苛烈な清廉
大人げなく話題を切ってから、何も言わずただ聞いていればよかったと思いなおし始めていた。しかし適当な言葉が見あたらず、メロディは落ち着かない心地だった。
「〝悲劇〟に見舞われた方々の中にも、悲しい恋は存在したのでしょうね」
ヴァシレイアは小さくつぶやいた。何かを言いたくて何を言おうか迷っているところに有り難い言葉だった。「彼らにこそ、〝妖精のイタズラ〟が必要ね」メロディも口調を合わせて応えた。
「〝イタズラ〟……といいますと、風の精霊に侍る彼らのですか?」
「ええ、そう。春の妖精や花の妖精だったかしら」
「【木ノ御成乃章】ですね! そちらはお読みになられましたか?」
「……思ったより厚くて」
「よろしければ、【ディア】の〝天楽〟のところでしたらお話しできますよ! ちょうど風の精霊との邂逅を含みますから、妖精たちもいます!」
「そ、それには及ばないわ。自分で読むから。わからないところがあったら、教えてくれる?」
「はい、もちろんです。いつでもお応えします」
メロディがヴァシレイアに礼を言う。
いつの間にか、イリスは講義中に疑問を抱いた生徒のように右手を高く上げていた。視線が合うと「〝妖精のイタズラ〟って、なあに?」と尋ねた。
「学園で習うと聞いたことがあるけれど」
「概要ならわかるよ。でも、妖精ってみんなイタズラするじゃん?」
ヴァシレイアへ「そうなの?」と、視線を向ける。彼女は肯定した。
「【ディア】に登場する妖精たちが特にイタズラ好きなだけで、妖精は基本的に英雄を助けたり邪魔したり、そのときの気分で好きなことをする幼子のような存在です。それに、風の精霊が司るのは〝気〟――目に見えないもの全般ですから、それには人の感情も含まれます。だからこそ、風の精霊に侍る妖精たちによる〝イタズラ〟は人に恋や愛を抱かせることができるんです」
「ヴァシレイアよく知ってるねー」
「この子、ムジーク伯爵令嬢よ?」
「え? あ。そっか。新緑祭の、最初に弓を射ってるのは……」
「父です。あの弓が〝天楽〟で、破魔の効果がある矢を空高く射るんです。〝風の供儀〟は、清い音を響かせることで精や先祖の霊に場所を知らせるためだと言われています」
「待ってね、待って。〝天楽〟って竪琴じゃなかった? 同じものなの?」
「一応、黄道貴族の家宝は実物だと言われてはいますよ。実際どうなのかまでは把握していませんが……〝創星神話〟は建国物語ですから、そうなのではないでしょうか。王家主催の式典のうち、新緑祭は精や先祖の霊のために執り行われるものであり、【ディア】で英雄が〝星鏡〟湖のほとり授けられる〝宝盾〟は、降りてきてくださった彼らを守るためです。実物でもそうでなくても、深い関係はあると思います。……すみません、話が逸れました」
「ううん、わかりやすかったよ。ありがとう! んで、まあ、なんとなくわかったんだけどさ。メル、ほんとに〝イタズラ〟が存在してるって仮定してるの?」
「旧き良きものは好みでしょう?」
「ちゃんと答えて」
「どちらかわからないから知りたいのよ。ゆえに、真実の愛を証明する上ではカリス卿の周囲に存在するとされる〝妖精のイタズラ〟の正体を解明する必要性があると思う。あまりにも非科学的なのに、実際に発生しているもの。そうだわ、外部要因か内部要因か確かめる実験はできるかしら?」
「まあ、無理じゃないかな。紙が届いたらオルトと一緒にやってみる!」
メロディは「ありがとう。わたくしも考えるわ」と言いつつ、室内にオルトの姿を探した。完全に我関せずを貫き通した彼は、窓辺で読書していた。
「ところでさ。明日も仕事でしょう? もう夜遅いよ? 夜更かしして良いの?」
「もう少しくらいなら」
直後、扉のノックに言葉を遮られた。「失礼いたします」と言って姿を見せたのはフィリーだった。
「お嬢様、お楽しみのところ申し訳ございません。もうお休みになられるお時間ですので参りました」
振り向くと、イリスは得意げな笑みを浮かべていた。
「足音、聞こえてたもん。オルトのより軽いから女性っぽいなって。歩幅が広くて速かったから、若い女性。ここに来るのってフィリーくらいだよ」
「ご明察ね」
「忙しい友人を持つといろんなことが気になるの。朝は家の仕事昼は城の仕事でしょ? しっかり寝ないと大きくなれないよー?」
「それは余計よ」
メロディはフィリーとともに退室することになり、ヴァシレイアは片づけを終えたら自室までイリスに送ってもらうことになった。メロディは最後まで自分がヴァシレイアを送ると渋ったが、3対1では分が悪かった。再三礼を言って、先に暇を告げた。
片付けを終えて、オルトもついて来ようとしたがイリスが固辞した。当時、ヴァシレイアが仮面で顔を隠した背の高い彼を前に泣き出した場にはイリスもいたのだ。
無事にティーセットを調理場に引き渡して、談笑しながら部屋へ向かう。
「『ネフェルティア皇妃』の内容、言いすぎだよ。あらすじっていうより、ほぼ概要だったじゃん。読んだことないけどわかりやすかったよ」
「それは良かったです。閣下はお忙しい方ですし、恋愛について関心が薄くていらっしゃいますから。イリスさんにわかってもらえたら、きっと閣下にも伝わったと認識して問題ないでしょう?」
「そうかな? 恋愛に関する知識はあの子とあたしとで同じくらいだとは思うけどさ。真実の愛がー、って。興味がわいてきたってことじゃない?」
「でしたら、閣下はとうに書籍を読破されていらっしゃいます。時間が無いのは事実だとは思いますけれど、無理を押し通すのは生来の気質ですから容易に改善できるものでもありませんわ」
ヴァシレイアは両手を堅く握りしめて続ける。
「私にできるのは、可能なかぎり御無理を防いで支援すること……オルトさんも、論文の概要を紙によくまとめているでしょう?……それと同じです」
「……。ねえ、気にしなくていいんだよ」
「はい?」
「あの清廉さは苛烈だからねー」
ヴァシレイアはその言葉の意味を取りかねた。すると、イリスは「氷に触ったことある?」と問われて「はい、ありますよ」と、答えた。
「じゃあ、10分間触っていられる?」
「いいえ。1分すら厳しいです」
苦笑しながら「そういうことだよ」仕方なさそうに肩をすくめるイリスに、首を傾げてみせた。
「氷は自力で溶けることはできない。外部から熱を得なければ、その身を凍えさせ続ける。氷柱っていうのは、氷のこと。雪が溶けたあと外の寒さに晒されてもう一度凍りついた、春麗が訪れない限り決して解けることのない固く脆い決意の現れ……あたしじゃ、きっと溶かしきれない」
メロディ・ヒストリアの〝氷柱の白百合〟に関する話はヴァシレイアも風に聞いている。しかし清廉はまだしも、苛烈とは結びついていなかった。
イリスは曖昧に微笑む。
「あたしも、まあ、教養科目で習った程度しか知らないけどさ。〝西方の悲劇〟は講義の中でだけでも辛かったよ。こんなことがあったんだって――奮闘虚しく西方守備隊273名が命を落とした――この1文だけから読み取れることって、そんなに浅くないよ。星になったひとりひとりに大切な人たちがいたことは間違いないんだから。曰く失礼なことかもしれないけどさ、悲しいとか寂しいとか思っちゃうことだって、間違ってなんかいない。……ほら、あの子だって言葉にしてないだけでさ。心の中で何を感じて何を思っているか、わかったもんじゃないよー。見せたくないものは隠し切ろうとするしさー」
「自分では覚えていなくても、ですか?」
いつのまにか足を止めていたヴァシレイアとイリスの間には3メートルほど距離が開いていた。そもそも、この問いはどの言葉に対するものだろう……イリスは何も言わずヴァシレイアの言葉を待った。
「私は、まだ2歳にもなっていなくて……だから、よく遊んでくれていたアレグリット兄様やカノン兄様のことを覚えていません。名付け親になってくださった伯母さまのお顔すら写真や絵を見て、父さまと似ていると感じる程度です」
途端、両目からあふれた涙が顎先に集って、床やワンピースエプロンを濡らしていく。月明りに照らされてよく見えた。
「それでも両親や歳の離れた姉や兄から彼らの話を聞いていると、心が暖かくなります。もう二度と会えないのが悔しくて寂しくて、どうしようもなく悲しいです。なんで、こんな……たくさ、ん優しくして、もらってい……た、のになんで覚えてないんだろ、って……私……どうしてわっ、忘れ、なんで……もう遊、だり話、したり……もう何もできないのにっ」
イリスはゆっくりヴァシレイアに歩みよって、抱きしめた。
「幼児期健忘ってやつでね、小さいころの記憶は思い出せなくなっちゃうんだよ」
「嫌だ、思い出すのっ」
ムリだよ、できない――心の中で応えた。言葉に出さないのは、どうせ聞かないと思ったからだ。あふれる涙を肩口で感じながら代わりに言った。
「それよりもさ、話を何度も聞いてその人たちを忘れずにいるほうが大切だよ。もう会えなくても、生き続けてる。ヴァシレイアの中にも、ちゃんとみんな居るよ」
「っ――私、の……?」
「新緑祭って、そういう機会でしょ? 心配いらないよ、名前を呼んだらきっと迷わず降りて来てくれる。だから、泣かないで」
ヴァシレイアはうなずくと、イリスに縋りつくようにしばらく泣き続けた。
内心、羨ましかった。故人を忍べる事実が。
新緑祭において、歴代爵位継承者やそれに連なる者たちの名は、慇懃な場をもって王城にて諡名を詠みあげられる。メロディはそのために伯爵邸を留守にする。
その間、邸宅に残る者たちはどうするか。領内の広場にて思い思いの故人の名を呼ぶのだ。初めて目にしたときは、不思議だった。死んだ者に声は届かない。当時8歳のイリスにさえわかったのだ、それを知らない大人たちではないはずだ。他方、それを心底大切にするのがダクティーリオスの人間だ。
誰の名を呼べるか――誰もいない?――新緑祭はあまり好きになれなかった。
素直さは武器だと教わったが、心の底までそうあれるほど清廉にはなれない。だからこそ、彼女の清廉は苛烈だ。悲しいほど正しく、苦しいほど間違っている……ゆえに、誰かが泣いていることにさえ気づけない。それがたとえ自分自身であろうと。
それを教えてあげたくても伝わらないもどかしさは、年を重ねていくほど哀歌は深みに沈んでいく。しかしながら、諦めるには思いはあまりにも痛切だった。




