26話 それぞれの正しさ
ストーカーと対峙したあの日から一週間あまり。
自室のベッドの上で、僕は今夜も眠れずにいた。
時刻は真夜中をとうに過ぎているはずだ。
だが、理由も無く目が冴えて、全く眠気が来ない。
時計の秒針、窓からわずかに差し込む明かり、キッチンの水がしたたる音。
普段なら気にもかけないような事が、僕の意識を引き付ける。
いったい、どうしちまったんだ。
寝返りをうちながら、もう何度になるかわからない、あの日の事を考えていた。
僕は、【オレ】に背中を押され、自らの意思で人を殺した。
突き刺したナイフから伝わってくる生命が流れ出す感触。
今になっても、この手に鮮明に残っている。
警察が駆け付けたのは、手筈通りストーカーにナイフを握らせたすぐ後だった。
ストーカーは、救急車で搬送されていったが、その頃には既に死亡が確認されていたらしい。
僕はと言えば、少しは疑われるかと思っていたが、拍子抜けするほどあっさりと正当防衛による事故と判断された。
何の問題も無さ過ぎて、むしろ気味が悪いほどだったが、警察も面倒事にしたくなかったのだろう。
対応していた警官は、そんな目をしていた。
事の顛末を知った社長や昴ちゃんはショックを受けていたな。
いくら自分たちに迷惑をかけ、辛い思いや悲しい思いをしたとしても、その相手が死ぬというのはやはり特別なのだろう。
普通はそうなのかもしれない。
復讐に手を染めて寺島圭司をこの手にかけ、今またストーカーに手を下す。
僕の方が異端なのかもしれないな。
僕は一体、何をしたい? 何になりたい?
後悔しているわけでは無い。
だが、僕の心はあれ以来ずっと晴れずに居た。
理由はどうあれ、僕は人を殺した。
その事実が重くのしかかり続けているのだ。
『いつまでも辛気臭えな、何をうじうじ悩んでんだ』
【オレ】が、少しイラついたような声を上げた。
さしずめ、僕の煮え切らない態度が気に入らないのだろう。
何でも簡単に割り切れるようなら苦労は無い。
(当たり前だろ。人を殺したんだぞ、平気で居られるわけないだろ)
『寺島圭司の時は、もっと前向きに見えたんだがな』
(あれとこれとは違う)
『……同じだろ、どう違うんだ?』
【オレ】の問いに、僕は絶句した。
どこが違う? その言葉に反論する術を持っていないことに気づいてしまったからだ。
『他人の人権を踏みにじって平然としてる。奴らは命を奪ったとしても反省すらしない。配慮なんて必要か?』
人は他人と関わる限り、なにかしらの迷惑をかけて生きていくものだ。
僕だって、以前勤めていた銀行にも、今お世話になっている社長一家にも何かしらの迷惑をかけていることだろう。
だが、それも程度問題だ。
他人の人権を踏みにじるような相手を慮る意味などあるのか?
『響子の命を奪った相手が、のうのうと生きてる。それが許せなかったんだろ?』
そうだ、だから僕は寺島圭司に復讐した。
『昴に危害を加えようとする奴を断罪した。何が違う?』
あのまま奴を野放しにしていれば、どうなるかわからなかった。
最悪、昴ちゃんは命を奪われるより辛い目に合わされたかもしれない。
あの目の光を思い出すと、今でも身震いがする。
昴ちゃんが、あの狂気に晒されるなど、絶対にあってはならない事だ。
『あの変態野郎が捕まって、しかるべき矯正とやらを受けたとして、まともになると思うか?』
確信は無い。だが、少なくとも対峙したあの時は、とても正常な人間とは思えなかった。
それほど、僕にとっては異質な存在だった。
そして、あのストーカーが真っ当な人間に戻った所をどうしても僕は想像できない。
『断ち切るには、あれしか無かったと思うぜ』
もし、奴が解き放たれて再び僕らの前に姿を現したら……
そうなる未来が結果的に来なかったとしても、可能性が拭えず、ずっと怯え続けるのは……
『響子の時はどうしようも無かった。だが昴は間に合った』
そうだ、僕は昴ちゃんを救えたんだ。
心の傷は浅くないかもしれない。
でも、これからはストーカーに怯えず、ゆっくりと自分を取り戻していくことができる。
時間はかかるかもしれない。でも、最悪の事態は回避できたんだ。
『なら、何を気に病む必要がある?』
胸にのしかかっていた物が取り払われた気がした。
なんだ、何の問題も無いじゃないか。
世の中には、生きる価値の無い輩が居る。
放っておけば他人に迷惑をかける、害虫のような奴らだ。
ならば、それは速やかに排除しなくてはならない。
そうしなければ、社長や昴ちゃんのような善良に生きる人たちが救われないからだ。
『わかったか? お前のやった事は、決して間違っちゃいねぇ』
法は常に加害者の味方だ。
理不尽を強いられるのは、いつも被害者の方で、加害者の更生とやらのために配慮を求め続けられる。
そんな不公平を跳ね除けるためには、誰かが力を振るい、加害者とならないよう思い知らせなければならない。
仕方ないじゃないか。法も警察も不平等なんだから。
『そうだ、お前とオレがやるんだ』
これからも昴ちゃんを守るために……。
『それが、オレたちの正義だ』
身体中を駆け巡るような使命感に突き動かされて、僕はベッドから飛び起きた。
社長を、奥さんを、そして昴ちゃんを、響子のようにしてはいけない。
そのためには、待っているだけではダメだ。
探し出して断罪しなければ。
皆が理不尽な目にあう前に!
誰も居ない僕の部屋に、扉を閉める音だけが無機質に響いた。
その日から、僕は夜になると街へと出かけるようになった。
路地裏、コンビニ前、パチンコ店の駐車場。
目が合っただけで、意味もなく因縁をつけてくるような連中は、驚くほどたくさん居た。
「なんだてめぇ! 誰にガンつけてんだ! ああ?」
ここにも一人……。
真っ赤なジャンパーを着た若者が目の前で中指を立てている。
別に、僕から何かしたわけでは無いのだが、何がそんなに癪に障ったのか理解に苦しむ。
「黙ってねぇで、何か言えやコラ!」
後ろに三人ほど仲間とおぼしき連中が居るが、こっちはポケットに手を突っ込んだままにやにやと様子を見ている。
今のところ加勢する気は無いらしい。
囲む必要すらないと思われているのか。
それにしても不愉快な連中だ。
こいつらにも躾を叩きこむ必要があるな。
【オレ】が、もう待ちきれないとばかりに舌なめずりをする。
さあ、お仕置きの時間だ。
「な……なんてでめぇ! 急に笑い出しやがって、気持ち悪……」
うるさい、もう黙れ。
若者の胸倉をつかみ上げ、みぞおち目掛けて膝を叩き込んだ。
手を放してやると、身体をくの字に曲げ、腹を抑えてそのまま倒れ込む。
それを見た後ろの連中は、まともに顔色を変えた。
「こ……こいつ、やべぇんじゃね?」
「頭いっちゃってるよ、やべぇよ」
既に腰が引けている。
僕が一歩前に踏み出してやると、まるで蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。
普段イキがっているのに、相手が強いと見るや、他愛のない。
『さあ、次の獲物を探しに行こうぜ』
(そうだな、早く昴ちゃんに元気を取り戻してもらわないといけないからな)
いまだ倒れたままの若者を放置して、歩き出そうとしたその時だった。
「おや? 唯野さん、こんなところでどうしたんです? 散歩ですかな?」
明かりの届かない道路の影から、ひょっこりとスニフが姿を見せた。
トレーナーにスエットパンツのスタイルで、ぱっと見は深夜のジョギングでもしてるような格好だ。
それにしても、会うたびに年齢も印象も定まらない。
よくもこれだけイメージが変えられると、逆に感心してしまうな。
「……見てたんですか?」
「さて、何のことですかな?」
何食わぬ顔のスニフ。
見てたも何も、僕の足元で人がうめき声を上げて倒れているというのに、散歩かと聞くくらいだ、とぼける気も無いのだろう。
しかも姿を見せたのがこのタイミングだ、偶然で片付けるには無理がありすぎる。
一部始終を見ていたのは間違い無いし、もしかしたらこれが初めてじゃ無いことも知っているかもしれない。
もし、僕の不利益な方向に動くのであれば、スニフといえど容赦するわけにはいかない。
「それで、用件は何です? まさか偶然通りかかったわけでも無いんでしょう?」
スニフは、僕の足元で起き上がれずに蹲っている若者に、ちらりと視線を投げる。
「ジョギングしてましたら偶然……と言いたいところですが、誤魔化しは通用しませんね」
「当然です。全部見てたんでしょう? そのポケットの中身はボイスレコーダーか何かですか?」
「参りました、ご明察です。最近、ここいらで暴行事件が頻発していると聞いてそれを追ってましてな。まさか唯野さんにお会いするとは思ってませんでしたが」
スニフは、おもむろにポケットからレコーダーを取り出すと、分かりやすいようにスイッチを切ってみせる。
とりあえず、僕と敵対する意思は無いということか。
「いきなり殴られてはたまりません。これでよろしいですかな?」
僕は無言で頷いた。
「それで、なんだってこんな事をしてるんです? 路上でケンカなんて普段の唯野さんのイメージから想像できませんな」
「大事な物を守りたい。それだけですよ」
僕が答えると、考え込むような表情を浮かべるスニフ。
なにか思い当たるフシがありそうな態度だな。
「それはもしかして、ストーカーの件と関係がありますかな?」
「……どこで聞いたんです?」
「ジンさんが、唯野さんから相談を受けたと」
意外と口が軽い……いや、相手がスニフだから話したのかもしれない。
口止めしておくべきだったな。
あの時は、焦っていてそこまで頭が回らなかった。
「それで、そこに転がっているのは、そのストーカーの報復か何かですか?」
「いえ、全然関係無い奴ですよ。僕と目が合ったのが気に入らなかったんだそうです」
「……それはまた」
スニフは呆れ半分、哀れみ半分といった複雑な表情で若者を見やる。
転がっている……と表現する辺り、スニフも相当だなと思う。
「何でこんな連中が、裁かれもせず好き勝手に生きてるんでしょうね?」
「……唯野さん?」
「だってそうじゃないですか? こいつらにはまともな理由や理屈なんてありません。ただ気に入らないから難癖をつけて暴力を振るう。周りがどんな迷惑を被ろうが、極論、怪我をしようが命を落とそうが知った事では無いんです。よしんば警察に捕まったところで奴らにとってはハクがついた程度の認識なんですよ。こんな輩に更生の機会がどうの人権がどうのって、甘すぎて反吐が出ます。人間かどうかすら疑いたくなりますよ」
スニフの目が大きく見開かれた。
まるで異様な物を見るような、驚きの表情。
僕がストーカーと対峙した時も、こういう顔だったのだろうか。
「こいつらは、社会を営む上において必要ないんです。むしろ害悪にすらなる。なら人に迷惑をかける前に駆除しなければならないんです」
スニフがどう思ったかは関係無い。
これは僕が今まで悩み、苦しみ、理不尽な目に会いながら出した結論だ。
覚悟はもう決まっている。
「唯野さんをそこまで歪ませてしまうとは……」
「失礼なことを言いますね。僕は正しいことをしているんです。警察や司法が役に立たないから、僕がやるんです」
「それがあなたの正義なのですか?」
スニフは何故そんな悲しそうな顔をするんだ。
僕の事がわからなかったとしても、スニフが気に病むようなことでは無いはずだ。
完全に利害でつながった関係だ、理解できないのなら捨て置けば良いのに、なぜ……。
「唯野さん……」
ゆっくりと諭すような口調のスニフ。
静かながら、圧を持ったその声に、僕は思わず半歩たじろいだ。
「私は職業柄、色んな人物を見てきました。その中にはもう救いようも無いほど悪い人間が居るのもわかります」
何かを思い出すように目を伏せるスニフ。
職業柄というなら、僕だって色んな人間を見てきた。
金に汚い奴、自分の考えを決して曲げない奴、大声を上げる事で相手をやり込めようとする奴。
お世辞にも善人とは言えなかったが、それでも彼らは話し合う事はできた。
だが、僕は知ってしまった。
世の中には、意思の疎通すら困難な相手が居るということを。
そして、そんな相手から向けられる悪意が、どれほど恐ろしいかを。
「しかし、それを排除するために暴力に訴えていては、同じ穴の貉だとは思いませんか?」
「僕はストーカーと対峙した時、話をする機会がありました。ですが、奴の考え方も動機もまるで脈絡の無いもので、思いとどまらせるどころか、会話がまったく成り立ちませんでした」
眉をひそめるスニフ。
もしかしたら僕が手を下した事に勘付いたかもしれない。
そのリスクを負ったとしても、僕はスニフに問うてみたかった。
「僕はあの時どうすれば良かったんです? わかるなら教えてくださいよ」
スニフが言葉に詰まり、気まずい沈黙が流れた。
暴力はいけない。口で言うのは簡単だ。
だからといって、降りかかる火の粉を払う事すら忌避するのは、果たして正しいことなのか。
僕には、それがどうしても納得できない。
「唯野さんがどうすべきだったのか……それはわかりません。ですので、こんな私が何を言ってもキレイ事に聞こえてしまうかもしれませんが……」
しばしの沈黙の末、スニフが口を開く。
口調は淡々としていたが、僕を真っすぐに見つめる瞳には、自らの意思を伝えたいという力がこもっている。
「暴力に暴力で対抗していては、いつか自分の身に返ってきます。なぜなら暴力が壊すものは、振るった相手だけでは無いからです」
では、一体なにが僕らを救ってくれるというのか。
人がいくら苦しんでいたとしても、周りの人間は見て見ぬ振りを決め込む。
積極的に関与して、責任を取りたい者など居ないからだ。
ならば、自分で跳ね除ける力を持たなければ、いつまでもサンドバッグのままだ。
「暴力に訴えるたびに、唯野さんの周りから色々な物が失われていく、やがては唯野さんが守りたかった大事な物、そして唯野さん自身も失う結果になるでしょう。私は唯野さんがそんな道を歩み続けるのを見過ごすことができないのです」
いくら平穏に暮らすことを望んでいても、奴らは向こうからやってくる。
結局は、それに抵抗できなければ全てが奪われてしまう。
それを大人しく待っている事に、いったい何の意味があるというのか。
「結局、あなたにもどうすることもできないんですね。だから話をすり替えようとする。詭弁はもう結構です」
スニフの言い分に、僕は激しい失望感を抱いていた。
やはり、あの恐怖は実際に対峙した者でなければわからない。
話は終わりだとばかりに、僕は踵を返す。
次の獲物を探さなければ。
夜はまだまだ長い。
その場に取り残されたスニフがどんな表情をしているかはわからない
だが、立ち去る僕を追ってくることも、声をかけてくることも無かった。
そうして数日が過ぎ、とある日の午後、僕は事務所のパソコンに向かって事務作業を進めていた。
一人で作業をしていると、どうしても考えにふけってしまう。
あの日以降も、僕は毎晩街へ出かけている。
人の話を聞かないクズを探し出しては裁きを下す。
その一点においては【オレ】は実に協力的だ。
今のところは何の問題もない。
だが、あの日のスニフのセリフが喉の奥のトゲのように、いつまでも僕の心に引っかかっているような気がした。
「誠一郎さん、何かあったんですか?」
顔を上げると、そこには心配そうな顔をした昴ちゃんが立っていた。
「え? あ、ごめんね、ちょっと考え事をしてて」
「考え事……ですか? それなら良いんですけど、なんか悩んでるように見えて」
「そんな顔してた?」
「はい、こーんな感じの、難しそうな顔してましたよ」
昴ちゃんは、眉間にシワを寄せて、顔をしかめて見せた。
それを見て、思わず表情が緩む。
ストーカーの一件が終わってから、学校以外は自室に籠ることが多くて元気が無いって聞いて心配してたけど、今日はいつも通りに見えるな。
気分を変えられる何か良いことでもあったんなら、僕も嬉しいんだけど。
「ほんとに何でも無いんだ、心配かけてごめんね。それで何か用事でもあった?」
「あ、そうでした。誠一郎さん、今度のお休みは空いてますか?」
「日曜日? 別に予定は入ってないよ」
それを聞いた昴ちゃんは、にっこり笑いながらポケットから小さな紙きれを取り出した。
「お父さんが、どっかの新聞屋さんに貰ったらしいんだけど、誠一郎さんと行って来たらどうだって」
昴ちゃんが見せてくれたのは、動物園のペア招待チケットだった。
場所もあまり遠くない、電車を使えば日帰りで気楽に行って来れる場所だ。
もしかしたら、昴ちゃんの気分転換になるかもしれないな。
「僕で良ければ、もちろん構わないよ。何時くらいに迎えに来れば良い?」
「なら、早めに行ってたくさん遊びませんか? 私、お弁当作っちゃいますから」
「それは楽しみだな、でも無理はしちゃダメだよ」
「わかってますって。それじゃあ当日楽しみにしてますね」
昴ちゃんは満足げに、パタパタと戻って行った。
せっかく誘ってもらったんだ、昴ちゃんにも目一杯楽しんでもらわないとな。
今やってる作業を早いところ終わらせて、休憩がてら下調べてもしておくか。
僕は、若干のワクワク感を覚えながら、仕事の続きに取り掛かった。
そうしてやってきた日曜日。
朝から社長の自宅に迎えに行くと、待ちかねていたように昴ちゃんがやってきた。
「誠一郎さん、おはようございます!」
元気良く挨拶する昴ちゃんは、明る目の色で揃えたトレーナーとワイドパンツというシンプルな服装だ。
今日は、いつものポニーテールは無く、代わりにちょこんと乗せた帽子が良いアクセントになっている。
「おはよう。あれ? なんか雰囲気が違うと思ったら、今日は髪型が違うんだね」
「ん~、なんか髪を下ろしてる時ばかり褒められる気がしたから、誠一郎さんこっちの方が好みなのかなと思って」
そんなつもりは無かったんだけど、良く考えてみたら、そうかもしれない。
わざわざ合わせてくれたのか。その気持ちが嬉しいな。
「お、誠一郎くん。相変わらず時間に正確だな」
「おはようございます、社長」
「ああ、おはよう」
僕らの会話を聞きつけたのか、奥から社長がやってきた。
来るなり大あくびをしてるけど、なんかあったんだろうか?
「社長、寝不足ですか?」
「ああ、いや今朝はちょっと早く起きすぎたんだ。なにしろ朝から昴が準備に走り回ってて、おちおち寝ていられなくてな」
「ちょっと、お父さん! 余計なこと言わないで」
「まあ良いじゃないか、それだけ楽しみだったんだろう?」
眠そうにしてはいるものの、一時の心労をかけていた時よりだいぶ元気になったようだ。
声や動きに張りが戻って来ている。
社長も昴ちゃんも良い方に向かっているみたいで安心するな。
「それじゃ、お父さん、いってきます!」
「ああ、楽しんでおいで。誠一郎くん、すまんがよろしく頼む」
「はい、それじゃあ行ってきます」
昴ちゃんが持ってきた大きなカバンを僕が持って、二人で並んで出発する。
ついこの間までは、昼間でもちょっと肌寒い日もあったが、今日は良い陽気に恵まれたようだ。
目的の動物園は、電車で移動すれば、あっという間だ。
「わあ、意外と大きいんですね」
「うん、何年か前に拡張工事があったらしくて、だいぶ大きくなったらしいよ」
「なんか小さい頃に来たのとイメージ違うなと思ったら、そうなんだ」
今日はお休みで天気も良いせいか、色んな客で賑わっている。
混雑ってほどでは無いが、結構人気の場所なんだな。
「展示してる動物もけっこう増えてるって話だし遊園地もできたみたいだから、今日はゆっくり回ろうか」
「はいっ」
そうして僕らは動物園の中を見て回った。
動物園というと、狭いオリの中に窮屈そうに動物が詰められているイメージがあったが、ここは動物ごとになるべく過ごしやすくなるような工夫がされていて好感が持てる。
もちろん自然の中を自由に生きる方が良いのだろうが、狭いなりに外敵や食料の心配の無い今の環境と、どちらが動物にとって幸せなのだろう。
最初のうちは、ゆっくり見て回ろうかと思っていたが、こっちにはゾウが、あっちには白くまがと、はしゃぎ回る昴ちゃんに釣られて、一緒になって子供みたいに楽しんでしまった。
たまには、こうやって思い切り騒ぐのも良いもんだ。
「あー、楽しかったですね」
「うん、すっかり夢中になっちゃったよ」
動物園を隅々まで遊び回った後、僕らは顔を見合わせて笑い合う。
いまこの瞬間だけは、心配事なんて吹き飛んでしまっているようだった。
「思いっきり遊んだら、お腹が空いてきちゃったよ。時間も良い頃合いだしお昼にしようか」
「そうですね、ちょうど芝生もありますし、あそこにしませんか」
僕からカバンを受け取った昴ちゃんは、中から大きめのレジャーシートを取り出した。
休憩スペースの芝生に広げてみると、二人で使うには、少々余裕がありすぎるほどの大きさだ。
「それじゃあ飲み物買ってくるから、昴ちゃんは準備をお願いするね」
「はいっ! いってらっしゃい!」
売店で、適当に飲み物を買って戻ってくると、シートの上は、さながらお弁当の展覧会のようだった。
小さなおにぎりに、色とりどりのおかず、さらにデザートと、一体どこに入ってたのかと思うほどの器が並べられている。
なるほど、これは大きなカバンとレジャーシートが必要になるわけだ。
「さあ、どうぞ。遠慮なく食べてくださいね」
「これだけ準備するの、大変だったんじゃない?」
「ちょっと張り切りすぎちゃいました。でもお母さんにも手伝ってもらったから、そんなに大変では無いですよ」
それじゃあ早速と、二人分にしては少々ボリューム多めのお弁当に手を出した。
雲一つ無い空、遠くから聞こえてくる動物の鳴き声、子供たちの歓声。
こんなにのんびりしたのは久しぶりな気がするな。
「午後からはどうします?」
「う~ん、動物園の方はだいたい見たと思うから、遊園地の方に行ってみようか」
「良いですね、観覧車とか乗ってみたいです!」
昴ちゃんにバレないようにしながら、胸をなでおろす。
自分で言い出しておいて何だけど、ジェットコースターに乗りたいとか言われたらどうしようかと思ってたんだ。
「私、絶叫系とか激しい乗り物苦手で……退屈だったりしますか?」
「いや、僕もそういうの苦手だから丁度良かったよ。落ち着いて楽しめる方が好きだな」
「そうですか、それなら良かった」
昴ちゃんの安心した表情。
あの、スリルを求める類の乗り物は、どうも苦手なんだよな。
そういえば、響子に強引に付き合わされた事があって、あの時は生きた心地がしなかったな。
「ん? どうかした?」
「あ、ごめんなさい。なんか誠一郎さん、今日は穏やかだなぁと思って」
ふと気づくと、昴ちゃんが安心したような顔をして、こっちを見ていた。
そういいば、例のストーカーの件から、ちょっと余裕が無くなってたかもしれないな。
「ひどいなぁ、それじゃあ僕がいつも怒ってるみたいに聞こえるよ?」
「ほら、色々あったでしょ。さいきん誠一郎さんずっと張り詰めてて、難しい顔したり追い詰められたような顔してること多かったから……でも今日は違うなって」
失敗したな、ここのところ迷ったり悩んだりしてたのを全部見られていたらしい。
本来なら、僕が気遣ってあげなければならないのに、これじゃあダメだな。
もっとしっかりしないと。
「心配かけちゃってたみたいだね、ごめんね」
「謝る必要は無いんですよ! ただいつも一人で抱え込んじゃうから辛くないかなって……」
ちょっと俯き加減の昴ちゃん。
社長だって、昴ちゃんだって信用していないわけでは無い。
言えば必ず力になってくれようとするだろう。
でも、いまそれに甘えてしまえば、何のために裁きを下しているのか、わからなくなってしまう。
「そりゃ辛いこともあるけど、ほらそれは大人の役目っていうか」
「ええ、それって私が子供だって言いたいんですか?」
「あ、ごめんね、そういう意味じゃなくて」
「もう、冗談ですよ」
悪戯っぽく笑う昴ちゃんに釣られて、思わず苦笑い。
こんなにゆったりと時間が流れるなんて、久しく忘れていたな。
「……うん、やっぱり気のせい」
昴ちゃんが小さな声でそう言ったのが、たまたま耳に入ってしまった。
ちょっと心配そうな表情、なんか気になるな。
「どうしたの? 何か心配事?」
「あ、いえ、そんなんじゃ無いんですけど、ちょっと気になってたことがあって……」
なんだろう? 僕に関係があることかな?
「最近この辺りで傷害事件がたくさん起きてるの知ってますか? それでネットに犯人だって写真が上がってたんです」
昴ちゃんが自分のスマホを差し出して来た。
画面に映っている写真は、どこかの防犯カメラか何かだろうか?
高い位置から、ひどく不鮮明な写真に複数の人影が写っている。
「これがどうかしたの?」
「えっと……この端の方に映ってるのが、誠一郎さんに似てる気がして……でも、そんなわけないですよね」
昴ちゃんが指さす先、そこに映っているのは間違いなく僕だった。
これだけわかりにくい写真でよく判別がつくものだと、妙なところに感心する。
別に隠れてコソコソやってたわけじゃないけど、こんな映像とられてたのか。
「いくらなんでも誠一郎さんがケンカなんて、私ったら何考えて……誠一郎さん?」
「バレちゃったら仕方ないね、話す気は無かったんだけど」
「え? 何言ってるんですか、冗談ですよね?」
信じられないものを見るような昴ちゃんの目。
さっきまでの穏やかな雰囲気は、すっかり影を潜めてしまっていた。
「誠一郎さん、なんでこんなことを……」
「なんでも何も、向こうから勝手にケンカを売ってきたんだよ?」
「でも、こんな危ない事……」
「だから、こいつらに同情なんていらないよ」
放っておいたら、こいつらは他の人に迷惑をかけるんだ。
なら今のうちに懲りさせておく方が良い。
「そういうことじゃないよ、誠一郎さん何を言ってるの?」
「昴ちゃんこそ何を言ってるんだ、こんな連中が街にはまだまだ居る。放っておいたら、次は昴ちゃんが狙われるかもしれないんだよ?」
そう、いつあのストーカーのような輩が現れるかわからない。
僕の見ていない所で昴ちゃんが危険に晒されるなんて、あってはならないんだ。
「だからって、何もしていない人に暴力を振るうなんて」
「どうしてわかんないんだ、昴ちゃんや皆のためなんだよ」
「私のためなら、なおさらやめて欲しい」
くそっ!
スニフといい昴ちゃんといい、なんで誰も僕をわかってくれないんだ!
僕はもう、一方的に理不尽な思いをするのはイヤなんだ!
「お願い目を覚まして。誠一郎さんは間違ってる……」
ばくんと大きく心臓が鳴った。
辺りが急に真っ暗になったような錯覚に陥る。
僕は正しい。
僕は間違ってなんかいない。
『心配すんな、お前は間違っちゃいねえ』
【オレ】の声が聞こえる。
そうだ、こいつだけは僕のことをわかってくれる。
こいつだけは、僕の味方だ。
『昴はお前の考えが理解できないだけだ、いずれわかる時がくる』
そうか、それなら仕方ないな。
わかるまで僕が手を尽くさないと。
『だが、いまお前の邪魔をするのは良くないよなぁ』
待て、何を言ってるんだ?
『言う事を聞かない悪い子には、お仕置きが必要だ。そうだろう?』
やめろ! 僕はそんなことは望んでない!
『心配するなって、ちょっと優し~く撫でてやるだけだ』
ふざけるな!
目の前には、恐怖と不安で彩られた昴ちゃんが居る。
【オレ】は、下種な笑みを浮かべながら、ゆっくりと右手を伸ばして……
やめろ! このクソ野郎! 昴ちゃんに手を出すな!
声を限りの絶叫。
僕は【オレ】が伸ばした手を、すんでの所でひっこめた。
昴ちゃんは、恐怖で泣きそうな顔のまま、弾かれたように立ち上がり走り去っていく。
僕は引き止めることもできず、後に残された昴ちゃんの帽子を呆然と眺めていた。
危なかった……このまま【オレ】の好きにさせていたら、どうなっていたことか。
大事には至らなかったものの、昴ちゃんを傷つけてしまったことは間違いない。
大切で……守ろうとしていたものを……僕が……
どうして、こうなってしまったのか。
必死に考えを整理しようとしていた僕の耳に、不意に舌打ちの音が飛び込んできた。
不審に思って振り向いたその先では、スマホのカメラが僕を狙っていた。
「もう終わりかよ、つまんねえの。せっかくバズりそうなネタだったのに、おっさんもっと頑張れよ」
無遠慮にスマホを向ける若者。
へらへらと、何が楽しいというのか。
その見下しきった失礼な態度に、何かが切れた気がした。
「貴様ぁ! 人の不幸がそんなに面白いのか!」
叫んだのは僕か、それとも【オレ】か。
獣のように一足飛びで若者の頭を捕まえ、そのまま地面に叩きつける。
目を見開き、驚きの表情の若者。
大きく痙攣する身体。
僕は、手を離すと、拳を握りしめて全力で顔面に振り下ろす。
周囲で上がる悲鳴。
そんなものは関係ない。
この人でなしをこの世から抹消してやるんだ!
自分のやった事を後悔しろ!
二発、三発。
拳を振り下ろす度に、拳に痛みが走るが、それすらも快感だった。
怒りのあまり、視界が真っ赤に染まっていた。
もっと! もっとだ!
【オレ】が吠える。
さらに殴りつけようと振り上げた僕の腕を、何者かが後ろから掴んだ。
邪魔をするな!
力任せに振りほどこうとしたが、逆に関節を捻り上げられ、僕は地面に引き倒される。
真っ赤な視界の端にわずかに写ったのは、制服姿の厳ついガードマンの姿だった。




