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星と波とエレアの子守唄  作者: 視葭よみ
綻ぶトリレンマ
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王女と弟王子

 窓を飛び越えたエミリオスはまっすぐ彼女のもとへ駆けた。声を掛けようと言葉を探していると、先に声を発したのは彼女――姉王女シプリアナだった。


「貴方はいつも灯りを手にしているけれど、私はいつも持っていないの」


 問いとも独り言とも取れる口調だった。エミリオスは何も言わず、明かりを授けるように隣に佇む。室内着に大判のストールを羽織っているだけで、先ほどのように髪を靡かせるほどの風が吹けば肌寒いだろう。いつからここにいたのか心配に思いながら、指先でそっと白い花弁に触れる彼女が何を思うのか、推し量ろうとした。

 円環を成す白い花弁たちは灯火に照らされて橙に染まっている。ともに照らされる前腕はいくらか血色と混ざって、金の長髪は蜂蜜を含んだようにたっぷりとしている。他方、髪の毛に隠されて、つんとした鼻の先しか見えず表情はうかがえない。せめて視界が何を捉えているのかだけでも気になり、エミリオスは1歩前へ……不意にシプリアナはゆるりとした動作で弟の顔を見上げた……1歩は中途半端な身じろぎになった。


「どうしたの、リオ?」


「こちらの質問ですよ。護衛も侍女もいないじゃあないですか」


「城内よ?」


「ゆえに人の往来が多いのです。それは善人だけとは限りません」


「まあ、性悪説? ずいぶんと悲観的ね」


 シプリアナは眦を下げて苦笑する。目の前の小花に手を伸ばす――ひとつ、細い茎を摘まんで軽く角度を変えると容易に集団から離れた――プリムラ・ダクティーリの特性である。

 一瞬だけ言葉に詰まったが「一般論です」エミリオスは口をとがらせた。「ふふっ、またお兄様にからかわれたの?」そう言いながら立ち上がろうとした姉に手を貸した。


「向こうは面白がっていますけれど、こちらはただ迷惑なだけです」


「私もそう思うわ。でもね、リオ」


 言葉を区切ると、ひとつくしゃみをした。エミリオスは羽織っていたものを姉の肩にかけた。風邪を引いたら大変だと弟を窘めようとするが、むしろ薄着で外にいたことを注意された。

 そのまま背を押されて部屋へ戻るよう促される。


「明日も学園です。体を冷やさないほうがよろしいかと」


「こんな時間に父上へ直談判しようとした貴方に言われてもね」


「……してません」


「あら。あの窓を越えて来たのでしょう?」


 シプリアナの視線の先には、確かにエミリオスが越えてきた窓がある。外側から閉じたので鍵はかかっていないが遠目からわかるものではない。しかし、疑問を呈するような口調で首を傾げて見せるが、すでに答えを知っているのは明白だった。エミリオスの宮からは距離があるため、用もない上にこのような時分に通りかかることはない。遮蔽物によって彼の宮からシプリアナの姿を見つけたというのもありえない。


 実際、国王に直接訴えたいことがあって赴いて、失敗した上でそこの窓から不意に姉の姿を見かけたのだから、言い訳できない。自分の姉は間違いなく兄の妹なのだな、と納得しながらエミリオスは唇を軽く噛んだ。言い負かされたことを認めた弟に得意げな笑みを見せながら「新緑祭が近いもの」皮肉にも聞こえる言いかただった。


 シプリアナが言外に言いたいことはよくわからなかったが……否、つい先ほど両親の個人的な話に聞き耳を立ててしまったばかりだったーー母は。ある先祖の慰霊のために公的な場で〝諡名(おくりな)〟を詠みたい。父はそれを認めないーー両者の真意は掴めないが、何らかの形で兄が関わっていることはわかった。加えて……どうやら、姉も何か知っているらしいと思い至った。


「知らないのは、僕だけですね」


 自嘲の言葉が口をついて出た。「知っているほうが良いとは限らないのよ」シプリアナは、拗ねる弟が珍しいのか、目を丸くした後、微笑んだ。


「知っていてほしいことを相手が覚えてるとも限らないし。ダンスのときに何を話したのか聞いていないけれど、あの子はきっと覚えていないわ」


 続けて、話題と雰囲気を変えたかったのか、意地悪な口調でシプリアナは指摘した。エミリオスは「きっとそうでしょうね」苦笑しながら返す。


「気づいてもらえないのは今更ですよ。悔しさはありますが、彼女らしいと思います」


「いつまでたっても見つめ続けるだけなんだから。誰かに取られても知らないわよ?」


「それはっ、彼女に婚約者がいたからで……」


 緩やかに口を閉ざした弟にシプリアナは曖昧に苦笑をこぼした。

 メロディ・ヒストリア伯爵の8年来の婚約者だったアレクシオスは、1883年の春麗祭を経て、いまやシプリアナの公然の恋人である。正式な婚約締結に向けた調節も進められていると情報を掴んでいる。それは構わないとして、間の悪さを自嘲する。思わず言い訳するような口調になった。


「結局、諦めねばならないのは承知しているのです。彼女の新しい恋人としてはカリス卿があてがわれたし……」


「彼が? 春麗祭かぎり、あの子が冷遇されているよう映さないための演出でしょう」


「ふたつの婚約事案が、5の月の円卓議会で議題に上がりますよ」


 遮るようにして冷静に告げる。シプリアナは困ったように「……そう」とつぶやいた。

 謀略を労してまで要求を押し通すことに向いていないと自覚して、なるべく関わらないよう自ら情報から遠ざかるようになって数年が経過する。しかし、彼女の洞察力や思考力が衰えたわけではない――どのような裏があるのか、およそ見当がついた。知ることで苦しめてしまう可能性があると理解しているため進んで助言するのは避けてきたが、今は私情で口出ししたくない。


「母様も兄様も、あのコンスタンティノス・カリスを動かす程度には本気なのね」


「だからこそ優越感よりも罪悪感のほうが大きいはずです。寝返らせるのは難しくとも、行動を惑わせるくらいは僕にも可能です。それに……その……なんでしょう、こういうところが姉様は気に召さないのでしょうけれど……本棚の6段目から書物を取ろうとした、あのころからこの気持ちは少しも変わりません。彼女が幸せなら、別に、隣でなくても構いません」


「……」


 来期には生徒会長を務めるだろう弟を愚鈍とは思わないが、両親や兄の策謀はたやすくそれを上回る。また、彼らがすべてを逐一教えてくれる保証もない。

 兄にも弟にも幸せになってほしい。そのためならば協力したい。弟の望みは初恋の少女としかるべき関係になることだと認識している。しかし、兄の望みのためにはそれを阻止せねばならないこともわかる。

 そして、兄の望みのために自分が利用されたことにもシプリアナは気がついていた。そのつもりがなくとも、結果的が利益を得られる行動をとってしまった。

 小さな白い花を指先でもてあそびながら隣の弟を見上げ、尋ねる。


「私が憎い?」


「なぜですか?」


「言葉を操る文芸科には好まれるでしょうけれど、言葉を嗜む文学科には悪手ね。問いに疑問を返したら消極的に肯定していると認めるようなものよ?」


「それは主観でしょう。書類には残せません」


「姉弟の会話を文書に?」


「派閥次第ではありえない話と言い切れません」


「文書だとしても物語なら? 登場できるのも素敵でしょう?」


「素晴らしい物語であれば、そうですね」


「我らがセレーネ・カルナの言葉を借りるとね……――人間の一生は、それぞれ1冊の書籍に例えられる。あるいは、ひとりひとりに個人のための物語を綴る権利を有し、これを行うことを人生であると定義する」


 前置きして、シプリアナは挑戦的な笑みとともにかの文豪の言葉を流麗に引用してみせた。


「貴方は貴方のために生きて良いのよ。他の物語の名脇役になるのも悪くないかもしれないけれど、私は貴方が描く物語を読んでみたい」


 エミリオスはそっと視線を落とした。


「それが難しいというのなら、そうね……あの子のための、あの子に贈る言葉でも良いのではなくて?」


「…………姉上まで面白がるのですか……?」


 耳が熱いのを自覚しながらエミリオスが言った。返されたのは「声に出せば、言葉は強い力で導いてくれる。けれど、限界があるわ」冷たい声色だった、ヘクトールの言葉を思い出して背筋に風が吹き抜けた気分になった。


「人間はあっという間に死ぬの。死んだら、声に出した言葉は誰にも届かなくなってしまう。ひとり、たったひとりで……いつか忘れられてしまうためだけに死ぬのよ。言葉が……それが文字なら、未来へ残せる。消えない軌跡は、褪せない地図として誰かを導く」


 いつのまにかシプリアナの宮に到着していた。ふたりは足を止める。


「日記か手記があれば、きっと後世の歴史学者も面白がってくれるわよ?」


 くるりと振り向くと、悪戯が成功したように笑ってみせる。エミリオスが眉根を顰める間もなく、シプリアナは悠々たる王女の笑みを浮かべた。それは、相手の不快や不安の一切を払拭しうる力がある。弟王子に対しても同様の効力を発揮する。


「もう寝るのよ、良いわね?」


「もう幼子ではありませんよ」


 ふたりで笑いあうと、エミリオスは背を向けて自身の宮を目指して歩き出した。

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