25話 対話
USBメモリをパソコンに挿入して、しばし様子を見る。
おかしな挙動をするようなら、すぐに引き抜こうと身構えていたが、どうやら大丈夫そうだ。
挿した途端に作動するウイルスが仕掛けられているわけでは無いらしい。
まずは一安心だが、問題はここからだ。
慎重に中身を開いてみると、ファイルがぽつんと一つあるだけだった。
アイコンのデザインや拡張子からすると、動画ファイルのようだな。
違うファイルが偽装されているわけでも無いし、ストーカーからのメッセージか何かだろうか?
どう考えても、気分の良い物ではないだろう。
見るのは気が重いが、だからと言って見ない訳にもいかないな。
しばし逡巡の後、僕は意を決して動画ファイルを再生してみた。
画面いっぱいの窓の画像、音声は入っていないようだ。
夜に撮られたのだろう、閉められたブラインドカーテンからは明かりが漏れていた。
徐々に窓へと近付いて行く映像。ひどく嫌な予感がする。
どうも見覚えがあるような……どこだ?
ふと横を見ると、社長が真っ青な顔で画面を凝視していた。
恐怖にも似た感覚が、悪寒を伴って急速に膨れ上がる。
まさか!
やがて、カメラはまるで覗き込むように角度を変え、ブラインドカーテンのわずかな隙間を捉える。
その向こうでは、昴ちゃんが無邪気に笑いながらTVを見ていた。
あまりに予想外の内容に、僕は息を呑む。
見覚えがあるのも当たり前だ。
いま映っているこの部屋、ついこのまえ昴ちゃんに勉強を教えていた部屋じゃないか。
まるで自分が覗いているような気分になり、たまらない後ろめたさを感じる。
しかし、これがストーカーの撮った物なら、何が映されているのか知っておかなくてはならない。
込み上げて来る吐き気にも似た嫌悪感と戦いながら、動画を見続けた。
やがて画面の中の昴ちゃんは、TVを消して大きく伸びをする。
立ち上がってパジャマを手に取ると、躊躇することなく上着に手をかけた。
だめだ!
無意味だとわかっていても、思わず声が出る。
映像は、まるでその声が聞こえたかのように唐突に終了した。
暗転した画面を見ながら、深いため息をつく。
時間にすると、わずか二分か三分ほどだったが、僕らを打ちのめすには十分な内容だった。
「誠一郎くん……」
社長の声に、いつもの張りが無い。
いきなりこんな映像を見せられたんだ、ショックも大きいだろう。
正直なところ、僕ですら頭が混乱して、どうして良いのかわからなくなっている。
身内である社長は、もっと動揺していることだろう。
こんな時こそ僕が支えなければいけないというのに、うまく言葉が出てこない。
『なにビビってんだよ、だらしねぇな』
【オレ】が、呆れ顔で言い放った。
『怖いなら、ケツまくって逃げ出すか? こんな危ねぇ野郎を野放しにしてたらどうなるか、わかりきってんだろうが!』
頭から冷水をぶっかけられた気分だった。
そうだ、ここで僕が折れてしまうわけにはいかない。
昴ちゃんを響子のような目に遭わせてなるものか。
無理やりに気力を奮い起こした僕は、封筒から手紙を取り出した。
こんな物を送りつけて、奴はいったい何を考えているのか。
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昴へ
動画は見てくれたかな?
良く撮れていただろう。
ボクだけの宝物にしようかと思ったんだけど、どうしてもキミにも見てほしくなったんだ。
昴を隣に置いて良いのはボクだ。タダノなんかじゃない。
悪い子だね、キミは。
あんな奴に気を取られて、僕の方を見ようとしない。
とても傷ついたよ。
ボクは昴をおしおきしなければいけないようだ。
そうだろう?
そうしなければボクが真剣だということが、わからないみたいだから。
仕方ないよね、キミが悪いんだ。
反省するなら、ボクに許しを請うと良い。
そうすれば、今までのことも全て許してあげる。
愛する昴のためだ、当たり前じゃないか。
だから、謝るなら早い方が良い、ボクの気が変わらないうちにね。
どうかボクを失望させないでおくれ。
もしも、ボクを裏切ったりしたら。
ぜったい ぜったい
ユ ル サ ナ イ ヨ
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手紙の余白という余白を埋め尽くす「ユルサナイ」の文字。
背筋に、ぞくりとした物が走る。
見ているだけで執念に絡め取られそうな気さえしてくる。
まさに、常軌を逸した手紙だった。
――私は誠一郎さんの隣にふさわしくなりたいなって
昴ちゃんの言葉を思い出す。
やはり、あれを聞かれていたようだ。
盗聴器を見破れなかったばかりに、ストーカーをまた一歩、狂気へと踏み込ませてしまった。
それは、昴ちゃんにより危険が迫ったことを意味する。
全て僕の責任だ。
無力感に苛まれ、両手で顔を覆う。
「誠一郎くん……ワシは、やはり警察に届け出てみようと思う」
社長が思いつめた表情で、そう呟いた。
このやり口は、もはや脅迫のレベルだ。ここまでの事態なら警察も何か手を打ってくれるかもしれない。
とにかく、今はどんな対策でも積極的に打っていくべきだ。
時間を置けば、状況はさらに悪くなる可能性が高い。
ユルサナイ、あの狂気が昴ちゃんに向けられていると思うと、ゾッとする。
まして、あれを昴ちゃん本人に見せて悦に入るような相手だ、何をやりだすか予想もつかない。
「そうですね、それが良いと思います。警察の方はよろしくお願いします。僕もその間に他の対策を考えます」
「そうか、何かできそうな事があれば遠慮なく言ってくれ」
「わかりました」
念のために、さっきの動画はコピーを取り、問題のUSBメモリと手紙は社長に預ける。
社長は、それを持って足早に出かけていった。
一人になった事務所の中で、僕は憎々しげにパソコンの画面を睨みつけた。
どうして、昴ちゃんばかりが、こんな目に……。
彼女が何をやったって言うんだ!
あの娘の素直な明るさに付け込んで好き勝手するなんて、許しがたい!
やり場の無い怒りで、握り締めた拳が大きく震えた。
だが、それを叩きつけるべき相手は、未だ顔もわからないのだ。
胸中に湧き上がってくる赤黒い感情は、脳髄まで支配してしまいそうだ。
くそ! 絶対に引きずり出して、自分のした事を後悔させてやる!
しかし、怒りに任せてやみくもに行動しても判断を誤るだけだ。
こんな時こそ冷静に考えなければ。
僕は胸に手を当てて、深呼吸する。
高鳴っていた鼓動が徐々に落ち着いて行き、それにつれて頭も少し冷えてきたようだ。
まずは、やつの手口を暴く必要があるな。
どうやって部屋を覗いているのかは、まだわからない。
だが、録画を後で見るよりは、リアルタイムで見たいと考えるはずだ。
となれば、盗撮を行っている時間帯には、近くにストーカー本人が潜んでいる可能性が高い。
そこを押さえられれば、やつの正体がわかるかもしれない。
あと、手紙の方にも手掛かりがありそうだな。
ストーカーは、この期に及んでも、昴ちゃんからのリアクションを待っている。
これは不幸中の幸いだ。
ともすれば決定的な証拠になりかねないような動画を送りつけてくる大胆さ。
これはストーカーは、自分が絶対見つからないと思っている事を意味する。
であれば、わざわざ手口を変える必要は無いのだから、次も同じ方法である可能性は極めて高い。
そこを逆手に取れれば、状況を打破できる一手に十分なりうる。
ただ、一つ気になっている事もある。
最初は、尾行なんて大胆な手を使っておきながら、前回の盗聴といい、今回の盗撮といい、どうもやり方が慎重になっているきらいがある。
単に昴ちゃんの前に顔を出す自信が無いだけなのか……それとも何か他の理由があるのか……。
これ以上、ここで考えていても仕方ないな。
実際に現場に行ってみたら何かわかるかもしれない。
僕は工場を出て、社長の自宅へと向かった。
「昴ちゃんの部屋は……この上か」
社長宅をぐるっと回った裏手、二階に大きな窓が見える。
窓の下は、小さな庭みたいになっていて、園芸用の砂利が敷かれている。
これなら、人が踏み込めば音もするし足跡も残る。
ここまで侵入されたわけでは無さそうだな。
例の動画は、見上げる感じでは無く、窓に対して水平に撮られていた。
しかもあの鮮明さは、かなり近くから撮っているものだと思っていたが、庭に入らずにどんな方法を使ったのだろう。
こうして下から眺めてみると、かなりの高さがある。
台やはしごを持ち込んだ形跡も無いし、自撮り棒を伸ばして届くような高さでは無い。
辺りの電柱にでもよじ登れば届くかもしれないが、事故を防ぐなどの理由で低いところの足場は取り外されている。
とても素人に登れるようにはできていないし、仮に登れたとしてもあんなにブレも無く撮影できるとも思えない。
他に思いつく方法としては、どこかの建物から望遠で狙うことだが、こちらを覗けそうな建物といっても軽く二、三十メートルは離れていそうだ。
あんな遠くからブラインドカーテンの隙間なんて、そう都合よく狙えるものなんだろうか?
どうも、どれも決め手に欠けるような気がする。
何か見落としがありそうだが、それがどこにあるのかわからない。
何か考えをまとめるための指針になるような物が必要だ。
誰か、カメラや機械に詳しい人物……。
そういえば一人、心当たりがあるな。
できれば、あまり深入りはしたくない相手だが、他に頼れるアテは思いつかない。
ここは腹を括るしかなさそうだ。
僕は動画のコピーを用意すると、電気街へと向かった。
「確かこの道で良かったはずだな……」
相変わらずゴミゴミした裏通りを、記憶を頼りに歩く。
あちこち迷いながらも何とか辿り着いたジンの店は、以前にも増して物が溢れかえっている。
スニフに案内してもらったことが無ければ、倉庫か何かなのだろうと思って通り過ぎるところだ。
僕は、ポケットの中のUSBメモリを確認して、店へと足を踏み入れた。
「おう、また来たのか。挨拶も無しなんて、無礼なやつだな」
ジンは前に来たときと同じ格好で、奥のカウンタで機械いじりをしていた。
「え? あ、すみません。失礼します」
「冗談だ、気にすんな。で、例の件は解決したか?」
「ええ、おかげさまで盗聴器は見つかりました」
「そいつぁ良かったな」
喋っている間も、ジンはこちらと目も合わせようとしない。
まったく、無礼なのはどっちなんだか。
あまり気分は良くないが、余計な事を言って機嫌を損ねるわけにもいかない。
「そんなら今日は何だ? 別件か?」
「はい、実は相談がありまして……」
これまでの経緯をかいつまんで説明していった。
黙って話を聞くジンの顔が、徐々に険しくなっていく。
「とんでもねえクソ野郎だな。で、その盗撮動画とやらは持ってきてるのか?」
「はい、これに入ってます」
「ちょっと貸しな」
僕の取り出したUSBメモリを受け取ったジンは、カウンターの端に置いてあるノートパソコンを乱暴に引っぱってくる。
見たことの無いロゴのシールがベタベタ貼られた、いかにも年季が入ってそうなやつだ。
そのパソコンに躊躇無くUSBメモリを挿し込み、動画ファイルを再生し始める。
一目見た瞬間、ジンの顔に侮蔑と嫌悪の色が浮かんだ。
「悪趣味な野郎だ、こいつぁちょっと許せねえな」
「対策を考えたいのですが、手口がわからなくて……」
「いま考えてるところだ。ちょっと黙ってろ」
ジンは、真剣そのものの表情で動画を見ている。
コマ送り、逆再生、拡大してまた再生。
まるで獲物を狙う猛禽のような目線で何度も動画を見直すジンからは、一瞬の違和感すらも見逃すまいとする並々ならぬ気迫が伝わってくる。
「この部屋の近くに登れるような場所は無いんだな?」
「はい、確認した限りでは見当たりませんでした」
「なら間違いねえ、こいつはドローンのカメラが使われてる」
動画を一旦止めると、確信を持って言い切るジン。
ドローンというと、あの小型のヘリコプターのような、あれか!
「ここのシーンだ、よく見てみろ、カメラが少しずつ回り込んでいるのがわかるか?」
ジンが画像を拡大して、ゆっくりとコマ送りで再生した。
ブラインドの隙間を狙っている場面だ。
良く見ると、確かに中心に捉えた窓は動かず、カメラの方が移動している。
それにしても、よもやカメラが空を飛んできているとは、完全に想像の外だった。
「普通、ドローン盗撮といえば、もっと高い所から真下を狙うもんなんだが、室内を覗くのに使うとは、なかなか怖いもの知らずだな」
「そうなんですか?」
「ああ、ドローンの色が黒か濃い青なら視認は難しいだろうが、なにしろ飛行音が大きいんだ。嬢ちゃんは部屋の中でテレビを見てるから気づかないかもしれんが、外からなら相当目立つはずなんだが」
一時停止させた画像を睨みつけながら、顎鬚を撫でるジン。
ジンには言っていないが、キツネ男たちの地上げの影響で、あの辺りは以前よりかなり人通りが少ない。
まして通りに面した表側では無く裏手だ。
さらに深夜となれば、とても通行人は期待できない。
おそらくストーカーも、その辺は折り込み済みなのだろう。
「で、聞きたいのは対策法だったな。この鮮明な映像に加えてブレが殆ど無い。となれば、使っているドローンはそこらの玩具みたいな物では無く、もっと本格的なやつだ。こいつは所持するのに航空法による登録が必要になる」
「つまり、そう簡単に置いて逃げるわけにはいかないということですか?」
「その通りだ。盗撮もだが、それ以前に夜の住宅街でドローンを飛ばすだけでも犯罪だ。こんなわかりやすい証拠は置いていくわけにはいかない」
ドローンをストーカー本人が操縦していて、しかもそれが所有者登録で紐付いているのなら、当然そうなる。
「だが、機体だけ押さえても、知恵の回る奴だと、盗難されただの理由をつけて言い逃れられちまう。やはり操縦してる所を現行犯。これが一番確実だ」
車の事故や違反なんかでも、たまに聞く話だ。
寺島圭司も、逃走中に停められていなければ同じ手を使うつもりだったのかもしれない。
昴ちゃんを、あんな目に遭わせて置いて、そんな有耶無耶が許されてなるものか。
「ドローンが操縦者の元に戻るときに、後を追いかけるのはどうですか?」
「ちゃんと追えればな。なにせドローンの中には最高速度が自動車並みのやつもある。しかも向こうは屋根の上を飛べるんだ。足元も覚束ない夜間に見失えずに追えると思うか?」
「だったら、どうしろって言うんですか!」
勿体つけた言い方に、いいかげん腹が立ってきた。
ジンは顔見知りじゃ無いかもしれないが、実際に被害を被っている娘が居るんだぞ。
手段があるなら、さっさと教えろ!
「そうイキるなって。ここで取引だ、こっちも商売だからな」
「取引?」
「ああ、俺はこの動画を見て手口の情報をくれてやった。ここまではサービスしてやる。で、こいつを捕まえる良い手があるんだが、聞くかい?」
ジンが思わせぶりに、人差し指を一本立てる。
表情からいっても、かなり確実性の高い方法のようだ。
ならば、金がかかろうが聞かない手は無い。
僕は、この後に続く言葉を待って、息を呑む。
僕の沈黙を肯定と受け取ったか、ジンが返事を待たずに話し始めた。
「下衆なネズミを捕まえるために、丁度良い装置があるんだ。部品はあるんだが、組み立てと調整がちょっと特殊でここでは作れねえ。そこでだ、俺が図面を引いてやるから、それらを一式買い取ってくれ」
そういえば、さっき事情を説明した時に、僕が工場勤務だって話もしたし、おおよその場所も説明した。
もしかすると、ジンは社長の工場を知っていて、そこなら組み立てが可能だと判断したのかもしれない。
残る問題は、その装置が本当に対策として有効なのかどうか。
これが確認できなければ、取引の意味が無い。
「わかりました。ただこちらとしても、それを鵜呑みにするには判断材料が不足しています。どういった物かの説明を聞いた上で承諾するかを判断したいと思います」
「当然の要求だな。その安易に人を信用しない姿勢は嫌いじゃねぇ。心配しなくても、これからたっぷり説明してやるよ」
ジンは、カウンターの上に大きな製図用紙を広げると、全く迷いも無く図面を引き始める。
その、あまりの速さと正確さに、僕は舌を巻く。
「ドローンってなぁ、操縦者が下手くそで機体を見失った時に備えて、コントローラーからの信号が受信できなくなった時に、自動で元の場所に帰還する機能がついてんだ」
話ながらも、ジンの手は全く休まずに図面を引き続けている。
完成形が全て頭の中に入ってるんだろうか?
ちょっと真似できそうも無い腕前だ。
「一般のドローンが使ってる周波数帯には、いくつかのパターンがあるからな。それをこの装置で拾って妨害してやるわけだ。帰還モードなら真っ直ぐ戻るだけで攪乱されないし最高速度も出ない。闇雲に追いかけるよりは、遥かに楽なはずだ」
ジンが書き終えた図面を丸めて筒状にすると、それを軽く振って見せる。
「ここで作れない理由は単純。こいつは機能はシンプルなんだが調整が難しい。発信する電波と収束率に絶妙なバランス感覚が居る。ここにある機材ではちょっと手に余るってわけだ」
「見せてもらっても良いですか?」
「ああ、いいぜ」
手渡された図面を見てはみたが、専門的な知識が無いせいか、何が書いてあるかさっぱりわからないな。
ただ、日がな一日、機械をいじってそうなジンが言うくらいだ、相当難しいのだろう。
だが、ジンは動画を見て、わかりやすいほどストーカーに対して嫌悪感を露にした。
ならば、この提案が実現不可能だというのは考え難い。
社長は見た目によらず、細かい部品を扱うのが上手い。
それに、図面の端に列挙された型番は、帳簿なんかで見た事がある物が、かなり混じっている。
これなら社長が見れば、組み立てられるに違い無い。
「わかりました、買いましょう」
僕が承諾すると、ジンは親指を立て、ヤニに塗れた黄色い歯を見せた。
方針が決まったのなら、一刻の猶予も無い。
僕は、ジンから図面と主要な部品を受け取り、工場への帰路を急ぐ。
社長は既に戻って来ていたが、疲れたような表情でソファに一人うなだれていた。
「ただいま戻りました」
「誠一郎くんか、おつかれさん」
遠慮がちに声をかけてみたが、やはり覇気が無い。
結果が芳しくなかったのだろうか。
「社長……」
「ああ、すまん。警察というのは、肝心な時には、全く役に立たないんだな」
やはりそうか。
社長が言うには、書類上では受理してもらえたものの、具体的な方策としては周辺のパトロールを増やす程度だったらしい。
やはりストーカーの正体が掴めていないのが致命的で、対応が限られる。
実際に被害が出ていないうちは捜査もできないので、本人と関係者は自衛に努めるようにと言い含められてきたらしい。
自衛程度では手に負えないから相談に行っているというのに、何て言い草だ。
理屈としては警察の言い分もわからなくは無いが、これでは危害が加えられるまで手出しできないと言ってるも同然ではないか。
そんな事になってから、おっとり刀で駆けつけたところで、何の役に立つというのか。
やはり、僕らで何とかする他は無さそうだ。
「それで、誠一郎くんの方はどうだった? なにやら荷物を抱えてるようだが」
「実は社長にお願いがありまして……」
ジンとの話を大雑把に要点だけ説明する。
最初は不審がっていた社長の表情が、驚きに変わっていく。
「というわけで、社長に組み立てと調整をお願いできないかと」
「なるほどドローンか……対策としては悪く無さそうだが、まずは図面を確認するところからだな」
希望を見い出した社長は、見違えるほどのやる気を見せて僕から図面を受け取る。
広げて精査している視線は、熟練した職人のそれであった。
僕は、緊張しながら社長の返事を待った。
社長の腕は信頼している。
だが、ジンの渡して来た図面がどれほど難しいのか、僕には見当もつかない。
もしここで、社長が自分の手にも余ると言い出したら、この作戦は頓挫する。
真剣な目で図面上の回路を追っていた社長が、大きく頷いた。
「なるほど、ドローンを電波の網にかけるような感じか。大体わかったぞ」
「大丈夫そうですか?」
「ワシを誰だと思っとる。この設計図より完璧に仕上げてやるわい」
ドンと一つ胸を叩いてみせる社長。
これで希望が見えてきた。
ストーカーのやつめ、今度こそ目に物見せてやるぞ!
「さあ忙しくなるぞ。誠一郎くん手を貸してくれるか」
「はい! できる事でしたら、なんなりと」
早速、作業場に移動して部品を並べて確認する。
いざ作業が始まると、熟練の社長に比べて、僕はやれる事がとても少ない。
それでも僕らは食事も忘れて作業に没頭した。
装置は完成し、無事動作テストも終わった、その日の深夜。
社長と僕は自宅の裏手、昴ちゃんの部屋の窓が見える位置に身を潜めていた。
僕は目立たぬように、黒っぽいスエットに着替え、手にはしっかりと例の装置を握り締めている。
隣では、社長がハチマキ、懐中電灯、手にはバットと完全装備で控えていた。
本人は至って真面目なのだが、その体型から、どうにもコミカルなイメージが拭えない。
「今夜は来ると思うか?」
「わかりません……ですが、昴ちゃんが手紙と映像を見たなら、何らかのリアクションを起こすだろうと考えるはずです。それを見たいがために今夜来る可能性は高いと思います」
僕らが装置の完成を急いだのは、まさにここだった。
日を置けば、その分ストーカーの行動が読みづらくなる。
あくまで推測に過ぎない。
だが、来るなら今夜。そんな予感がしていた。
「いずれにしても、早く昴をこんなことから解放してやりたいもんだ」
手にしたバットを握り直す社長。
それは、僕もまったく同じ気持ちだ。
こんな理不尽な目に遭うのは、もうたくさんだ。
『同感だな。あの変態野郎には、きっちり報いを受けてもらわないとな』
(二度とこんな事したくならないようにな!)
『その意気だ! 一発かましてやるなら任せときな!』
(お前は、毎回そればっかりだな)
思わず苦笑いが出るが、今回ばかりは【オレ】の言葉が頼もしい。
ストーカーと対峙することがあれば、いざという時には【オレ】の力が必要になるかもしれない。
とにかく、件のドローンが現れなければ始まらない。
刻一刻と夜が更けていく中、僕らはひたすら待ち続けた。
そうして、そろそろ日も変わろうという頃だった。
明かりの届かぬ暗がりに紛れて、何かが近づいて来ている気がした。
僕の全身に緊張が走る。
暗闇に慣れた目が、まるで空中を滑るように移動して来る物体を捉えた。
迷う事無く真っ直ぐにこちらに飛んできたのは、真っ黒に塗られたドローンだった。
「社長……来ました」
動画が無音だったということはマイクは付いていないのだろうが、念のため声を潜める。
「む、どこだ」
「あそこです。窓にゆっくり近付いてます」
指差す先に目をこらす社長。
ようやく見つけた社長の表情が、不審に彩られる。
「あれか……しかし驚いたな。あんな静かなドローンがあるとは」
そういえば、ジンもドローンは飛行音が大きいと言っていたな。
だが、いま飛んできている物は音がとても小さい。
たぶん昼間の生活音に紛れたら聞こえなくなるのではないだろうか。
ある程度、高さがあるのを差し引いても、これでは部屋の中からでは気づきようが無い。
「静音化が進んでいるとは聞いていたが、あれだけ静かに飛ぶタイプが個人で入手できるのか」
社長が、半ば感心したようにドローンを見上げている。
ドローンは、窓から数メートル離れた位置で、ゆっくりと静止した。
まるで誰かが直接覗き込んでいるかのように、高さや位置を微妙に変えるドローン。
その不躾とも言える挙動に、たまらない嫌悪感がこみ上げてきた。
閉じられたブラインドカーテンから漏れる明かり。
昴ちゃんは、そこに居るのか、いま何をしているのか。
今すぐ飛び出したくなるような焦燥感に駆られる。
これ以上、精神的な負担をかけたくないという想いから、盗撮の話は昴ちゃんには話していない。
社長と二人、散々迷った結果なのだが、この光景を見ていると間違いだったのではないかと後悔の念が湧いてくる。
僕らが息を潜めて見守る中、ベストの位置が決まったのか、ドローンが動きを停止してホバリングの状態になった。
「……誠一郎くん」
「はい」
ドローンを確実に捉えるには、動きを止めてからの方が確実だ。
社長の指示に従い、僕は装置のアンテナをドローンに向けて、スイッチを入れた。
「反応があれば、挙動に変化があるはずだ。見逃さんようにな」
僕は無言で頷くと、装置に取り付けられたダイアルを慎重に回していく。
これによって発振される周波数が変わる仕組みだ。
そして、この装置は出力が非常に大きいため、万が一を考え指向性を高くしてある。
当然、有効範囲が狭いのでドローンをしっかりと狙ったまま操作しなければならない。
早く見つけなければならないが、操作は慎重を期する。
その中で、目に見えない物を探り当てるという作業は、こんなにもじれったいものなのか。
永遠にも思えるような数分間。
ふと、空中で静止していたドローンが小さく揺れたような気がした。
ここか!
固唾を飲んで様子を見る。
ややあって、ドローンがゆっくりと旋回を開始した。
「追うぞ! 誠一郎くん!」
「はい!」
社長に続いて、物陰から飛び出した。
ストーカーは今頃、急に操作ができなくなって慌てふためいているに違いない!
今がチャンスだ! 今度こそストーカーの正体を暴いてやる!
だが、不意に嫌な予感に襲われ、僕の足が止まる。
……本当にそうか?
今の今まで見落としていた、もう一つの可能性。
万が一があった場合の危険性が高過ぎる。
「社長! まってください!」
「急にどうした! 急がないとドローンを見失うぞ!」
社長の言う通り、こうしている間にもドローンは移動を開始している。
もはや迷っている余裕は無い。
「社長! 残って、家の方を警戒してください!」
「家? どういうことだ、意味がわからんぞ」
「ストーカーは既にドローンが操作不能な事に気づいてるでしょう。冷静にドローンの回収を考えていれば良いですが、衝動的に押し入って昴ちゃんを連れ去る可能性があります。奥さんと昴ちゃんだけでは、それに抵抗できません!」
それを聞いた社長が、まともに顔色を変えた。
可能性としては薄いかもしれない。
だが、警戒しておくに越したことは無い。
「僕はこのままドローンを追います! 警察に通報したら、家に不審な人物が入ってこないよう注意してください!」
「わかった! 誠一郎くんもくれぐれも危険な真似はするなよ!」
「気をつけます!」
社長が自宅の玄関に向けて走っていくのを確認し、僕はドローンを追う。
少々時間を食ったが、幸運な事にドローンはまだ操作不能のようで、一定のスピードで真っ直ぐ飛んでいる。
追いながらだとアンテナの先が定まらないが、ここまで来たらもう外れないよう祈るほかは無い。
ゆっくりと飛行するドローンは、高度を下げ、やがて曲がり角の向こうに消えた。
操縦者は、この奥だろうか。
僕は弾む息を整え、なるべく足音を立てないように曲がり角の先を確認する。
街灯の頼りない明かりに照らされた人影がひとつ。
以前に尾行された奴と雰囲気が似ている気がする。
奴が、着陸したドローンを拾い上げるのを確認し、僕は曲がり角から飛び出した。
「それを操縦していたのは、お前か!」
その声に驚いたのか、びくっと身体を一つ震わせ、奴がゆっくりとこちらを振り向く。
深く被っていたフードが、薄明かりの中で後ろへと落ちた。
「……なんだお前」
長髪というよりは、ただ伸ばし放題にしただけの、ぼさぼさの髪。
目の下には、くっきりと隈が浮かんでいる。
半開きにされた口。
だが、何より恐怖を感じたのは、その目に宿る光だった。
思考も感情も読み取れず、ただただ狂気のみが伝わってくる。
意思の疎通など到底望めない、まるで別種の生き物を見るような感覚だ。
「その声……昴の隣に……イライラする……そうか、お前がタダノだな」
やはり間違いない。
あの夜、僕らを付け回していたのも。
昴ちゃんのスマホに盗聴器を仕掛けたのも。
自分勝手な手紙を送りつけて苦しめたのも。
全て、こいつの仕業だ!
あまりの異質さに気圧されそうになる。
奴が、どんな反応をするのか、全く予想ができない。
だが、ここで取り逃がせば、事態がもっと悪くなることは明白だ。
それだけは避けなくては!
「盗撮は犯罪だ、昴ちゃんも迷惑している。彼女のためを思うなら、やめてくれ」
「気安く彼女とか言うな! お前こそボクと昴の間に割り込んでくるのは止めろ!」
思わず言葉に詰まる。
こいつ、自分が何をやっているのかすら理解していないのか?
犯罪行為なんだぞ?
「昴ちゃんは、お前が誰なのか、わからないと言っているぞ。何かの間違いじゃないのか?」
「わからないだって? 何をバカなことを。ボクらはあの時たしかに誓い合ったんだ」
奴の言っている事が、まるで理解できない。
僕が知らない何かがあるのか? それとも一方的な勘違いか何かか?
僕の中に迷いが生まれる。
奴は、酔ったような足取りで、ふらりと一歩踏み出した。
「そうか……きっとまだ思い出せないだけなんだ。会えば必ずわかる。ボクはここにいるって教えてあげなきゃ」
呂律の怪しい口調で、ぶつぶつと呟き続けるストーカー。
得体の知れない恐怖。
粘りつくような嫌悪感。
絶対に、こいつを昴ちゃんに近づけてはいけない。
今まで感じたことの無い危機感の中で、そう確信する。
「そうだ、タダノ。お前にも教えてやろう。遠い昔のことだ」
「昔? 子どもの頃のことか?」
「違う、前世の話だ」
奴が、いきなり突拍子も無い事を語りだした。
前……世……?
「さる王国の姫と騎士だった、ボクと昴は悲恋の末、ついに結ばれる事は無かった。その時に誓い合ったんだ、生まれ変わったら必ず探し出すと!」
奴が、両手を広げ、感極まったような大声を上げた。
何を言ってるんだ、こいつは?
「初めて見た時に、すぐにわかった。優しくて可憐で、最後に見た時のまま。彼女こそ、ボクが探していた結ばれるべきプリンセス!」
ドクンと心臓が大きく鳴った。
そんな自分勝手な世迷言のために……
握り締めた拳が、わなわなと震える。
「わかったか! 昴を惑わせ、ボクらの邪魔をし、怖がらせているのは、お前だタダノ!」
一方的に欲望を押し付けて!
昴ちゃんを傷つけ!
それを悪い事だとすら思わない!
キツネ男のやり方は最低だったが、まだ話をすることもできた。
スニフやジンは信用が置けないが、利害が一致すれば協力もできた。
だが、こいつだけは理解できない!
いや、理解したくない!
『ユ ル セ ル モ ノ カ !』
(ユ ル セ ル モ ノ カ !)
内なる叫びが、嵐となって爆発した!
怒りに任せて駆け寄ると、ストーカーの胸倉を掴む。
「貴様の勝手な妄想に昴ちゃんを巻き込むな!」
こいつだけは! こいつだけは絶対に許さん!
貴様に付け回されて、昴ちゃんがどんなに怖かったか! どんなに辛かったか!
それを言うに事欠いて、前世からの因縁だと!
「ふざけるのもいい加減にしろ!」
僕は相手を刺し貫く勢いで睨みつけた。
だが、ストーカーは表情一つ変えず、動じる様子も無い。
「ふん、こんな脅しにボクが屈するものか! ボクは昴を迎えに行くんだ!」
「まだ言うか!」
怒りのあまり、言葉がうまく出てこない。
今まで積もった物をぶつけるように、空いている右拳を奴めがけて振りぬいた。
勢いで胸倉を掴んでいた手が外れ、奴は無様に尻もちをつく。
「こ……このボクに暴力を振るったな! 野蛮人め! 当て馬のくせに!」
殴られた頬を押さえながら、奴がありったけの罵詈雑言を投げつけてくる。
「後悔させてやる! 謝ったってもう遅いからな! おい、出番だぞ!」
後ろの暗がりに向かって乱暴に叫ぶストーカー。
まずい! 一人じゃなかったのか!
ここで、こいつに逃げられたら、取り返しのつかない事になる。
だが、奴の叫んだ方からは、誰も姿を現さない。
ストーカーの顔から、薄ら笑いが消えた。、
「なんだよ! いつもボクの邪魔ばかりしてる癖に、こんな時だけ居ないのか!」
ストーカーが、ゆっくりと立ち上がった。
「なんだよ……みんなボクをバカにして……。許さない……ユルサナイゾ!」
奴が、胸元に手を突っ込み、何かを取り出した。
手に握られたそれが、頼りない街路灯の明かりを反射して、ギラリと凶悪な光を放つ。
ナイフだ!
しかも、そこらのホームセンターで売っているようなチャチな物じゃない。
テレビでしか見たことの無い、軍用の厚みのある大きなやつだ!
冗談じゃない、あんなので刺されたら、命にかかわるぞ。
ひとまず離れなければ。
頭では分かっていても、足が竦んで一歩も動けない。
「キエテシマエ!」
叫び声を上げながら、奴がナイフを振り上げた。
まずい!
意識が、鋭いナイフの刃に吸い寄せられて立ち尽くすことしかできない。
『ボケっとしてんじゃねえ! 動け!』
頭の中に叩きつけられる【オレ】の声。
驚いた身体が、反射的に一歩だけ動く。
たった今まで居たであろう場所を、ナイフの刃先が通り過ぎていった。
勢い余ってたたらを踏んだストーカーが、ゆっくりとこちらを振り返った。
引きつったような笑み、完全に逆上している。
逃げるか? いやダメだ、ここで僕が逃げたら昴ちゃんが危ない。
「ボクの邪魔をするアクマめ! 思い知らせてやる!」
ストーカーが再びナイフを振り上げた。
『見てられねぇ! 代われ!』
再び突進してきたストーカーがナイフを振り下ろす。
オレは、ロクに狙いもつけられていないそれをかわして、逆に背後から襲い掛かった。
ナイフを持った右手と首元を押さえつけ、傍の電柱目掛けて放り出してやる。
何も出来ずに電柱に頭を打ったストーカーは、そのまま仰向けに引っくり返った。
どうやら、完全に気を失っているようだ。
『手間かけさせやがって。しっかし、どっから手に入れてきたんだ、こんな大層な物』
オレはストーカーの手から零れ落ちたナイフを拾い上げた。
とりあえずの危機が去り、気持ちが落ち着いてくるにつれ、疑問が湧いてくる。
ストーカーには仲間が居るようだ。先ほど呼びつけようとしたのはハッタリではあるまい。
しかし、この大事な時に一緒に居らず、しかも邪魔をすると言っていることから、あまり仲の良い相手では無いようだ。
そして、社長も驚くほど高性能なドローンと、この仰々(ぎょうぎょう)しいナイフ。
『出どころに興味はあるが、今はそれどころじゃねぇな。さっさとトドメを刺しちまえ』
考えにふけっていた僕は、急に話を振られて驚いた。
同時に、僕の右手に、ずっしりとした感触が伝わってくる。
いつのまにか、【オレ】はいつもの位置で、役目は終わりとばかりに大あくびをしていた。
ストーカーは、未だ気が付く様子は無い。
握りしめた右手のナイフが、さっきより重さを増した気がした。
『どうした? 早くしないと目を覚ますぜ?』
僅かな苛立ちを含ませたような、【オレ】の声。
殺したいほど憎んでいた。
しかし、奴の心臓に刃を突き立てるのは、そう簡単な事では無い。
『警察に引き渡すなんて甘いこと考えてねぇだろうな? そんなものは問題を先延ばしにするだけだって、お前が一番良く知ってるんじゃねぇのかよ』
その通りだ。
何度も考えた事じゃないか。
仮にこいつを警察に引き渡したとして、その後はどうなる?
矯正施設か、刑務所か……どちらにしても長くて数年だろう。
最悪、さっきまでの言動から、責任能力を問えない可能性すらある。
接近禁止命令が出たところで、強制力も無ければ、監視してる人間が居るわけでもない。
無視して、昴ちゃんを攫われでもしたら、全てが終わる。
『断ち切るには、もうこれしか手はねぇぜ。あの娘が一生怯えながら暮らす事になっても構わねぇってのか?』
それだけは絶対にダメだ!
身体中に火がついたようだった。
社長にも、その家族にも、心穏やかに暮らして欲しい。
そのためには、こいつが邪魔なんだ!
ナイフを持った手に力がこもる。
覚悟を決めろ! こいつは生かしておくわけにはいかないんだ!
僕はもう、昴ちゃんの怯えた顔も、沈んだ顔も見たくない!
『刺した後は、ナイフをこいつの手に握らせておけ。目撃者は居ない。揉み合った末に誤って刺さったで通るぜ』
それはまさに、僕の背中を押す悪魔の一言だった。
ナイフには二人の指紋がべったりとついている。
僕らが争う声を聞いた人も居るかもしれなが、この暗がりだ、何をやっていたかまではわからないはずだ。
決定的なのは、このナイフが奴の持ち物である点だ。
話の持って行きようによっては正当防衛が成り立つのかもしれない。
僅かに残った逡巡を振り払う。
奴の胸をめがけて、ナイフを大きく振りかぶった。
その時、唐突に夜の闇が真っ赤に染まる。
断続的に明滅する赤い光。
遠くから響いてくる、けたたましいサイレン。
警察か!
単なるパトロールか、社長が呼んだものか、徐々に近付いている気がする。
『ち! やるなら早くしろ!』
露骨な焦りを見せる【オレ】の声。
ナイフを握りなおすと、ストーカーを見据えた。
社長の、昴ちゃんの、響子の顔が浮かんでは消える。
それをぶち壊す、ストーカーの哄笑。
これで終わりにするんだ。
驚くほど冷静になった頭で、僕は思い切りナイフを振り下ろした。




