帰還と構築
まもなく寝室へ戻るなり横になったものの、メロディは心なしか寝不足を感じながら翌日の朝を迎えた。心なしか思考が緩やかで瞼にわずかな熱がある感覚だった。しかし、言動に表せばいくら職務があるとはいえ侍女たちに止められかねない。心配を無碍にする罪悪感は抱えたくない、隠すのが最善だと認識していた。
支度を済ませるなり、彼女たちから距離を取るように子爵邸内を移動する。例外として、昨日の襲撃を理由に、フィリーだけは護衛を名乗り出てメロディの後ろに付き従う。幼少からの付き合いのためか、絶妙な距離を保っているため侍るのを拒否することも難しい。
気を引き締めたまま、書斎の鍵を開けてもらうため子爵家の執事を探しつつ、廊下を進んだ。
天井に手を触れさせるようにローガニスは両手を上げて体を伸ばしながら、離れへ向かっていた。昨日の朝と同じ場所で執事に声をかけて、書斎の鍵を受け取った。予期せぬ上司の訪問によって確認しきれていなかったところを観察するためだ。貴族令嬢の枠には収まりきらない少女だが、そのぶん、使用人たちの心配を促すのも得意だ。このために、イタズラを企図した子どものように襲撃の事実を自分から伝えない可能性も考慮して、わざわざローガニス自らヒストリア家の使用人全員に伝えてやったのだ。少なからず、わずかでも行動が制限されている期待があった。そうすれば代わりに、動きやすくなる。実際、書斎の鍵は執事が持っていた。先約がいない証左として受け取り、意気揚々と書斎を解錠して扉を押し開ける。
視界の両端に本棚、目の前には濃茶の執務机、脇には木箱と、その上に蓄音機が静置されている。視線が流れるのは、前子爵が亡くなったときに倒れていたという執務机の――
「やはり」
――咄嗟に携帯する拳銃に手を触れさせ、声が聞こえた方向を鋭く目視する。
次の瞬間、肩を下ろして軽くため息をついた。
「入室時はそちらへ視線が向くのだな」
扉から見て左側の本棚の端には、侍女をひとり連れた上司が佇んでいた。書斎の鍵を握りしめながら「おふたりとも気配を消すのがお上手で」肩をすくめてみせる。
「足音が聞こえたから」
「なんのためにそんなことを?」
「あなたは昨日も朝から書斎を気にしていたから」
「何故ではなく、どのようにを尋ねました」
「本当にわからないのか?」
朝から子どもの相手をしていられないと言わんばかりに両手を上げて降参した。必要があれば王城に戻ってからでも勝手に共有するだろうと予想をつけた。
「それで? 入室時の視線の向きは重要でしたか?」
「わからない。ただ、昨日とさきほど、わたくしも視線は入室して左側に引き寄せられた。これがわたくしだけなのか確認したかったんだ。そのためにわざわざ執事を連れてきて鍵を開けたもらった」
「まあ、そりゃあ、外開きかつ左開きですからね。体の向きは自然と傾きます」
「加えて、前子爵が倒れていたのも、あの辺りだから」
メロディはそう指摘しながら、右側の本棚前の、窓辺を指さした。自らの思考過程をふり返り、視線の流れを確認すると、何度か首肯した。
「おっしゃるとおりですね。あ。でしたら、ストラトスにも同じことさせます?」
「いや、不要だ。彼は資料の確認に尽力しているだろう?」
扉を観察しながら告げられ、安堵とともに「がんばってるとこ邪魔すんのはかわいそうですもんね」同意を示した。大した理由もなく体を動かすことを優先させるのに巻きこまれたことは片手に収まらない。自分はともかく、まだ職務に不慣れな後輩にまで飛び火させたくなかった。
「この扉、鍵が無ければ開かないのか?」
疑問を呈されたが、把握していなかった。一度退室したり再入室したり、鍵をかけて手を捻ってみたり軽く体当たりしてみたり、様々なことを試してから結論する。
「鍵は室内外どちらにしろ施錠にも解錠にも必要です。まあ、蹴り壊せる程度の強度です。試してみます?」
「どちらでも構わないけれど、あなたの収入が減」
「んじゃ、止めときまーす」
ひと言「そう」とだけつぶやくと、本棚の本を取りだして床に積み重ねる作業に戻った。その姿を確認し、ローガニスは制服のポケットに鍵を滑り込ませると確認事項に取り掛かった。
慎重に持ち上げた蓄音機を机に乗せて、台にされていた木箱を引きずらないよう移動させる。右側の、天板に傷があるほうの本棚の前まで持ってくる。自分の背より高い本棚の上を目指して、木箱を乗せようと持ち上げる。
ちょうど本棚の上の空間に木箱が滑りこむように収まった。天井に引っかかっていれば取り落としていたかもしれない。安心して押しこむと木箱の幅と本棚の奥行きがほとんど一致しているとわかった。
木箱の容器部分と蓋部分は何らかの金属板で縁取りされており、打掛錠がひとつ取り付けられている。錠前に多少の歪みは見られるが、経年に因るものとほぼ相違ないていど。開閉に鍵は不要のため貴重品の保管には不向きだろう。実際、大きなブランケットが入っているだけだった。
派出所に寄贈されていた〝エンディーポシ〟でも同じように木箱は本棚の上に乗せられた。実際に試してみたかったのは、どれほど正確な採寸のもとお人形遊びの舞台が整えられたのか確認しておきたかったからだ。これほど正確なら、本来の目的どおり、事件当日に何が行われたのか再現することも可能だろうと予想がつく。
木箱を降ろそうと傾けるが、天井に引っかかってしまい、床と並行を保ちながら取りだすのに若干苦労した。この調子であれば、木箱には鍵が必要な錠前は無いが、本棚上に置いておけばふたを開けられることは無いのだろう。
木箱を元に戻し、蓄音機を乗せた。
一方。
左側の本棚では、1段分すべての書籍を取りだし終えて頭から上半身を突っこむ上司の姿があった。
「え、何してるんすか」意味不明を通り越して冷静に尋ねると「確認したいことがあった」くぐもった声が返された。
「言ってくだされば俺やりますって」
「できないだろうから自分でやっているんだ」
「とりあえず、やめてもらえません? それ。書籍になりたいんですか?」
「当たらずも遠からずといったところだ」
「……待ってください、待ってください。本気じゃ、え、紙になりたいわけではないんでしょ? 違いますよね? 違っていただけます?」
本棚に膝を掛けようとしたところで、さすがに止めた。平然としている侍女へ視線で意見を求めるが、どうやら放任主義らしかった。
「そこ、そこに立ってください」
取りだされていた書籍をふたつの山にわけて積んでいく。完了後、どうだ、と言わんばかりに見つめた。
「わたくしの身長よりも少し低いくらいかしら」
「ぴったり詰められて並べられていたわけでないことを考慮しても、そうじゃないっすか。2、3冊分とか。そんくらいだと思います」
「なら、わたくしは本棚に膝を曲げれば入れるだろうか」
「そんなに試したいなら一番下の段でお試しいただけます? 落ちる心配してらんないので」
数秒後、提案を後悔しながら書籍の出し入れを手伝うことになった。
その最中、メロディはつぶやくように尋ねた。
「火事のことは知っている?」
「いつのですか?」
「前子爵の死亡から数日後」
「いえ、記憶にありませんね。どっかの何かに書いてました?」
「わたくしが確認したかぎりは記されていなかった」
「でしたら、どこで知りました?」
「現子爵から、昨夜」
「マジですか。よく怒られませんでしたね」
「なぜ?」
昨日のうちには、襲撃の件を言いつけてあった。ローガニスは不意に侍女へ視線を向けると「ああ、なるほど」仕方なさそうにつぶやく。ヒストリア家の使用人が主とどのように接しているのか、透き見した感覚だった。
「火事があったのに、憲兵らも把握してなかったんでしょうかねぇ」
問いを受けてメロディは一旦手を止めると窓際へ移動した。ローガニスもその後ろに続き、窓の外を眺める。
「あの木のそばの、あの建物の近くだと話してくれた。大事には至らなかったらしい」
「まあ、邸宅でも奥まったところですからね。部外者が易々と忍び込んで火をつけられるのか、疑問ですよね」
思ったことをそのまま口にすると、返答が滞った。視線を向けられたことに気づくなり取り繕いもせず「……そうだな」小さくつぶやいた。
何を考えているのか、確かめないでおいた。必要であれば自ら明かすのはいつものことだ。
作業に戻って本棚の1段分に膝を曲げればどうにか体を収められたのを確認する。
出るとき手を差し伸べると、
「ねえ。衛兵局に所属していたころ、朝から訓練していたのでしょう?」
まっすぐ見上げられ、ため息を飲みこんだ。まっすぐ見つめるわりには、紫水晶に迷いが滲み出ているのがよくわかる。
「前置き、ヘタクソの極みです。つまるところ、何をさせたいんです?」
「いいえ。怪我をするのが、わたくしかあなたか、どちらになるかまだ決」
「じゃあ自分がやるしかないでしょ。嫌ですよ、物理的に首が飛ぶの。髪と一緒、
まだ生やしときたいです」
「けれど……――」
言いよどんだ先の言葉に、目を見開く。
しかし、もう残り時間が少ない。
実際、最後の確かめたいことにつき合い終えると、帰還の時間までまもなくだった。
別室で熱心に資料を読みこんでいたストラトスに声をかけ、派出所の人間にいくつかのファイルと〝エンディーポシ〟の貸出を要請する。快い許可とともに車に積んで図書館へ移動した。
昨日の、件の資料を返すためだったのだが
「こちらには覚えがございません」
老婦人は困惑した様子で、メロディ、ローガニス、ストラトスを順に見つめる。
「3階の本棚の奥で見つけたのですが」
「蔵書は装丁がされた書籍だけですから、このような紙束をまとめたものは収めておりませんものでして……」
資料は、おそらくディオン・ブランザの肉筆だろう。事件資料あるいは科学資料として価値が高い可能性がある。捨て置く選択肢はない。持ち帰ってから扱いを決めることにした。
メロディはそのまま王城へまっすぐ帰還するが、ローガニスとストラトスは第9王立学園へ寄って前イフェスティオ子爵の論文や残されていればカルディアでの活動に関する資料を回収してくると言う。今朝早くに連絡したところ、早急な対応をしてくれたらしい。
王城に車両が到着したのは就業時間だったものの、半刻もしないうちに終業の鐘がなるころだった。
シリルは情報調査室に現れた上司に対して目を丸くしながら対応する。
「お疲れさまです。今日はすでに解散されているものだとばかり……」
「ひとつ手紙を書いたらまもなく退勤する。何か連絡は来たか?」
「城内には事前に出張による不在を通知していたため、明日以降いくつかあるかもしれません。その他では5分前に補佐官より、卒業生キュリロス・イフェスティオ氏の伝承文学史に関する卒業論文および歴史学カルディア古文書解析の資料を入手した旨を確認しました。それから、おそらく30分ほどで帰還するとのことです」
「承知した。ありがとう。ティルクーリ、件のご友人を呼んでほしい」
「あ、はい。えっ、今ですか?」
「今日である必要は無い。出来るだけ早く。彼の上司とともに」
矢継ぎ早かつ端的な内容に戸惑う彼に、シリルが「新しい情報ネタがあるとでもいえば来るよ」と助言した。
「わ、わかりました! 電話、かけてきます!!」
こけそうになりながら退室していく部下の背中へ「助かる」だけ告げると、メロディは2日振りに執務室へ入室して後ろ手に扉を閉めた。
ファイルも〝エンディーポシ〟も、他ふたりに任せているため、若干、手持ち無沙汰なきらいがあった。
他方、補佐官に退勤を待たせないためにも、済ませられることに取り掛かる。
襲撃の件もあり悩んだが、当初よりフラナリー伯爵にはブランザ博士に関して話す心算だった。結局、報告は欠かせないと思いなおし、翌日以降に時間を取ってもらえるよう書状を用意した。
それが完了してもなお終業まで余裕があった。
執務机に置いていた書類を手元に引き寄せる。出張前に学芸局から受け取った、歴史に関する資料だ。改めて目を通しながら内容を理解しなおす。
ファブロイアとは、かつてユーグルートのさらに東にあったラノンレイヴ王国時代の公爵位であり、今回の内容ではヴォルフラム・ローゼンシュティール伯爵の盟友だったイェレミアス・ファブロイアを指しているらしい。イェレミアスの父が早逝したため、友人だったヴォルフラムが息子をよく気にかけていたという。
帝国による侵略戦争時には北方戦域の砦を任され、ふたりの俊英が猛攻を凌ぎ切った。その功績のひとつとして、彼らが守った領域あるいはふたりのことが〝聖域〟と謳われて讃えられたほどだ。
また、研究が進められて11世紀後半から12世紀にかけて生きたとされる彼らだが、たまに13世紀や14世紀の公的文書にも登場するため本職の学者も扱いに困っているという。
11世紀、12世紀の英雄としてザラスシュトル・オヴィも謎多き人物だが、逸話が多くあり人物を想像しやすい。しかし、一般的に12世紀前後は資料が少なかったり真偽が曖昧だったりするため、この〝聖域〟に対するような内容が限界だと綴られて締めくくられていた。
感覚的には、今回の〝φ〟に限らず、長らく未解決とされている事件でも類似する状況は多々ある。
それでも、軍務省憲兵局に配属されていたころの経験や知識を活かしていくつもの案件を扱ってきた。対象は異なるが、試みていることは変わらない。
繰り返してきた。真相の探求を原動力にしているが、この繰り返しの根底には何があるだろう。少なくとも、アンスラクーホ研究員が話していたような、純粋な好奇心ではないとメロディは自覚している。だからこそ、皆を納得させられる論理を組み上げねばならない憂鬱はいつものことだった。
続きを考えていると、終業の鐘とほぼ同時に、数日前から予定していた酒席のために上司を早く帰らせたい補佐官に遮られた。




