名前が気に食わぬ 上
こんにちは諸君。吾輩は木霊。先日付けられた名前が気に食わぬ。
が、あの娘に甘すぎる男は「えっ、鍋!?本当に鍋!?」と騒ぎ、やんわりと変更するように言うも、結局「こ、個性的な名前…だよな…」と頷いてしまった。なんたる役立たずか。
吾輩は当然拒絶の意思を示そうと噛み付こうとしたが、目があった娘の威圧感に負け……いや、い、いたいけな娘が一生懸命考えたものなのだからと、心の広い吾輩は受け入れてやった。
「……ぅー……」
ちなみに、雨は時折止んでいる。
たまには外に出ようかと思ったが、日々身奇麗にされているせいか泥濘る地面に飛び込む気持ちが出てこない。食料を探しに行く必要がない、というのも大きいだろう。
なので糸車をいじってみたり家の中を歩き回ってみたりしていたのだが、家主である男は吾輩のことなど気にせず娘の膝枕を借りて甘えている。
さっきまでいじっていた娘の髪に触れたまま、どうやら眠ってしまっているようだった。
「…ふふ……」
娘は微かな寝息を立てる男を心底愛おしそうに見つめ、頬を撫でたり髪を梳いたりしている。
時折男が「……は、うえ……」と寝言を言うと、一瞬悲しげな顔をするが―――それでも、夢の中の男に肯定するように、優しい手つきで幸せな夢を続かせようとする姿は、見ていて切ないものがあった。
「ははうえぇ……」
ぎゅう、と娘の着物の袖を握る男は、嬉しそうだ。
対して、娘はやっぱり嬉しそうではない―――ので、吾輩は男の横腹に登ってみた。
娘は驚いた様子だったが、退かそうとしない。という、男が袖を引いているので手が上手く動かせないのである。
男はまさか握るその手の中のものを放せば救われるとは知らず、しばらく魘されてからやっと目を覚ました。少しだけ顔色が悪い。
「なんか…おも……おまえか!!」
返事の代わりに、その場で飛び跳ねる。「ぐえっ」と苦しむ男は、ついに娘の膝からずり落ちて頭を強かに打った。うむ、これで良し。
「いだぁ…ぁぁ…っ―――な、何をするんだよ鍋……って、おれの膝枕!」
「交代のお時間ですかねえ」
男の頭の代わりに吾輩が娘の膝の上に乗ると、娘はニコニコしながら我輩を撫でる。
慣れたように耳元を掻かれると、流石の我輩も気持ちよくて眠くなる……この小娘、なかなか侮れぬ。
「交代なんて必要ないっ」
―――と、せっかく気分が良くなってきたところを、男の手が邪魔をする。
乱暴に娘の膝から我輩を抱き上げ、男はポイッと我輩を投げ捨てようとするので、問答無用で噛んでやった。「いだだだだだ!!」と涙目になった男は慌てて我輩を娘の膝の上に下ろし、「おれが悪いのか……」と呟きながら噛まれた箇所を見つめる。しっかりと残っている歯形に溜息を吐くと、「もういい」と諦めて今度は娘を抱き上げて自分の膝の上に乗せた。
「いつものことだが、香春は本当に良い匂いがする」
「あら、本当?」
うん、と頷いて娘を抱きしめた男は、「夢で、母上に香春を紹介しててな、」と穏やかな声で夢の話を始める。
男の腕の中で、娘は本当に幸せそうに笑っていた。
*
晴れた。地面も乾いていて気持ちがいい。
「まあ、美味しそうな雉」
「本当だ―――でも、あそこまで飛んでしまうと狩れないな」
吾輩は、娘の提案で男たちと共に秋の山を楽しむことにした。
久々に走り出すのもいいが、せっかくなので娘に抱えられたまま散策する。普段と違う高さから景色を眺めるのはなかなか愉快だった。
「残念で―――あっ、茸!」
「えっ」
娘が元気に引っこ抜いたのは、毒茸である。
「見てくださいな、食べごたえがありそう!」と笑う姿は可愛らしいと思うが、それは食えぬ。
男もやんわりと「毒茸だ」と捨てさせるが、娘はそれ以降も何度もあらゆる毒茸を見つけては嬉しそうに引っこ抜いて「見てくださいな!」と毒茸を掲げる。これはもう、山で茸狩りをしてはいけない人間だな、と吾輩は遠い目をしてしまった。
「……いや、香春、それは食べれない」
「えっ、そ、…そんなことないですっ。だって美味しそうではありませんか。ねえ、……鍋もそう思うでしょう?食べたいよね?」
流石に十回近く毒茸を引き当ててきたせいか、娘は必死に「食べられる」と主張する。
そして味方が欲しいばかりに吾輩の鼻と口に毒茸を…ふがっ、うわっ、おい!やめろ!やめ、うわわわわわわわわ!!!!
「ほら見てくださいな、鍋ったらとってもはしゃいで、」
「いやいやいや!待て!やめろ!鍋が死ぬ!」
「死にません!美味しいですもの!わたくしが悪霊として祟るとき、やりすぎたかと思ってお詫びにこの茸を食べさせたら笑って喜んでくれた殿方がいらっしゃったんですもの!」
「それは喜んでない!苦しんでいるんだ!だからやめてくださいお願いします!!」
わがはいは、しばらくこころがまっしろになっていた。
くちのなかはにがいし、わがはいにほほえみかけるむすめは、うつくしすぎてこわい。わがはいがついに、ぼうれいなぞに、きょうふをおぼえるひが、くるとは……。
「―――おい、しっかりしろ鍋。……ほら、木の実食うか?山法師だ、美味いぞ」
「………」
「……おまえの分もあるから、じっとしてろ。頼むから動くな」
おとこがさしだすきのみは、とても―――美味である。美味すぎてびっくりした。世界は輝いているように見える。生きているって素晴らしい。
「ん?…ははっ、なんだ、急に甘えてきて。もっと欲しいのか?」
感謝のあまり、畜生どもと同じく男に媚びてしまうと、男は照れくさそうに笑った。
普段ならなんとも思わぬその表情が、とても愛らしく見える―――そなた、今まで吾輩にあんな仕打ちをされてきたというのに……仏のような男よ。
「ちょっと待ってろ、近くにあったから―――」
そう言って腰を浮かした男だが、「あれっ」と周囲を見渡す。
吾輩もつられて辺りを見渡すと、あの娘さんがいなかった。そのことに安堵するはずが、吾輩を何故か薄ら寒いものが体を震わせる……。
「香春!?」
顔を真っ青にして探しに行こうとする男に、我輩も付いて行こうとした―――が、すぐ近くの草薮が揺れて、娘さんがのんびりと姿を現した。
「こ、こは―――…まったく!どこ行っていたんだ!」
「ご、ごめんなさい、千冬どの……向こうで、食べ物があったから……これ、」
「え?………ま、松茸だと……!?」
まさか、今までちゃんとした、食べられる茸など持ってこなかったのに―――と、何やら感動している男に、娘さんは得意げな顔で言った。
「これなら、喜んでくれますか?」
「ああ―――おれも、無駄だと諦めずに教えた甲斐があったよ……!」
「ほんとう?」
―――後に知るが、男の好物は茸料理だった。
それを知っていた娘さんは、わざとではなくただ男を喜ばせたくてずっと茸を探していたのだろう。そう思うと、娘さんが可愛い夫思いの女房に思えて微笑ましくなるが―――吾輩は、さっきの恐怖は忘れぬ。絶対にだ。
「あ、あとですね…」
「ん?」
「さっき、とても活きのいい子を捕まえましたの。ご覧になって」
「え?」
感動のあまり両の手で松茸を見つめていた男に、娘さんはびくんっ、びくんっ…と跳ねるものを差し出した。
浮かべる表情は、幼子のように愛らしい笑顔である。
「大きくて、なかなか美味しそうでしょう?仲直りに後でみんなで食べましょう。これならきっと、風邪にもかかりませんわ」
娘さんの握力(片手)に、絞められている蛇は口をぱくぱくしていた。
男はあまりの衝撃の光景に松茸を落とし両の手で顔を覆った。
吾輩も白目を剥いて呆然としていた。
ああ―――善意がこうも恐ろしいものだとは知らなかった―――…
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