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春夜恋  作者: ものもらい
本編:
20/28

19.




倒れる彼を見下ろしていたのは、陰陽師の男の手伝いをしている子供と同じくらいか、ひとつ上くらいに見える男の子でした。


痩せこけた体にボロボロの薄汚れた着物を着た、とても痛々しい姿をした男の子の手には小刀があって、血がぼとぼとと刃から滴り落ちています。


「……こ、ここ、この……っ…この―――鬼め!」


ガタガタ震えながら叫び、男の子は呻きながらも立ち上がろうとする彼に鞘を投げつけます。

無防備な背中にまともに喰らった彼は大きく咳き込むと、立ち上がれなくなって地面を掻きます。


そこでやっと正気に戻った陰陽師の男は慌てて子供から受け取っていた鏡を見ますと―――さきほどよりも曇った鏡面に唇を噛みました。

男は次に何が来るのか気付くと、すぐに子供を袖の下に隠し、護身の呪文を唱えます。



「お、おおお…おれの…おれのにいちゃんたちを……よくも……よくも…!!」


―――男の子は、彼に刃を突き立てる正当な理由がありました。

けれど、彼は心当たりがありすぎて、男の子の言う「にいちゃんたち」が誰なのか分かりません。

分からないけれど―――どうでもいいことでした。

だって、山賊というのはそういうもの。誰とも知れぬひとを傷つけ、その最後は誰とも知らぬ者に斬り捨てられるものだと、彼の養父は言っていましたから。


(…ああ……でも……香春を…ちゃんと…弔ってやりたかった………)


霞む目で見れば、小柄ななにかが刃を振り上げています。

なにか恨み言を言っているようでしたが、何を言っているのか理解できませんでした。耳が、遠く―――



「……よくも」


―――やっと聞こえた声は、子供のものではありませんでした。

憎悪、殺意が声になったような、低く暗い暗いそれは、今まで事態を飲み込めずに固まっていた娘のものでした―――。



「よくも……よくも…よくも―――我が夫を傷つけたな、小童ッッ!!」



ふらり、ふらりと大きく揺れたかと思えば、娘は俯いていた顔を上げます。

月明かりに照らされたその顔には鬼の面があって、桜の根元から歓喜するように黒いもやが―――手が―――溢れ出して、白くて華奢な手を異形のものに変えていきます。

陰陽師の男の持つ鏡がぱりんと割れるのと同時に男の子に飛びかかった娘は、鋭い爪で引き裂かんと手を振りあげました。


それを塞がんと子兎が男の子の前に立ちましたが、受け止めきれずに吹き飛ばされて木に叩きつけられます。

同じく吹き飛ばされた男の子ですが必死に小刀を握り、歯をガチガチ鳴らしながら―――すぐそばで憎い仇が倒れていることに気付くと、歯が欠けるほど食いしばって小刀を突き立てようとしました。


(こいつを殺さなきゃ、にいちゃんたちのとむらいのためにも―――!)


今まで、二人の兄の背中に守られて、両親はいなかったけれど寂しいだなんて思ったことなくて―――たとえ自分たちの生活が、たくさんの人を殺めて得たものだとしても、奪われることなど許せなくて。

無意識のうちに、自分たちの罪深さを見ないで生きてきた男の子は、初めて―――人を殺めることを、決意して。この復讐が失敗することなど、絶対に出来ないと、ひどい顔で―――瀕死の彼に、刃を、



「……あっ」


突き立てる前に、男の子の柔らかい体は、容赦なく引き裂かれました。

呻くこともできず、か細い息を漏らすことしかできない―――そんな男の子にゆっくりと近寄ると、娘は絞め殺さんと手を伸ばします。


「……こ、は……る……」


―――くい、と裾を引かれて、娘はハッとした様子で彼を見下ろしました。

彼はまだ血を吐きながらも、娘の裾を離さず、残りの力を振り絞って笑みを浮かべます。


「こは…る。……いいんだ。やめろ」

「でも―――」

「おまえが、罪を負うことはない」


天にいけなくなるぞ、と娘の裾に縋る男に、娘は虚ろな声で言いました。


「……もう…無理です。御鏡は割れてしまった。壇は壊されてしまった。なによりわたくしは、怒りのままに彼らを受け入れてしまった……だから、わたくしが天にいくことは叶いません」

「そんな…っ」

「ならば、わたくしは……この子供を贄として、あなたの傷を癒すのみ。

そしたら……あなたが山を下りて遠くまで逃げる時間を作って……消えましょう」


「消えるだなんて」と言おうとして、彼は見てしまいました。

彼の体を支えて楽にさせた娘の影から、子供や細い女の手が娘の着物の裾を掴んでいて、ニタニタと笑う目と口が無数に潜むのを―――。


「ごめんなさい。また約束、破ってしまって……」


カン、と高い音ともに、娘の顔から落ちた面が消え、やっと見ることができたその顔は、涙で濡れて絶望に染まっていました。


「もう、会えることはできないけれど……あなたの幸せを、祈っております」

「まて!」


そっと彼から離れる娘に手を伸ばすも、娘は避けるように足を引きます。

対して、娘の陰に潜む悪霊は喜々として彼の腕に触れようとしたので、娘は無言で悪霊の腕を力強く踏むと、そのまま折ってしまいます。

慌てて彼を捕まえようとしていた腕たちは影の中に逃げ込むも、娘を監視するようにじぃっと見上げていました。


「まて―――香春…っ…やだ……消えるなら―――会えなくなるのなら―――おれも、」


―――連れて行って、とは、言えませんでした。

娘の、震えながらも意思を曲げはしない瞳に気圧されて。彼はもうどうしようもない現実を思い知り、泣きながら、「やだ…いやだ……香春……」と手を伸ばして引きとめようとすることぐらいしかできませんでした。


その近くでは、きゃっきゃとはしゃぐ声が、子供の無邪気な手が、瀕死の男の子を闇に引きずり込んで千々に引き裂いていて―――すすり泣く彼の声、絶叫する男の子、嗤う無数の声が山中に響き渡るように満ちて、まるで地獄のような世界でした。


その中で、天女のように美しい娘は、血を吐きながらも泣いて「いかないで」と縋る彼の痛々しい姿に耐え切れず、これが最後だからと彼を強く抱きしめて彼の名と謝罪の言葉を何度も何度も囁きました。


その悲しい抱擁が少しでも長く続けと、子兎はよたよたと歩きながらも娘を引き剥がそうとする手から守ります。


「……ご、ごめ、ごめん、なさい…ごめんなさい、千冬どの……わたくしは、結局…あなたに悲しい思いばかり……っ」


娘と彼の悲しみを、周囲の悪霊たちは何よりも楽しそうに嗤います。

この世のどんな喜劇よりも面白いと、囃し立てるように。




―――そんな醜い悪霊たちを蹴飛ばしながら、髪を乱し唇の端に血が付いている陰陽師の男が近寄ってきました。


「……ちょいとお待ちなさいよ。そう嘆かなくても、もう一つ良い案がありますよ」

「え―――?」


二人して同時に首を傾げますと、男は「時間はかかるけれども、」と言って咳き込みます。


「……ここにいる全員が協力をすれば、そこの姫君は喰われることはない」

「本当か!?」

「ああ―――姫君がこの鏡と共に悪霊どもを桜に封じ、その魂を癒す。そして木霊とぼくたちが姫君を守るのさ。……まあ、姫君に残された時間も少ないことだし…その詳しい方法は後で説明するとして、」


彼と男を交互に見る娘を不安にさせぬよう、血を吐きそうになるのを堪えながら彼は男を見上げました。

「なんだ」と掠れた声で先を促しますと、男は渋い顔で続けます。


「……この手段をとる場合、きみは生涯を捧げて―――人であることを捨てて、数百年の間、姫君のために孤独を強いられることになるだろう」



―――それでもいいのなら、と彼を見る男に、娘は「そんなもの、いけません!」と声を荒らげます。


「香春…」

「だめ、絶対に駄目です!こんな愚かしい方法など許せません!」

「……でも、これならおまえは救われる。……おれだって」

「千冬どのは、長い時を孤独に過ごすことがどれだけ苦痛なのか知らぬから言えるのです!わたくしは、あなたにそんな―――」

「…大丈夫だ」

「大丈夫なわけが…っ」

「大丈夫だ」


娘の髪を撫で、微笑みを向ける彼の目は優しく―――揺るぎなく。

あまりにも綺麗なその瞳に息を飲んだ娘に、彼はどこまでも穏やかな声で言いました。


「その数百年の後に、希望が待っているのだと知っているから―――だから、大丈夫だ」


最後は安心させるような声で告げるものですから、娘は見ていられなくて俯いて、浅く息をして―――諦めたような顔で、「…分かりました」と囁きます。



「……わたくしは、結局あなたに何も残せなかった……だから、あの月に誓った約束は必ず守りましょう。

わたくしたちの役目が終わった時、必ずお迎えにあがりましょう―――」



約束する、と告げる娘の体の輪郭が、月の光に溶けるように滲んでいきます。


それに合わせて、陰陽師の男が持つ新しい鏡と子兎が光り輝いて、闇の中に潜む悪霊たちを追い払い、桜の根元へと追い立てます。

全てが逃げ込むと、根元に散らばっていた古い鏡が輝く注連縄になって桜の幹を囲みました。


彼は眩い幻想に目が眩みそうになりながらも、一生懸命に目を開けて、娘の姿を目に焼き付けます。

時間切れを悲しみながらも微笑む娘の姿は、端から桜の花弁のように散って舞い上がると桜の木へと吸い込まれていきました。


「……もう、お別れか」

『ええ……』


あっけなく、幸せも愛するひとも消えていくのを見つめながら、彼は血だらけの手を伸ばします。

けれど触れることはできなくて、少しだけ手のひらに温かさを感じるだけでした。


「……さよならは言わない。また……また、会おう。香春」

『ええ。また……笑顔で、再会を喜びましょう』


娘は、透き通る両の手で、彼の汚れた頬を包みました。



『あなたを愛せて、ほんとうに良かった……千冬どの』



彼の妻が全て桜に還ると、注連縄はしっかりと幹に巻きついて、一際眩しく輝くと世界を白く染め上げました―――。






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