【外伝】幸(さち)、舞い来たる 3
緊張の面持ちで二階を訪ねると、意外にも穂高自らがふたりを迎え入れた。
「おはようさん。なんや、十三階段を上り切った死刑囚みたいな顔しとるやん」
恐らく「見たことがあるのか」という突っ込み待ちの恥ずかしく且つ不謹慎なジョークなのであろうが、望に突っ込みを入れるだけの余力はなかった。
「……おはようございます」
妙に空いた寒い間のあと、挨拶の声が偶然芳音と重なった。
ふたりが通されたのは私室ではなく、サロンとして使っている広めの書斎だった。リラクゼーション効果のあるアロマが焚かれており、泰江がレモングラスのハーブティーを淹れてくれた。
「別に、ええんと違うか。籍は入れてあって、子どもに顔向け出来ない事情になるわけでもないし? それが理由でやむなく籍を入れたわけでもあるまいし、後々子どもが知ったところで気に病むこともないやろう」
いちいち尖った物の言い方をするものの、初っ端から殴られる覚悟だった芳音が「すみませんでした」のあと歯を食いしばったにも関わらず、それは空振りに終わった。
「望が翠や克美に倣って極力自分でやっていきたい言うんやし。芳音も自分の食い扶持プラスアルファ程度の見込みがある言うなら、何も問題はなかろうし」
と、ひとつひとつ泰江に伝えた自分たちの意向を復唱するように述べ立てる穂高の声が、次第に淡々と無表情な声になっていく。
「芳音が修行を終えたら渡せばいいと思っていたものを、今渡しておく。自署が必要だから、香港へ帰る前に手続きの段取りをしておけ」
そう言って穂高がテーブルの上へ乱暴に投げて寄越したのは、ふたりが被保険者になっている二通の生命保険証書だった。
「これ……?」
「お前らが生まれたときすぐに契約しておいた。成人してから契約するよりも掛け金が少なくて済む。俺が現金や有価証券で親に遺されて何かとややこしい事態になったから、こういう形にしておいた」
互いに万が一のことがあった場合、少しでも家族に遺せるよう自分たちで継続していくもよし。育児費用として解約するもよし。いずれにしても契約者名と受取人の変更には自筆のサインが必要なので、芳音が滞在している間に書類を書いておけ、とのことだった。
「ありがとう、ございます」
そう言っておずおずと頭を下げる芳音に従った。あまりにもあっさりとしている父親の態度が、望には違和感があり過ぎて、素直に喜べない。ほっとしていいはずなのに、なぜか胸が痛む。まるで突き放されたかのような錯覚に陥った。
「よかったね。はい、これ書き終わったら、私が担当さんに渡しておくから」
泰江がいつもの調子でまあるい笑みを浮かべ、束ねた書類を芳音に向かって差し向けた。芳音が遠慮がちに礼を述べて、恐る恐る書類に手を伸ばしたそのとき。
「……やっぱ、無理」
あまりにも低いその声に、望は思わず声の主に視線をスライドさせた。その一瞬の間に視界をよぎったのは、目を丸くして驚く泰江と芳音の顔。次の瞬間、テーブルのカップが音を立てて床に落ちるガシャンという派手な音。自分の隣に座っていたはずの芳音が腰を浮かせていた。
「パパさん!」
悲鳴に近い声で泰江がとめに入ったが、小さな彼女の非力で穂高をとめられるはずがなかった。
ゴッ、と派手な音がしたかと思うと、芳音が真横に倒れていった。
「芳音っ」
ようやく動いてくれた体が殴り飛ばされた芳音を助け起こす。
「ぃ……って……」
そう零しながら望の手をそっと拒んだ芳音の左頬が真っ赤に腫れ上がった。
「衝動に駆られて下手を打っても赦すのは、今回が最初で最後や。胆に銘じておけ。自分のことで精一杯のガキがガキこしらえてんなや。金の話やない。女独りで、しかも働きながら子どもを育てるのんがどんだけ大変なことか、よく考えろ。子どもにとって一等大事な三年をほったらかす破目になった自分の愚行を反省しろ」
穂高は一気に吐き捨てると、部屋を出て行ってしまった。望はそのうしろ姿と、慌ててそれを追う泰江を呆然と見送ることしか出来なかった。体が震えてとまらない。男の人の怒声が、今になってもまだ“アイツ”を思い出させる。
「……のん、怖がらないで。大丈夫」
疑問形ではない音の高さで穏やかな声が降り、そっと馴染んだ腕に包まれた。殴られたのは芳音の方なのに。自分こそが「大丈夫?」と声を掛けるべきなのに。芳音にこの震えが伝わっているはずなのに、彼は余計なことは何も言わず、なだめるように望の背を撫でながら「大丈夫」を繰り返した。
そのリズムに合わせて、少しずつ浅い息が整って息苦しさが楽になって来た。やがて震えもとまり、代わって押し寄せて来たのは罪悪感。「頑張ろうね」と自分の分身に誓ったばかりなのに、相変わらずの自分勝手が前面に出ている自分を再認識させられた。
「私が殴られて当然なのに……芳音をそそのかしたのは私なのに……」
涙で視界が滲んで来る。ごめんなさい、と言い掛けた口を人差し指でふさがれた。驚いて目を見開いた途端、目尻から余計に芳音を困らせるものが伝ってしまった。
「そういうのんだから、これがきっとのんへの罰。へたれで甘ったれの俺には、これを跳ね返せるくらい、ホタと真っ当に目を合わせられる自分になれ、ってことだと思う。ホタの言ってることは、全部正しいよ」
そう言って皮肉な笑い方をする彼の切れた口の端が、痛々しかった。
「俺、正直言って、あそこまで深く先のこととか、考えてなかった。家族が欲しいってのは本当だけど、ホタに言われて今すげえ情けないっつうか。ペットじゃないんだよな、子どもって」
覚悟が全然足りていなかった、と笑う。口許は笑っているのに、芳音の瞳には悔しげな表情が滲んでいた。
「ちゃんとホタの信用を取り戻せるように、頑張るから。ごめんな」
彼はそう言って、まだ表向きにはさほど変化の見られない望の腹に手を当てた。
ほどなく泰江が救急箱を手にしてサロンに戻って来た。
「芳音くん、ごめんね。大丈夫?」
そう言って救急箱を開ける彼女から、望は目で受け取る意向を伝えて救急箱を手許へ引いた。
「はい。本当に、すみませんでした」
そこで言葉を区切った芳音の口許に出来た切り傷を、そっとガーゼに染ませた消毒薬で拭う。小さな悲鳴に、やはり小さな声で「ごめんなさい」と答え、極力ふたりの会話の邪魔になるのを避けた。
「ううん。あのね、誤解しないであげて欲しいんだけどね。パパさんは、聞いた瞬間は、本当にすごく喜んでいたんだよ。だから私も油断しちゃった」
穂高が泰江からそれを聞いた瞬間、最初に口にしたのは
『うあ……四十路でじいさんか。まだ体力がチビに追いつけるさかいに、いっぱい遊んでやれるな』
という気の早い期待だったらしい。それからいそいそと望のアルバムを引っ張り出して来て、昨夜は遅くまで泰江と望の生い立ちを眺めながら笑って話していたそうだ。
「高校辺りから、のんちゃんの笑っている顔の写真がなくなっていったのね。それを見て、言っていたの。『このころは、もう望が一生俺には笑ってくれないのかと思っていた』って」
再び望が笑えるようにしてくれた芳音に感謝の気持ちがあるのは確かだと言われた。そして、ついさっき穂高を追い掛けて行った泰江に零した彼の言葉が、ふたりにある意味でとどめを刺した。
「パパさん自身がね、“まだあと三年は、娘でいてくれると思ってた”って。のんちゃんの笑っている姿を独り占めする権利が、まだもう少しの間だけ自分にあると思っていた、って。そうじゃあないんだって突きつけられたようで、芳音くんに八つ当たりしてしまった、すまなかった、って」
無意識に嫁がせたことを少しずつ受け容れようと思っていたのかも知れない、と。まずは同じマンションの上下階の区切りから、鍵をすべて渡して別の世帯だと自覚したかっただけかも知れない。いずれは望がそう簡単に会えなくなる信州へ遠のいてしまったとき、仕事が手につかないほど落ち込む自分になるのを恐れていたのかも知れない――。
「パパさんは昔から自分の気持ちに鈍い人だから。芳音くんを殴った瞬間、とても後味が悪かったんですって」
穂高の言ったことは確かに正論で、泰江も内心では承伏しかねる部分だったと告げられた。
「でもね、それなら殴ったあとであんなに落ち込まないのがパパさんなの」
「俺が殴られて当然なのに。そんなに、凹んでるんですか」
そう尋ねた芳音に、泰江は困った笑みを浮かべて頷いた。
「なだめるのに時間が掛かって、ほったらかしにしててごめんね。でも、パパさんの今があるのは、のんちゃんが大きな支えでもあったし、いろんなことすべてのモチベーションでもあったんだよ。本人は子離れ出来ていたつもりなんだけど、やっぱりお父さんの方がこういうときのショックって大きいんだな、って、私も初めて実感してるところなの。赦してあげてくれると嬉しいな」
泰江の言葉を受けたふたりは、示し合わせたわけでもないのに、彼女の“赦し”という言葉を拒むように強く首を横に振った。
望の出勤時間が近づき、やむなくふたりとも泰江のサロンを出ることにした。結局、そのあと穂高が立て篭もった書斎から出て来ることはなかった。
泰江に「あとは任せて」と言われ、一度は玄関まで向かったものの、後ろ髪を引かれる思いで振り返った。そんな望の横を芳音がすり抜けた。
「芳音くん?」
泰江は驚いて振り返ったが、望にはなんとなく芳音の意図が解った気がした。そのまま自分も彼のあとを追ってサロンの扉を通り過ぎる。
「ホタ」
芳音は書斎の扉の前に立ち、そのあとの言葉に迷っているようだった。
「慌しい中で、なし崩しみたいになっちゃったのは、言い訳にならないと思うから。その……事後報告になっちゃう形でごめんなさい、なんだけど、えっと、あの」
しどろもどろと口にする横顔は真剣そのものだ。芳音が自分と同じように、けじめのなかったことを反省し、失った信用を挽回しようという意思を伝える意図は、望の予測どおりだった。彼の言葉を待ってから自分も父にお礼とお詫びを伝えようと、望も彼の隣で神妙な面持ちを保っていた。だが。
「娘さん、いただきました! 汚名挽回するんでこれからもお義父さんには見守っててもらいたいです! これからもご指導お願いします!」
噴いた。かすかではあるが、確かに聞こえた。扉の向こうにいる人が、「ぶッ」と噴き出した声。
(ダメ、私。笑っちゃ……ダ、メ……っ)
そう思って下唇を根こそぎ噛んで必死の思いで堪えているというのに、芳音が容赦なく追い討ちを掛ける。無自覚だから始末が悪い。
「あ、ちがっ、汚名の上塗りしてどうすんだ俺! ちょ、ホタ、今のなし! もっかい言いなお」
「アホかお前はァ!」
安西家の天岩戸と化した書斎の扉が開いたかと思うと、穂高の震えた声が頭上から降って来た。堪え切れずにしゃがみこむ。笑いを押し殺そうともがく望の肩が、意に反して勝手に震えた。
「いただきました、って、お前は怪盗ルパンか望は飯か! “汚名”は“返上”やろうが! 何年つき合うてるんや、いちいちテンパってんなや、ボケっ!」
続く鈍いゴツ、という音のあと、芳音が望とほぼ同じ目線まで下がって来た。
「い……って、だから言い間違えたって言ったのに」
そう零す芳音の顔をそっと覗いてみれば、うっすらと笑みさえ浮かんでいる。
(わざと、だったのね……呆れた)
望も、これまでと変わらないふたりのやり取りが戻ったことで、ようやく緊張が解けていた。
「お前のそういうところが……嫌いやねん」
力なく呟く声に望が父を見上げてみれば、まだ整えていない洗いざらしの長い前髪が俯いた彼の瞳を隠してしまっていて、確信には至らないけれど。
「結局、そういう……」
憎み切れないところが、という呟きは、望にしか聞こえなかったのかも知れない。
(……泣かせちゃった、のかしら……?)
今まで一度も見たことのない父の涙。その理由が理屈を超越した寂しさからで、その裏側にある想いが何かと思い巡らせば、ぐっと胸に詰まる新たな感情が溢れ出す。
(ホント……親ばかなんだから)
望に少しだけ罪悪感の混じった、それでも幸せな微笑が浮かんだ。
「お父さん」
初めて「パパ」ではなく「お父さん」と呼んだ。もう幼子ではないと宣言するようでいて、自身にもそれを諭すように。そして何より、「お父さん」と対を成す「お母さん」のために。
「ずっと芳音を息子のように思って来たって言っていたでしょう? 私が家族から抜けるんじゃなくて、やっとお父さんの念願が叶ったんだ、と思ってくれると嬉しいわ。芳音が帰って来たあとだって、喧嘩したら……しなくても、私が息抜きをしたくなったら、いつでも帰って来ちゃうつもりだし」
ばつが悪そうにへの字に口をゆがめた穂高が、髪を掻きあげる振りで目許を拭った仕草を見逃さなかった。
呆れて笑ってしまえるくらい、不器用な人なのだ、この人は。ほかの誰がわからなくとも、自分が理解出来ないはずがないのに、どうして今まで気づかなかったのだろう。自分の可愛げのなさは、父親譲りのそれだったのだ。
親としてのそれにはまだまだはるかに及ばないものの、大きく高い隔たりの象徴にしか見えなかった父が、初めて生身の人間に見えた。弱さもあれば感情もある、よそと同じ、“普通の父親”なのだ。
「芳音と家族になりたい、ってお願いを聞いてくれてありがとう」
万感の思いで言の葉を紡ぐ。赤裸々なほどの素直な気持ちをそのまま、気負わず気取らず言葉に置き換えた。
「私が望んだ道だから。いきなり心配させちゃったけど、芳音と一緒だから、頑張れるの」
危なっかしいだろうけど、無理をしないと約束するから、どうか見守っていて欲しい。望がそう言い終えると、穂高は俯いて顔を背けたまま、大袈裟なほど大きな溜息をついた。
「因果応報や。お前のやる言うたら利かへんのは諦めてる。もうええから、さっさと行きぃさ。遅刻するで」
穂高は吐き捨てるようにそう言うと、また書斎の向こうへ閉じこもってしまった。でももう心配はなさそうだ。望たちに背を向ける直前、何かを堪えるように強く唇を噛んでいたのが見えたから。
「おっ、あ、ありがとう、お義父さん!」
「お義父さん言うな、今更そんなん気色悪いわ! お前はとっとと香港へ戻れ!」
「ひでえ」
へたり込んだままそうごちる芳音も、安堵の笑みを浮かべている。ちゃんと父の本意が彼にも伝わっているのが解った。
「お母さん、ホントにありがとう」
ふたり一緒に立ち上がり、黙ってことの成り行きを見守ってくれた泰江に改めて礼を述べた。
「ううん。のんちゃんたちが自分たちで考えて行動を起こした結果だもの。私はなんにもしてないよ」
よかったね。おめでとう。その言葉が、何よりも嬉しかった。
二階の部屋を辞して駅へ向かった。芳音は修行先の道を、望は職場への道を行く。
不意に望のスマートホンが着信で震えた。
「ん?」
と隣を見れば、芳音もポケットをまさぐっている。
「ホタからメールだ」
芳音がそう呟いたとき、望も自分のスマートホンへ届いたメールの送信者欄に同じ名を確認した。
――言い忘れた。おめでとうさん。子に親育てをしてもらうつもりで、驕ることなく日々過ごすこと。
「ひと言多いよな。ホタって」
そう零す芳音の語尾が震えていた。
「ありがとう、って意味よ、きっと」
自らの反省も少しだけ混じった、“親子そろって育て合うのが理想の家族”というメッセージ。父は自分たちを介してそれをまっとう出来たと伝えてくれているのだろう。
芳音にそう説明したら、「さすが親子」と苦笑された。素直な言い方が出来ないところが似ているそうだ。
「いいのよ。それでも解ってくれるって人を見つけやすいから、これでいいの」
そんな憎まれ口を叩いたら、子どものころされたように、両の頬をびよんと伸ばされた。
乗換駅でふたりとも電車を降り、名残惜しげに向かい合う。
「生まれる瞬間には間に合わないだろうけど、でも、絶対にそのときは帰るから」
そこは妥協出来ないらしい。ただ、それを昨日のように強く拒む気持ちはなくなっていた。
「そうね。どちらも両立して当たり前だものね。私が連絡出来ない状況のときは、お母さんにお願いしておくわ」
それじゃあ、といつものようにしばしの別れを口にしながら、望は日傘を開いた。芳音は再び乗り継ぎ電車に乗るが、望の職場はここから歩いて五分ほどの場所にあるからだ。見送りはしないと決めたので、ホームまで行くのはやめた。それは芳音がそう言ったからというよりも、自分が泣いてしまいそうな気がしたからだ。これから仕事だと言うのに、メイクが崩れるのはいただけない。
「ムリしない程度に頑張れよ」
「ええ。芳音もね」
と、互いに握手の手を差し伸べる。
「!」
伸ばした腕が強く引かれ、大きな彼に隠れる格好で包まれた。
「――」
耳許に囁かれた言葉が、頬と胸を熱くさせる。同じ言葉を彼の耳に囁けば、彼が望から日傘を取り上げた。
「んじゃ、行って来る」
人目を忍んでの確認のあと、芳音は清々しい満面の笑みを残し、望に日傘を握らせると迷うことなく背を向けた。
「いってらっしゃい」
望はその背中が見えなくなるまで、夫をそっと見送った。




