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星と波とエレアの子守唄  作者: 視葭よみ
再考とレクイエム
70/145

厄介な研究者気質

 静謐。

 いつの間にか視線はカップの中へ落ちていた。茶褐色を軽く傾けると水面が揺れて、残像は白亜に取り残される。メロディは慎重に肺から空気を追い出すとともに目を閉じた……話を聞いてすっかり依頼を受けざるを得ない心境にさせられていると気づいていた。やりかたは、先日の国王夫妻と変わらない。ただ、今回は拒否する選択肢は残されている。残されているが……ふたたびフラナリー伯爵を見つめる。

 鋭さを帯びていると自覚するメロディに反して、伯爵は椅子の背に体を預けて穏やかな笑みを浮かべる。両手を尖塔のように組んで、言葉を続ける。


「このまま誤解されたままでも私は構いませんよ」


 あまりにもあからさまな言い様に「誤解ですか?」紫の瞳は険しさを増す。


「ええ。もちろん、純粋な興味から彼が残したと思われる研究資料を見つけてほしいと思っています。ただ、こちらはあくまでも付随的なもの……依頼の優先順位は中の上といったところですね。君なら言わずとも気づけるとは期待していますが、それが面倒であれば私の知りうる範囲で話しましょう。ああ、あくまでも私の主観にはなりますけれど」


「構いません。情報の取捨選択はこちらで行いますから、すべて残さずお話し願います」


 フラナリー伯爵は「心強いね」朗笑する。メロディは、誤解とやらが何を指しているのか、気を張った。


「問題は、彼の失踪後に発覚しました。もちろん、ブランザの失踪は学術界へ多大な損失をもたらす危惧はしていましたが、それとは別のことでね。仕事でなければ家庭のことだと予想はつくだろうけれど、正直、私は彼が引き起こした事態とは思えないのですよ。ただ、彼が望んではいなくとも事実、このような事態に陥っているのだから多少は、まあ、非が無くも無いと考えるのは妥当なのだろうね……」


 決まり悪そうに逡巡すると、ついに告げた。


「……浮気を、していたのでは無いかと」


「証拠があるのですか?」


「細君は頑なに話してくれませんが、あの様子では、おそらく」


「当該証拠を抹消するのが御依頼でしたら、明確にお断りします。有ったことを無かったことにはできません」


「さすがに、同じ男でも、そこまで博士の肩を持つことはしませんよ。夫人は生前の私の妻とも交流がありましたし、私だって親しくしていました。彼女の心労が蓄積し続けているのを放っておくことは避けたいのです。事実であれば、友のひとりとして、彼を見つけ出して妻子へ誠意ある謝罪をさせます」


 柔らかく目は細められたが、その奥にあるのは本気だった。メロディは伯爵の瞳に信頼を見た。

 おかげで補佐官に席を外させた理由にもおおよそ察しがついた。カハヴィを言いたくない言葉とともに喉の奥へ流しこむ。


「あいにく、博士夫妻に関する資料はこれから用意する手筈になります。ただいま取り扱っている事案との関係は現状、不明とだけお伝えします。ディオン・ブランザ博士の奥様のお名前を伺えますか?」


 フラナリー伯爵は手身近の書類を引き寄せて白衣の胸ポケットからペンを取りだすと「クラリス・ブランザ」つぶやきながら「Clarisse Blanzat」流麗に綴った。


「ユーグルートの言語ですね」


「そうだね。ダクティーリオスのアルファベットには名前の頭文字にあたるものが無いし、該当する音価も無い。夫人はずっとフォール文字で署名していますよ」


「夫人も移民ですか?」


「時期は異なりますが、そうですね。彼女の場合は経緯としては亡命に近いかな。彼女の祖父が親帝制派の領主だったためにイーギス=ミレッティア条約締結とともに王国民として引き受けたのです」


「革命のころの話ですか? わたくしが生まれる少し前の」


「そう、労働者革命によって帝朝が変わった年に結んだ条約」


「そうなりま、すと……?」


 綴りを眺めていると、不意に疑問を抱いた。

 家名の綴りから察するに、発音するなら「ブランザット」だろう。一方、古くからの友人の名を間違えて覚えているとは思えない。

 フラナリー伯爵は「さすがだね」軽く笑うと


「博士はね、愛妻家だったんだ。妻の名前から、国際基準単位を命名してしまうほどには」


「ブランザ氏がつけた名前ですね? 国際基準単位は……」


「そう、〝リース〟!」


 思案する表情は、別の意味で受け取られたらしい。心当たりはなかったが、曖昧に微笑んで首肯しておいた。あとで調べようと心に決めて、話を進める。


「そのような方が、浮気を?まして奥方に強く疑われるようなことをなさったのでしょうか」


「事実、クラリス夫人はディオンの失踪以上に憔悴しているように見えますね。今は息子が手助けしてどうにかなっているけれど……」


「ブランザ夫妻にはご令息がいらっしゃるのですね?」


「ああ、そうだよ。ヘンリー……いや、アンリ?ああ、そう、太陽だけれどHは読まないのだったよ――アンリ・ブランザ。一昨年くらいに卒業して、出版関係の職についているのだったかな」


「ご令息の就職先はわかりますか? 出版関係というのは」


「すまない、そこまでは」


「失礼しました。でしたら、こちらで調べます」


「出版が気になるのかな?」


「物語を広めるには口頭より書籍のほうが効率が良いですから」


「何かを秘めるには、文字は適しているだろうね」


「例えば、バルトロマイには何か特有の物語はありますか?」


「ユーグルートからの、という意味であれば……『眠りの紅花』や『宵闇行旅』かな。幼いころ娘たちがよく読んでいたけれど、生憎、私は内容を覚えていませんね。このあたりに関してはメテオロス現公爵殿に分があります」


「でしたら、機会があれば彼にも話を伺います。他には、そうですね、『ユーホルトの豆挽き』はご存知でしょうか?」


「ああ。迫害を受けた豆挽きが、持参したカハヴィの豆を挽き終わると同時に町に住む子どもたちを皆まとめて消し去ってしまうのだろう? フラナリー家に婿に入ってから子どものように聞かされて覚えてしまいましたね」


「【第6次大戦期エゼラフェル地域における未成年者強制徴兵計略に関する旧ピサラ王国の対処】において、11世紀末、終戦直前の皇国が強制徴兵年齢を未成年者にまで引き下げたことへの国民による糾弾が関係していると考察されています。著者は」


「ヴォルフラム・ローゼンシュティール伯爵――ユーグルート王国時代の軍人ですね。彼が、何か?」


「ユーグルートの文化に関して昏いので個人的に調べて理解を試みています。彼が著した論文を収集しているのですが、落丁が多く見られましたので気になりました」


「無理もありませんよ。彼が生きた時代はまさに混沌。堪えぬ戦乱の渦中では多くの国々が疲弊あるいは滅亡したのですからーー〝小夜風〟ザラスシュトル・オヴィや〝慈愛の魔王〟エリアスⅡ世を同時代に輩出したピサラ王国ですら滅びました。当時の資料に不足があるのは仕方のないことです。どのような調査を行なったか存じませんが、補足としてオヴィの手記には、ローゼンシュティールは〝五常剣星シンセーロトラバント〟と謳われる文武両道の男、と綴られています」


「ゆえに論文執筆も旺盛だったのでしょうか」


「それもあるだろうけれど、彼が背を預けていたとするイェレミアス・ファブロイアというのがいてね。ファブロイアは発想力に富んでいたがそれを文字にのこす忠実しい性質がありませんでした。代わりに、ローゼンシュティールがまとめていた……というのが、オヴィの観察ですね」


「ファブロイアというのは?」


「手記の中では、確か、閣下と敬称がつけられていたから相応の立場の男だったのだろうね。すまないが、私の専門ではありませんから教鞭は取れません。ローゼンシュティールとファブロイアについて、歴史班にまとめさせるかい?」


「そう……ですね。ええ、急ぎはしませんが」


「急がせなくとも彼らはすぐにまとめますよ。結局、好きなものを仕事にしている者の集いですから。君の名を出せば明日にでも用意できるでしょうね」


「無理を通すつもりはありません。強いて言えば今月中ですと助かります」


「承知した。私の秘書官は優秀でね。そのあたりの調整は得意です」


 すると、フラナリー伯爵は何か思い出したように立ち上がると、室内を歩き回る。


「おや? このあたりに置いていたような……いや、スウェラは左利きだから物を置くなら左側でしょうか? いえ、しかし、彼は気が利くからよく私に合わせてくれる。ならば置いたのは部屋の右側のはずですけれど」


「何かお探しですか?」


「ああ。ブランザからの手紙をいくつか持ってきたはずなのですが……」


 文書の山から手紙を探すらしい。大量の論文の中から当該論文を見つける離れの友人のような芸当はできないながらも、情報官としての職務は書類の作成と整理が専らである。

 そっとベストに着用している懐中時計を確認する。時間は限られている。このまま待つより見つける支援をしたほうが良いだろう。


「差し支えなければ、一緒にお探ししましょうか?」


「ああ、すまないね、ヒストリア伯。助かるよ。左利きの知見をもとによろしく頼みます」


「邸宅からお持ちしたなら、置いたのは閣下ですよね?」


「そうか、そうだね。ならば私が置いたらしい。ああ、そう、この部屋の雑多と混ぜてはならないと思って、それで…………」


「どうされたのでしょう?」


「どうしたのだろう?」


 メロディはカップをテーブルに静置すると何も言わず立ち上がった。ポケットに懐中時計の重さを感じつつ、室内を見渡す。

 書棚はあるが決して書類が収まりきっているわけではない。束にされているものも封筒に収められているらしいものもあるが、流れるように確認したかぎり、種類ごとに管理方法は揃えられている……書類は多いが、すべてが論文や研究資料とは限らないらしい。研究者としてではなく貴族としての仕事もいくつかはこの研究室で行っているらしい。


「お心当たりのある場所は他にありますか?」


「他に……鞄や引出しかな」


 フラナリー伯爵は独り言ちながらそれぞれ確認する。しかし、困ったように眉を顰めながら癖のない茶髪に右手を添える様子からは成果が上がらないことが伺われた。


「邸宅からは確かに持ち出されたのですね?」


「ああ。今朝伝えるのでは忘れるだろうから、昨日の時点で執事に言いつけてありました」


(昨日の時点で……ローガニスが面会を申し入れてまもなく思いつかれたのかしら)


 指摘はしなかったが、抜けているように見えても実際は思考は回転しているものだと再確認した。

 さもなければ貴族家当主など務まらないと納得して、質問を重ねる。


「出勤してからのことを教えてください」


「いつもどおり10時過ぎに到着したかな。それから取り組んでいる実験の結果を確認して考察を進めていたら、君との約束の時間になったと秘書官が伝えに来ました」


「白衣でご出勤ですか?」


「ん? ああ、いえ、この部屋に着いてすぐ着替えました。それくらいの規則なら守りますよ。ただ、詰襟はどうにも苦手でしてね。生地も固くて動きにくい。正直なところ得意ではありませんので」


「わたくしも同じです。部下の手前、着用はしていますが……。でしたら、閣下は出勤以降この部屋から出ていないということですね?」


「ええ、そうですね」


「手紙は、書面単体ですか? それとも、封筒に入れられていますか?」


「白い封筒に入っているはず。ああ、いくつかあったから、こういった大きめの茶封筒にまとめられていたのだったかな」


 伯爵はすぐそばの、一般的に持ち運びに適したノート程度の茶封筒を引き寄せた。「その封筒の内容は?」尋ねて確認してもらう。半分に折られた封筒から、紙を検める。


「新緑祭に関する申請書類ですね。おや、提出期限は春麗祭前でした」


 研究に身をささげている弊害として他の仕事はだいぶ疎かである――こういうことを考慮して、フラナリー伯爵をはじめとしたそういう方々には早めに書類を送付して余裕を見込んだ期限を知らせている――王妃付きのころ、長年手を焼かさ続けているらしい文官から聞いたことがある。実際、新緑祭に関する書類は慰霊の儀における〝諡名(おくりな)〟申請のみ。申請完了期限は5の月末日だ。

 伯爵は封筒に申請書を戻し、元の位置へ滑らせた。残念ながら、文官の健気な策略に効果があるかどうか判断はできない。メロディ自身、同様の行動をとる自覚はあるので気をつけねばならないと痛感した。


「懐中時計はどちらに?」


「ここに」


 白衣のポケットの内側から取り出す。思わず、どこに控えているのかと覗き込んだ。ポケット従来の収納場所ではなく、収納を用意するための構造上生まれた用途不明の箇所を臨時ポケットとしていたらしい。不思議な方だと再認識しつつ「ベストは着用されていらっしゃいませんね」目敏く指摘した。


「我々は筆記用具が持ち運べれば十分だ。短刀や拳銃を控えるのも徽章を飾り足りないのも軍務くらいだろう?」


「でしたら、学務の方々はポケットの数も限られていますよね。探しものが室内の心当たりのある場所には見当たらず鞄にも引き出しにも無いならば、取り出されていないと考えるのが自然でしょう。閣下は出勤時どのような着衣でしたか?」


 視線は自然とソファーの上ーー深緑のジャケットに集中する。

 フラナリー伯爵はソファーにかけていたジャケットのポケットを探って中をテーブルに並べていく。草花、紙屑、金属片、ペン......何でも出てくる。


「懐中時計は懐中にあるものですよ」


 封筒を折れば相応の厚さになる。他方、懐中時計も機構次第で薄さは保障されない......黄道貴族家当主ともなれば懐中時計はそれに該当する。したがって、仕立てられる服に関しては、使用の是非にかかわらず、内側に強度のあるマチポケットが用意されているものだ。メロディの指摘を受けて探す場所を変えると――茶封筒が姿を現した。


「ああ、これです。見事ですね、最初から知っていたようでした」


「推測のひとつにすぎません。件の手紙を拝見してもよろしいですか?」


「ただし、君になら。他者には見せないでもらいたいですね」


「もちろんです。依頼は引き受けますけれど、私的なことまで暴くつもりはございません」


 白手袋を着用してから礼とともに4つに折られた茶封筒を受け取った。封筒の中から丁寧に3通の封筒を取り出す。

 いずれも変哲ない白封筒の表には、鉛筆で6桁の数字975620が鉛筆で走り書きされた上からペンでFreccaと上書きされていた。裏には、664275570385と綴られており、3と0は上下反転していた。


Frecca(フリッカ)というのは?」


「発音は、フリッツァ、かな。彼から非公式の場ではそう呼ばれていました」


「初めて聞く言葉です。どのような意味でしょう?」


「さあ、なんだろう? 何か言っていたけれど、なにぶん、十数年前のことですから」


「無意味な文字列では無いのですね?でしたら、こちらで調べます。それよりも、この数列は?」


「気に入っていたのでは? 03が反転している理由は知らないけれど、よく使っていましたね」


「裏では7と5の間に空白がありますが、表にはありません」


「そうですね。別の意図があったのでしょうか」


 興味がないのだろう。事実を事実として認める以上の響きを持たないフラナリー伯爵の言葉に、研究者が抱く関心の差異の大きさを知った。


「最後にひとつ、よろしいでしょうか?」


「ええ。何でしょう?」


「さきほど、純粋な興味から彼が残したと思われる研究資料を見つけてほしい、とおっしゃいましたけれど。閣下はブランザ博士の研究にはご関心がおありだったのですね?」


「彼の無謀さには憧憬を抱いていましたから。私には無いものでした。友人である以上に、分野は異なれど学問を志す者同士として仲間意識はありました。関心や専門分野が異なるからこそ、相談を受けることもありましたね」


「博士が失踪前にも何らかの研究をしていたのは御存じなのですね? 研究資料といいますと、どのような内容なのですか?」


「それがわかれば苦労しないのだよね」


「概要はいかがでしょう? やはり、物理学に関するものでしょうか?」


「んー、どうだろう。私自身、気が向いたものを研究しているから、他者が何をどのように考えているのか把握していなくて……」


 そこまで何もかもわからないのになぜ興味を抱けたのか……メロディは思わず首をかしげてしまった。

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