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いたちごっこ

「そんなの払えません」

 言ってからしまったと思った。というか何を言っているんだろう、あたしは。

 混乱しているのかしら。

 混乱しているんだろう。

 だっていきなり突然何の前触れもなくそんなこと言われるなんて、思ってもみないじゃない。てっきり請求書を突きつけられるかと思っていた。それにお見合いの席でこの男を池に突き落として、結果的に風邪をひかせたのは事実だし、原因は向こうにあるにしろ、過失はあたしの方にあるんだから。

 それよりも龍之介は今なんて言った。

 ケッコンって言ったよね。

ケッコンってなんだっけ。

 ケッコン、結婚。

「……結婚?」

「そう言いましたけど?」

 あたしのつぶやきに即座に反応する龍之介。街灯を背にしているからシルエットしかよくわからないけど、なんとなく、笑みを浮かべているような気がする。

「冗談、ですよね」

 とりあえず確認してみる。この状況はどう見ても冗談だと思う。というか、そうじゃない可能性なんてありえない。

 だってこうもタイミング良くこんな二人きりとかあり得ないし。もしかしたら、まどかさんや吉井さんもグルでドッキリを仕掛けているんじゃないだろうか。あ、そう思ったら、なんだか急に街灯や電柱の陰が気になってきた。

「どうして冗談だと思うんですか?」

 せわしなく周りを見ていたあたしに向かって龍之介が聞いてくる。

 なんて見え透いた質問をするんだろう。

「だってあり得ないじゃないですか。普通に考えて、結婚なんて」

 恋人でも、知り合いですらないのに。

「あたしをからかっているんでしょう」

 そうとしか考えられない。

「からかって、俺になにか得があるとでも?」

 おおげさにため息を吐いて龍之介が言った。心なしか声のトーンが下がっている気がする。

「そ、れは、知りませんけど」

「じゃあなんでそう思ったんですか」

「たいして知りもしない相手に向かってそんなことを突然言い出すからです」

 何回言えば理解するんだろう、この男は。

「たいして知りもしない、ですか」

 龍之介はわずかに考えるそぶりを見せて、

「本当に?」

 きらり、と瞳が光った。

「昭和五十八年五月六日生まれ。高校は県立浜中南高校。成績は中の上、部活動は――」

「ちょ、ちょっと待って!」

 あわてて龍之介の言葉をさえぎる。いきなり何を言い出すかと思えば。

「なんでそんなこと知ってるんですか」

 プライバシーの侵害だわ。情報漏洩にもほどがあるわ。

 そう思っていると、龍之介はしれっとした様子で、

「釣り書きにありましたから」

 ああなるほど、納得したわ。お見合い写真と一緒に入っているアレの情報ね。

 お見合い写真と言えば、あたしの写真って一体何を使ったんだろう。成人式の写真とかだったら嫌だな。

「それに突然じゃないと思いますが」

「どういう理屈ですか」

「お見合いをするということは、結婚が前提でしょう」

 それはそうだけども、でも。

「お見合いは破談になったって聞いてますけど」

 あれで結婚に転ぶなんてことがあるわけない。龍之介の方の母親はかなり怒っていたらしいし、仲人さんもお手上げだと言っていたらしい。

「釣り書きはかえってきましたか?」

「さあ、聞いていませんけど」

 怖くて聞けてないのが事実だ。はっきりいって、母親にお見合いの「お」の字でも言おうものならものすごい剣幕でお叱りを受けるのがわかっているのでなるべく実家に行かないようにしているし、母親からもとくに何も言ってこないので最近はすっかり忘れていた。

「でも、それを知ったからどうとかっていうわけではないんでしょう」

「そうですね。ところで」

 いったん言葉を切って、龍之介は声のトーンを一音下げた。

「さっきの返事をもらっていませんが」

 今までの会話は一切無視ですか。

 頬とこめかみがひきつるのを感じながら、

「お断りします」

 きっぱりと、これ以上ないくらいにはっきりと言ってやった。

「今日はお疲れ様でした。失礼します」

 龍之介が何か言う前に、あたしはそう言って会釈をするとアパートに走った。


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