輩たちよりも、僕を推薦してもらえた。僕の働きと努力を認めてもらえたんだよ」
「あの……おめでとう。あの、ちょっと、突然の話で、混乱しているわ」
「そうだろうとも」
わたしは聞いた言葉が即座には理解できなくて、頭の中で噛み砕いて咀嚼してから、質問した。
「ねえ、結婚って……あの、今、このタイミングで?」
「そう。現地に行けば、数十年は帰国できない。だから――僕といっしょに、行ってほしい」
わたし、呆気にとられてしまって。こんなプロポーズ、想像してもいなかった。
もちろん、彼がお仕事のことを真面目に考えていることも、大切に思っていることも知っていた。でも。だからこそ、わたしは長考の末、言ったのよ。
「あの……あなたが、わたしとの関係を真剣に考えてくれていてうれしいわ。だからこそ、この急過ぎるお話は、返答に時間がかかることもわかってくださるわよね?」
「なにが問題? 僕と君は好き合っていて、僕は君と結婚したいと思っている。君は?」
「もちろん、結婚するなら、あなたと以外考えられないわ、サミュエル。でも、今すぐに、というのはムリな話よ」
「どうして?」
「わたしにだって、仕事がある」
口をつけたグラスをテーブルに置いてわたしが言うと、彼は「そんなことか」と言った。
「先ほど、オーナーとは話したよ。遠からず君は退職するからって」
「……なんですって?」
腰が浮いた。驚いて、わたしはそのまま固まってしまった。彼は真っ直ぐな瞳でわたしを見て「だって、君は僕と結婚してくれるだろう?」と言った。
「待って、あなた、勝手にわたしが退職するって決めたの?」
「決めてはいないさ。春までには時間がある。だから、移動の準備とかいろいろあるけれど、ギリギリまで勤めたらいい」
「ねえ、待って? ねえわたし、すごくがんばって就職活動をして、今のところに雇ってもらったのよ?」
「そうだろうね」
「実務経験のないわたしを、育てようって言って雇用してくれたの。どうしてそれをあなたが反故にするの?」
「縫い物なら、あっちでだってできるさ」
わたし、ショックで。
その言葉が、ショックで。
彼は言ってから、しまった、って顔をした。
化粧室へ行きたいって言ってその場を立って、個室でちょっとだけ泣いた。
その後、彼とちゃんと話し合えたとは言えない。お互い言葉少なに席を立った。彼は流行りのタクシーを拾って、わたしの家まで送ってくれた。初めて乗ったわ。乗車賃がいくらするのかもわからないし、普通に馬車でよかったのに。そう言うこともできないくらい、わたしは動揺していた。なにか言いたげな表情のまま、彼は去って行った。
次の日にわたしはオーナーに頭を下げて、彼が言ったことは確定事項ではないこと、けれどご迷惑がかかるなら退職することを伝えた。
オーナーは「いっぱい、悩むといいわ」って、わたしの肩を叩いて言ってくれた。また泣いてしまいそうだった。
次の日に、注文してあった図版を受け取り、買い物をして帰宅したら、メッセンジャー・ボーイが家の扉の前で待っていた。彼からの手紙。必ず手渡ししてほしいと言われたんですって。寒い中で待たせてしまったから、買ってきた丸い白パンをひとつあげた。すごくよろこんでくれた。
『僕の最愛、マリアへ。
いろいろ、急いで話を進めてしまったこと、そしてきっと君の気持ちを傷つけてしまったことを謝る。
もう一度、話をしたい。
来週の土曜の夜を僕にくれないか。迎えに行く。
もう一度、ディナーをやり直そう。
サミュエル』
わたしは『わかりました。待っています。』と書いて、メッセンジャー・ボーイへ渡した。
そして、土曜の夜。
仕事から帰宅して、さっとタオルで体を拭いて、髪を結い直して、お化粧も直して。オーナーが「これ、従業員価格でどう?」って勧めてくれた、ステキな緑の天鵞絨のワンピースを着て待っていた。
彼は来なかった。
メッセージも、届かなかった。
連絡が来たのは一カ月後で、あまりに忙しくて、しばらく会えないことを詫びる内容だった。
わたしは『わかりました。』と書いて、メッセンジャー・ボーイへ渡した。
そして、わたしたちはなにもわかり合えないまま、新しい年を迎えた。
はっきりと約束したわけではなかったけれど、いつかこの人と、いっしょになるんだろうって、ずっと考えていた。
だれよりもわかりあえている人で、お互いを思いやれて、大好きな人。
わたしにとって初恋の人。
そう思っていたの。
新年初めてやって来たメッセンジャー・ボーイは、白いバラの花束を持っていた。受け取って数えてみたら、12本もあった。
添えられたカードには『愛しています。結婚してください。』という言葉があった。……うれしかった。
でも、こんな大切なことまで、だれかの手に委ねるのね、と思ってしまって。
返事には『わたしたちには、話し合うべきことがたくさんあると思います。いつ会えますか。』と書いた。
メッセンジャー・ボーイは、戻って来なかった。
わたしは、服飾の型紙師としての実務経験を積ませてもらっていた。本当にいい職場で、オーナーは、彼のことやわたしの進退について口にしない。このままそのご厚意に甘えているわけにはいかないと思った。
なので、わたしは彼へ長い手紙を書いた。
今の職場に勤め始めて、来月で半年になること。
見習い期間が終わるため、服飾師へ転向するか、それとも型紙師としてこれからもやっていくかを考える時期だということ。
わたしの夢は服飾師として、いつか自分の名をつけた銘柄を持つことだ、ということ。
諦めようとは思っていないこと。
わたしたちは、もっとよく自分たちのことを話し合うべきだということ。
数日後の、夕方。帰宅すると、扉にカードが挟まっていた。
『君の気持ちはわかった。元気で。』
返事を待ってくれている、メッセンジャー・ボーイはいなかった。
失恋したんだって気づいて、わたしは少し、泣いた。
雪が溶けて、足下がぐちゃぐちゃな日も多くなったころ。
新聞に、新任の外交官たちの名前が列挙された。
来月から南方の植民地に配属される人々の中に彼の名前をみつけて、わたしは、その紙面をなでた。
はっきりと約束したわけではなかったけれど、いつかこの人と、いっしょになるんだろうって、考えていた。
だれよりもわかりあえている人で、お互いを思いやれて、大好きな人。
わたしにとって初恋の人。
大好きだった。
本当に。
そのとき流行り始めだったネクタイを、型紙から起こして縫った。クラバットよりもはっきりと形がわかるから、ひと針だって気を抜けない。彼にきっと似合うと思う。空の深いところの色をした絹。剣先には、布と同じ色の糸で、彼がこれから所属する総督府の紋様刺繍を。
受け取ってもらえるかわからなかったけれど。
わたしは『おめでとうございます。御健勝と御活躍を、同じ空の下で祈念しております。』と書いて贈った。
返送はされてこなかった。
後日、任命地へと旅立つ官吏たちの着任式があったとき。若い官吏が、青いネクタイをしていたことが話題になった。
わたしの職場にも、ネクタイの注文がいくつも寄せられた。お陰様で、わたしはネクタイ作りに習熟できたわ。
彼が国を出る日は、とても晴れた、美しい空だった。
白いバラが15本届いた。
ひとこと『ありがとう。』と。
やっぱりわたしは、少しだけ泣いた。
その後も、いろいろあったの。
やさしいオーナーの元で、たくさんの技術を学んで、身につけて。
高齢なので引退して、息子さんの住む町へ行こうと思う、と言われたのは、わたしがお勤めして10年が過ぎるころ。
お店は、そのままわたしに引き継いでほしいと言ってくださって。昔からのお客様もいらっしゃるし、たたんでしまうには惜しいから。
屋号を変えて再出発することになった。いろいろ考えたけれど。
「……ビアンカ・ローズは、どうかしら」
自室に飾ったドライフラワー・ブーケを見て、わたしはそう思って、つぶやいた。
オーナーに伝えたら、若者らしくてステキだって言ってくださって、お店の名前は『ビアンカ・ローズ・マリア』になった。
新装開店は、春の晴れた日。とても美しい空で、わたしのことを祝福してくれているようだった。
お祝いのお花や注文がたくさんやってきた。雇っていた見習い服飾師たちといっしょに、小さなお店の中を走り回って応対した。
「オーナー、新しいお花が届きました!」
「まあ、どうしましょう。飾れないわね。とりあえず二階へ!」
「はい!」
「――待って!」
呼び止めて、わたしは器に飾られたその小さな花籠を受け取った。……10輪の小さな白バラ。
カードはひとこと『おめでとう。』と。
わたしは「大きさがちょうどいいから、わたしの作業机に飾るわ」と奥へ持っていった。
少しだけ、泣きそうだった。
それ以来、開店記念日には必ず白バラが届いた。本数は毎年違っている。
届け人は不明。毎回、届けてくださる生花店の方へ尋ねるけれど、首を振られるだけ。
答えがなくてもわかっているわ。
彼が遠い南方の地で、立派なお勤めをしていることを知っている。こちらの地元新聞には載らないけれど、ときどき用事のついでに、官公庁にある記録を調べたの。それで彼がすっかり昇進して、なんだか難しい肩書になっていることもわかっていたわ。
一度だけ、写真も載っていた。
ひげを蓄えた彼は、なんだかたくましくなって。白黒の紙面だから確証はないけれど、たぶんあのネクタイをしていた。
それを見て、わたしはとても優しい気持ちになった。
わたしたち、どこまでも言葉足らずなのね。
わたしは、すっかりおばさんになってしまった。婚期逃し令嬢なんて言葉を、自分に当てはめるのも恥ずかしいくらいには。
雇っていた見習いの子たちは、お嫁に行って何人も入れ替わって、3巡くらいしたと思う。
それでも必死にやってきて、営業10年の節目になるころには、それなりに名の通った服飾銘柄にはなれていた。
きっとこの店からたくさんの子をお嫁に出したから、巷で「婚礼衣装なら、ビアンカ・ローズ・マリアがいい」って言われるくらいには有名店になれたのよ。
とてもありがたい。
「オーナー。今年は、来ないですね? 白バラ」
開店記念日の夕方に、長く勤めてくれている子がそう言った。この子も、ご縁があって昨年結婚したばかり。
わたしだって、彼から一輪の白バラを差し出された若い日みたいに、純粋なままではいられない。
人は、変わって行って、時代も移り変わる。
「そんなこともあるわよ」
わたしはちょっとだけ笑って、入口の表示を『閉店』にした。
週末に、常連様や取引先様をお呼びした10周年記念パーティーを計画していた。
わたしの作った衣装を過去に何度も用いてくれた祭事施設が、よろこんで場所を提供してくれた。個人店のお祝いにしては少しおおげさなくらいの規模になってしまったのは御愛嬌。
うちの店の売り子や服飾師はみんな、ここぞとばかりに着飾る予定だ。彼女たちの技術のお披露目の場でもあるのだから。
当日は、天候の問題も心配なく、抜けるような青空の下でガーデン・パーティーが開かれた。
「みなさま、本日の佳き日をともに祝ってくださり、ありがとうございます。ビアンカ・ローズ・マリアは、みなさまの支えにより、こうして10周年を迎えることができました」
まずはわたしのあいさつから。堅苦しいのは苦手なんだけれど。いくらかこれまでの経緯を述べ、あらためて来場者への感謝を述べて、終わり。拍手に礼をしてから、壇を降りる。
それから、うちの子たちの衣装のお披露目。本職の服飾広告塔ではないので、ガッチガチに緊張していたけれど。ひとりずつ壇に上がる。そしてわたしが、どのような発想を得て、どのような構想を練って創り上げたのかを尋ねて行く。裏返った声で答える彼女たちへ、励ましの拍手や掛け声があった。
「オーナー。店名の由来はなんですか?」
給仕から勧められる酒杯をふたつ干したあたりで、売り子のひとりがわたしへそう尋ねた。社訓は『白く、気高く、美しく』で、そうあるように運営してきたつもり。わたしは優しい気持ちで空を見上げた。――彼は、こんな色が似合う人だった。
「若いときに。教えてもらったのよ。海を渡った隣国では、白いバラをビアンカと呼ぶんだって」
「へえ、ステキですね! もしかして、恋人ですか?」
キラキラした瞳で尋ねられて、わたしは苦笑しながらうなずいた。そして「初恋の人よ」と告げた。近くにいた店の子たちが、色めき立ってわたしに群がってくる。
「オーナーって、そういう浮いた話、ない人だと思ってました!」
「え、どんな人ですか? なんで結婚しなかったんですか?」
「それが自分のお店の名前になるなんて! ステキ!」
いやだ、お客様たちにも注目されてしまったわ。お得意様である外務大臣オルブライト氏の夫人まで、すっとやってきて「なかなか、たのしいお話ね」なんておっしゃる。
囃し立てられ、促されて、わたしは彼について語った。
「わたしに、本当に大きな影響を与えてくださった方よ。真面目で、努力家で、清々しい人だった」
「いっしょにならなかったのはどうしてですか?」
どうしてもそこが気になるみたいで、みんな食いつくようにわたしを見ていた。周囲の人たちだって、なんだかどんどん集まってきて。隠すようなことではないけれど、なんだか恥ずかしいものね。
「お互いの、進路に食い違いが出てしまったのよ。彼には彼の仕事が。わたしには、成したい夢があった」
その夢を叶えて、10年を数えた。オルブライト夫人が「後悔していらっしゃる?」と尋ねてこられた。
「まさか!」
「でも、店名にするくらい、その方の言葉を大事にしているのでしょう?」
「はい」
彼のことを思い浮かべたとき、若い日の自分を責めるような気持ちになることはある。できることをしなかった。でも、あのときのわたしたちは若くて、必死だったのだ。
彼との間に、わたしはなにも負うところがない、とはっきり思う。
「あのころわたしたちは若くて、とてもかわいらしかった。お互いが大好きで。彼は、わたしに多くの大事なものを残してくれました。その思い出に、なにも曇りはありません。まるで――晴れ空みたいな恋でした」
わたしがそう言うと、感激屋の店の子がひとり、ぶわっと泣き出した。ちょっとだけ笑い声があがって、オルブライト夫人が「いい人生ね、マリア」と言ってくださった。
「それはそうと、わたくしと主人から、10周年のお祝いを差し上げてもいいかしら?」
「まあ、こうして夫人にお越しいただくだけでも身に余る光栄ですのに!」
「そうおっしゃらないで。はりきって手配したんだから。――こちらに!」
オルブライト夫人が手をあげると、人々が分かれて道ができる。その先には、運搬人の顔すら隠れて見えないほど大きな、真っ白なバラの花束。
取り落とさないようにそろそろと運ばれて、わたしの目の前までやってくる。さすがにこの量の白バラは初めてだ。オルブライト夫人へ「ありがとうございます!」と言ってから、どう受け取っていいものか、むしろわたしが受け取って立っていられるか悩む。運搬人さんも大変だからどこかに置かなければ。
「――カードがあるはずよ。読んでみて」
たしかに、埋もれるように赤い封筒が挟まれていた。抜き出して開封し、わたしは息を止めた。
『愛しています。結婚してください。』
白バラの、大きすぎる花束を見る。
顔は見えない。
「……これは、何本なの?」
「12本ではだめだったからね。100本足してみたんだ」
白バラ越しに解答があった。
――はっきりと約束したわけではなかったけれど、いつかこの人と、いっしょになるんだろうって、ずっと考えていた。
だれよりもわかりあえている人で、お互いを思いやれて、大好きな人。
わたしにとって初恋の人。
そう思っていた。
「……わたしたちには、話し合うことがたくさんあると思うわ」
「そうだろうとも。20年分だ」
「わたし、おばさんになってしまった」
「そこは負けない。僕もおじさんだよ」
店の子たちが小声で「えっ、えっ⁉」と言っている。
「愛しているよ、マリア」
わたし、笑ってしまって。わたしも白バラに顔を埋めて言ったの。
「そうね、サミュエル。わたしもよ」




