やまない憂慮
新緑祭開幕に該当する〝風の供儀〟まで20日を切り、軍務省は多忙だった。
王家主催である4つの祭事においても、新緑祭は異質である。
夏至から9の月下旬までおよそ3か月間にも及ぶ期間の長さも要因のひとつではあるが、殊に〝精霊〟と呼ばれる存在との関係が深く、〝風の供儀〟で迎え入れたかの存在を〝精霊送り〟で元の場所へ送ることで祝辞は完了する。
期間外よりも精霊が身近にいる状況下において何かあることは許されない。見えないもののために気を張らねばならない苦労を抱えると、実際は武装中立という矛盾した国防方針ゆえに1年間を通して忙殺されている軍務省だが、新緑祭期間外の気楽さが恋しくなるものだ。
それは警備を担当する衛生局だけでなく、コンスタンティノス・カリスが所属する国防局参謀本部も例外ではない。
憂慮に職務の疲労が重なったコニーは、帰り支度を進めながら回想に耽っていた。
明らかに激昂して「何を考えているのですか?」殴りかからないまでも表情険しく声を鋭くする弟王子に対してヘクトールは「今日も元気だねぇ」今日も今日とて幼児を愛でるような声色とともに場違いにもほどがある言動を見せた。
コニーは壁の本棚に擬態するように物音ひとつ立てず、身動ぎすら控えてどうにか丸く収まらないかと無理なことを願った。
「なぜここに彼女の名前があるのですかっ?」
「えぇ、遊学草案ー? 誰か変な人でもいたのー?」
「ザハリアスはともかく、ヒストリア伯爵は無関係でしょう?!」
「5の月で聞いておいて、先日の円卓で返事がもらえたから、総務がそちらに反映させたのではないかなぁ」
「明言なさっていないだけで兄上も関わっているでしょう?」
「すごーい! よく気づいたねーぇ!」
エミリオスは拍手する兄王子の目の前に書類を叩きつけると、近くのソファーに腰を沈め、両膝に肘を乗せて深いため息とともに組んだ両手に額を押しつけた。
兄弟の様子から、拍手で気分を害することもあるのかとコニーが見聞を広めていると
「えー、こちらからは提案をしただけだよー?」
「立場があります。彼女なら背後に兄上の影があることくらい気づけます」
「とはいえ、名前は出してないよぉ。あくまでも決めるのはヒストリア伯爵だったのにーぃ」
「彼女は……仕事が好きだと言っていました」
エミリオスは静かに明瞭に告げた。組んだ両手に力が込められている。
少年の様子に呼応するように、つい先日、探りを入れたときのことが思い出された。
「彼女から公子が離れたことも、次の婚約者が其方になることも……幸運だと思ってしまった」
「ははっ、堂々となさいますね。横恋慕宣言でしょう」
「これまでの功績を並べてやろうか?」
デビュタントに該当した今年の春麗祭のファーストダンスにて、婚約者候補である高位貴族の令嬢らではなく黄道に座するヒストリア伯爵の手を取りに来ただけはある。一瞬だけ紫水晶が彷徨った隙を見計らって眼圧を掛けてきたのは――将来彼女が誰かのものになるとして少なくとも私とお前ではない――宣告するためだったのだろう。
「これでも気がつかないようでしたら、彼女の鈍感に危機を抱きます」
「そのようなところさえも彼女らしさだ」
「……年若いとはいえ、黄道の一角ですよ?」
思わずコニーが冷笑とともに告げた。エミリオスは自嘲するように
「私のデビュタントを経た今、次代の王位を巡った思惑はさらに複雑に絡み合っていく。無暗に彼女を放っておかないほうが身のためだろう」
そこまで述べて後ろ歩きしながら正対すると、
「今までの方法では苦労するぞ、色男」
このような表情もするようになったのかと、場違いを自覚しながら感心する。
不意にコニーは歩みを止めて表情を引き締めた。それに気がついたエミリオスも足を止める。
「ひとつ確認させていただけますか?」
「……ああ、構わない」
「殿下は現状でもよろしいのでしょうか?」
「聞かずともわかるだろう」
コニーが諌めようと呼びかける直前、
「無い」
エミリオスは静かに明言する。
「でなければ、とうに公子から奪い取っていた」
あらゆる感情を無表情で覆い隠しているが、少年は両手が白くなるほど強く握りしめてあた。
「……その言葉が聞けましたこと、幸甚に存じます。心より感謝申し上げます」
あのときは随分と殊勝な言動をしてみせたエミリオスだったが、改めて、まだ少年らしい隙があるらしいと安堵した。
とはいえ、
「嫌なら断れたってばーぁ……伯爵が自ら随行を決めたんだよ? せっかく乗り気なのに、君が彼女を国内に閉じ込めるの?」
兄王子の言葉に思うところがあったのか、エミリオスの肩が小さく震えた。彼はまもなく「お時間をとっていただきありがとうございます」平坦に暇を告げた。
やはり心配事や厄介事は解消されず、溜まっていくばかりだ。
先日も、時機良く法務省情報官の補佐官から提案された策略に乗ったコニーは、首尾よく取調室から少女を連れ出した。
「おもしろそうだったから、つい」あまりにも第一王子が悪びれる様子なく宣うものだから不敬を承知の上で「明らかにやりすぎでしょう?」問い詰めたのが、これの数日前。
「怒ることないだろー? ヒストリアとの仲を近づけた功労者なのにぃ」むしろ不満そうにつぶやく。
「性急に過ぎます」
「だって、早くいい感じにならないかなーって。なったほうが楽しいかなって」
「余計すぎる支援なのですが」
「じゃあ、君にはぴったりだねぇ☆」
「何を」
「本腰入れるなら入れたほうがいいよー。今ね、すごいことなってるから」
王子の情報に眉根を顰めたが、どうにかその場では「……そこまで非常識な方だとは思いませんよ」と目を逸らした。
しかし、実情はどうだっただろうか。
「あ、あの……コニー……」
呼びかけに応えて背後へ視線を向けると、カリス卿と呼ばなかった強かさに反するように、紫の双眸は不安そうに揺れていた。
真紅の詰襟制服に身を包んだ華奢な体躯、あどけなさ残る容姿。わずかに傾く濃青のリボンだけが、春麗祭前に抱いた汚したくない潔白だという認識を揺らがせてきたため、再び背を向けて手を引く。
「なかなか興味深い試みをされていらっしゃるようですね」
「……お褒めに預かりまして光栄です」
抵抗せずついてくる少女から困惑の響きを伴う捻りだされた言葉に対してさらに困惑を重ねたコニーは溜息を彷徨わせた。
取調室から十分に離れて人目が消えた廊下の、適当な扉を開けた。書棚や本棚が壁際に並び、床にも書籍や書類が重ねられている。雑多な印象だが十分だと判断すると、コニーはメロディを室内へ誘う。扉を後ろ手に閉めてからようやく掴んでいた手を離した。
掴まれていた手首を庇うように反対の手で触れている様子に罪悪感を抱きつつも、なるべく冷静に尋ねた。
「誤解でしたか?」
これで特定の物事について話し始めたら相応の対応を使用と考えていたが、メロディは「何に対するものでしょうか?」何が悪いのか理解すらしていないらしい無垢な眼差しは、さすがに癪に障った。コニーは陰険を自覚しつつ、扉に背を預けた。
「取引は反故にされたのかと」
それだけ告げると、心外とばかりに瞳は見開かれる。
まあ、思考が鈍いわけではないのか……溜め息を我慢して表情を緩めないよう気をつける。腕を組み、意見を求めるように小さく頭部を傾けた。
「決してそのようなことは……〝真実の愛〟の正体を探るために必要だと信じております」
「どうだろうね」
「〝妖精のイタズラ〟についても同様です。解明を望んでいます」
まっすぐ主張する彼女を見つめ続けていると数拍ほど時間をおいて紫水晶は虚空を彷徨う。居心地を悪くしているのだろうと思い至りながらもコニーが態度を変えずにいると、
「御不快な思いをさせましたか?」
「それ以前に、理解の外かな」
「……いままで、ずっと、教えてくれる方がいました。けれど、今はどなたに教われば良いのか、わかりません」
メロディは再びコニーをまっすぐ見上げる。卑下でも謙遜でもなく、その瞳は平静な中立だった。腕組みしたまま沈黙を貫くコニーを相手にして、真剣に言葉を並べていく。自らを奮い立たせて一生懸命に説明を続けていると、まもなくコニーは片手を口元に寄せて顔を伏せた。肩を振るわせ、抑えるような笑い声が聞こえてくる。
メロディは困惑して、説明を止めた。
「失礼……何でも分かっているように見えても、案外、わかっていらっしゃらないのかと」
「……?」
「野心は大切ですよ。理想を目指すために必要な熱量ですから、ときに失ったものを取り戻すための原動力にもなり得る欲求のひとつです」
「でしたら」
「貴女がわからないからですよ」
コニーは扉から離れて歩み寄ると、壊れものに触れようとするようにメロディの頬に手を伸ばした。
「知りたいのは、結局、貴女のことです」
メロディも同じようにコニーの頬へ手を伸ばす。まっすぐ伸ばせば辛うじて届いた。温かさはよくわからなかったが、実在を再確認できた。
コニーはメロディの行動に苦笑しつつも言葉を続ける。
「今、真実の愛に触れられる場所へ辿り着くための旅路にいるのでしょう。ならば私は、魔女ではない、まして神話の登場人物でもない貴女が為の助言者でありたく思います」
妖精に愛された貴公子殿は、婚約者を真実の愛へとお導きになられる――初めてふたりきりで対話したときメロディが引用した新聞の一節のことを言っているのだろうと容易に理解できた。しかし、
「卿は望まれないのですか?」
「はい?」
「……助言者として隣にいたとしても、あなた自身が獲得できるとは限らないのでしょう?」
あまりもの鈍感に油断していたところ、不意に突きつけられたのは、核心を突くような言葉――表情から察するに、それすら無自覚らしい。まっすぐ見上げてくる少女のいじらしさに笑みがこぼれた。
「人の幸せを願える立場というものは、そう悪くありません」
その場では、そのように答えた。しかし、納得させられたとは思わない。真面目に真実の愛を知りたいと願う少女相手にどこまで誤魔化しが通用するのか、図りかねていた。
「これはこれは貴公子殿。我らが情報官殿をご返却いただきまして深く感謝いたします」
気まぐれが多分に含まれた提案だと承知の上で乗ったコニーだったが、補佐官の様子や状況から察するに、彼も相応に苦労しているのだろうと想像して補佐官の言葉に対して軽く肩をすくめるだけに留めた。
暇を告げて職務室を出ると、不意に
「お疲れさまです、カリス卿」
聞き馴染みのある少女の声に導かれるように視線を下方へ向けた。
真紅の詰襟制服に身を包んだメロディ・ヒストリア伯爵は年相応の愛らしさとともに双眸を細めた。
「驚きましたか?」
「ええ、はい」
気が利いた返答では無いのを自覚しつつ「……なぜこちらに」コニーは疑問を呈した。するとメロディは、
「いつも驚かされてばかりですもの。ですから、今日はわたくしが足を運ぼうと思い立ちました」
コニーの憂いも知らずに無邪気なことを言う。
伯爵の後ろに控える侍女へ視線を投げたが、彼女は何も表情に出さなかった。
いつまでも扉の前を陣取っているわけにもいかず、ふたりは廊下を並んで歩く。
「驚かせるためにいらしたということですが……こちらとしても、ご期待には応えたいものでして」
コニーは鞄から、愛らしい意匠の布に包まれた小箱を取り出した。侍女の手を借りたメロディが小箱から片手に乗る程度の小瓶を取り上げるのを待ちながら
「夏至の日はお忙しいでしょう? まだ正式に婚約が締結されていない段階ですからご一緒することは適いませんが……当日が、少しでも良い日になれば嬉しいです」
小瓶を眺める少女はそっと歩みを止めた。
「琥珀糖を選びましたが……お気に召されませんか?」
「いいえ、そのようなことは……。ありがとうございます」
寂しそうな笑顔を浮かべる少女に気遣うように尋ねると、明らかに誤魔化されてしまった。
「素敵な贈りものですね。そうだわ、わたくしも何かお渡ししたいです。コニーは甘いものはお好きですか? それとも――」
夏至は1年間において最も日が長く、当然、夜が最も短い1日である。
6の月になり夏至が近づくと、日頃の感謝をこめて夜空に輝く星にまつわるお菓子や料理を楽しんだり星座を象った装飾品を身に着ける慣習は貴賤問わない。
メロディが甘味を好むのは周囲からの伝聞と伯爵邸に招待されたときの経験から確実視したうえで友人の言葉を参考に、警戒させないものを選んだ結果、コニーはメロディに琥珀糖を贈ることにした。
幼い子どものように無邪気に跳んで喜ぶとまでは楽観していなかったが、少なくとも表情を暗くさせる心算は一切なかったし想像すらしていなかった。
コニーは憂慮が増えた原因を考えつつ、少女と自然に話しながら廊下を進んだ。




