オーバーフロー 1
中目黒駅までの十分弱。望と並んで無言で歩く。来る時は当たり前のように繋いでいた手が、帰り道では行き場を迷っていた。望は当然のように一人分の乗車券を買って、それをそのまま芳音に手渡した。
「のんの分は?」
「PASMOで代田まで帰れるから」
「あ、そっか。ごめん」
「来る時は芳音が切符を買ってくれたでしょ。これでおあいこ」
「……うん。なんか、ごめん」
「なあに? ごめんばっかり」
「うん……ごめん」
「……」
渋谷までの五分と少し。やっぱり無言のままだった。
芳音は改札を出て渋谷の懐かしい景色が目に入ると、ほっとしたように溜息をついた。渋谷なら小学一年までなら、何度も来たから覚えている。ある程度の地図も頭に入っている。
「芳音が言ってたホテルはあっちだから。本当に独りで行けるの?」
望が東口を指差してそう言った。視線は芳音の方へ上がっては来なかった。
「うん。っていうかさ。あのまま階段を上れば、そのまま井の頭線に行け」
「送らなくていいから。パパになんか、芳音を会わせたくない」
尖った声が突き刺さる。芳音に向けられた敵意ではないのに、望の批難する声が、芳音の食い下がる気力を萎えさせた。
「……まだ、ホタのことを許せないの?」
「まるで自分は許してます、って口振りね」
「そうじゃなくて……のんは俺と違って、一緒に暮らしてるから。そういうのってキツいんじゃないかな、と思って」
「別に。もう慣れたわ。月の半分以上は帰って来ないし。気楽なものよ」
「……そか」
――憎悪というのは自分で意図しさえしなければ、せいぜいもって一ヶ月。
翠の過去を記したディスクの中で、辰巳が彼女に告げていた言葉。自分でもまだ巧く消化出来ていないせいか、それを巧く望に伝えることが出来なかった。
「芳音」
呼び掛けられた声で、ぼやけ始めた焦点が合った。ヒールが路面をカツンと鳴らし、甘い香りがほんの少し遠のいた。
「声を掛けてくれて、ありがとう」
望のきつい気性を思わせる切れ長の目が、優しく緩い弧を描いた。
「綺麗な桜が見たかったの。芳音のお陰で、見ることが出来た」
こちらを向いたまま、一歩ずつ下がっていく。その度にヒールがカツンとゆっくり寂しげな音を奏でた。
「……ん」
声が、かすれる。望が初めて「またね」と言わないまま、芳音に背中を向けた。今言わないと、もうあとがない、という気がした。それはただの勘でしかないけれど。
きっと桜のことなんかじゃない。自分が彼女を掴まえるまでにいた場所は、花見の名所、上野公園だった。望が本当に言いたいことは、きっと言葉の向こうにある。
「のんっ」
駆け出した後ろ姿に向かって声を張り上げた。振り返った彼女が、ひんやりとした春の空気に栗色の髪をなびかせた。
「夏っ! 今度の夏、必ず迎えに来るからっ。別荘の鍵、用意して待ってて!」
走ったわけでもないのに、息が上がる。心臓がいつもの倍以上働いていた。
「もっと綺麗な空気を、吸いに。あの温泉街に、今度の夏は、藪じいのところへ……のん、一緒に、行こう」
今日初めて、懐かしい“天使”の顔を見た。素の表情で“あ”を小さくかたどり、あどけない瞳が食い入るように芳音をまっすぐ見つめ返した。
「……そうね。久しぶりに顔を見たい気もするし」
望は泣きそうな目をしているくせに、そんな減らず口を返して不敵に笑った。そしてまた踵を返し、乗り場へ向かって走り去った。
その後ろ姿を見送っても、さっきまでの大きな不安はかなり和らいでくれていた。
「のんはいつだって、ちゃんと約束を守るから」
敢えて言葉に置き換えることで、自分自身に暗示を掛ける。
「本当は、優しい子だから。藪じいになら、会いに来てくれる。きっと藪じいなら、のんに笑い方を思い出させてくれる」
強張っていた芳音の頬やこめかみから、ほんの少しだけ力が抜けた。
「……俺も……思い出さなくちゃ」
自分がどんな人間だったのか。望が言っていた“芳音は芳音”という言葉の意味を、きちんと理解したいと強く思った。
次の約束。それが芳音に小さくて大きな変化をもたらした。
宿泊予定のホテルのロビーまでは順調に足を運べていたが、そこから部屋までを辿るのに、かなり長い時間が掛かっていた。
今回自分が助っ人を断った理由を圭吾には一切話していない。
『初めてプロの前座で歌えるんだぞっ。少しでも覚えられたいのに、お前のタッパとツラを活かせなくて、どうやって俺らが目立てるんだよっ』
そう怒鳴った圭吾と殴り合いの喧嘩になったのが三ヶ月前。
『それじゃ他人のふんどしで相撲を取りたいって言ってるのと同じでしょ。情けない。なんで自分や私たちを信じられないかな。バカ圭吾』
最年長の綾華がそう言ってとりなしてくれたお陰で和解したのが一週間ほど前。綾華にだけは、北城から自分だけに打診があったことを伝えて相談をした。相談というよりも、どうあのバカスカウターを失脚させてやろうか、と言った類の、愚痴。
『ガキの戯言も大概にしなよ。バックがそれなりの事務所なんだから、足掻いても無駄よ』
そう言われても引き下がれなくて、綾華を含めたメンバー全員に、自分が今回の前座ステージでメンバーから外れることを北城に伝えないよう頼んでいた。もちろん理由は、皆に周知徹底してしまっている“どうにかして幼馴染だった子に会いたいから”ということにしておいた。
――いつの間にかばっくれてるし! あんた今どこにいるのよ。
Aquaのメンバーが、北城のドタキャン理由と、芳音が今回入らなかった事情とかも、全部圭吾たちにゲロっちゃったの。
どうせあんたのことだから、のんちゃんを掴まえられなくて、思い出巡りでもしてるんでしょう。滅多に泊まりなんて出来ないから自由時間が欲しいのは解るけど、出来れば早めに戻って来れない?
とりあえず今どこにいて何時に帰って来れるかだけでも連絡して――。
望と会っていた時に届いた綾華からのメールを読み返す。続いて、辻褄が合うよう自分が取り急ぎ送った返信ももう一度読み返した。
――今、目黒。北城が来なかった理由をAquaのリィさんから聞き出した。そっちも聞いたかも知れないけれど、リィさんが俺の不参加を北城に知らせたみたい。謝ってた。口止めするのを忘れてごめん。女と約束があるって言ってたから、北城がそういう時にいつも使う場所を教えてもらって、その近辺をうろついてあいつを見つけた。けど、一緒にいた女が、のんだったから、ふたりで逃げた。今、のんは俺と一緒。詳細は、あとで。ごめん。ちょっとすぐには帰れないけど許して――。
「圭吾に……なんて言おう……」
頭が回らない。いつまでも望のことが、あれもこれもと気になって考えようとする自分の邪魔をする。
どうしてあんな笑い方をするようになってしまったのか。自分がいつまでもモタモタしていたせいだからではないか。自分の話したことを、本当はどう受け留めて聞いていたんだろう。
「みんなに……なんて言って、謝ろう……」
言い聞かせる言葉と裏腹に、考えが巧くまとまらない。
「ち、くしょ……っ」
思考があちこちへと飛び散り、巧く割り切ることが出来ない。ネガティブな発想ばかりが浮かんでは消え、益々芳音の足取りを重くさせた。
三人部屋を二部屋借りていた。圭吾と、ベースのシン、リクは芳音に替わるもうひとりの助っ人ドラマー。その三人でひと部屋だ。もうひとつ奥の部屋が、綾華と、キーボード担当のリオンと、自分。リオンは綾華と中学から大学の学部までが同じの親友同士だ。リオンはお喋りな綾華から、望に対する芳音の執着を全部聞いているらしい。ふたりから見ると芳音というのは、いわゆる“異性としての対象外”に認定されている。それはそれで少しだけ複雑な心境になるが、今日はそんな括りで根掘り葉掘り聞きたがる女性陣と同室なのは、いつも以上に避けたかった。
「っつっても、男子部屋も、なあ……」
扉の反対に位置する壁にもたれて溜息をつく。天国への扉と地獄への扉が並んで迷っている方がマシだった。
「ど、ち、ら、に、し、よ、う、か、な」
時間稼ぎのように指を指す。最初に指差した方が最後になると解っている癖に、男性部屋から始める逃げ腰な自分。大きな音を立てて突然開いた扉が、芳音にそれを気づかせた。
「うぉりゃぁっ! このクソ芳音ッ、いつまでウジってやがるっ!」
まだメイクもそのまま、髪も赤く染めたままの圭吾が、服装だけ平凡なTシャツとジーンズというアンバランスな恰好で部屋から飛び出して、芳音の時間稼ぎを半ば無理やり止めさせた。
「フロントにコールを頼んでおいて正解だったぜっ。帰って来たのは解ってんだ、このヤロウ!」
眼が半分据わっている。飲んでいるのがひと目で判った。加減を忘れて文字通りイノシシの勢いで飛び掛ってくる圭吾に先手を取られた。
「逃げてんじゃねえ!」
「逃げ……ちが」
言っている傍からラリアートをかまされる。
「ザけんなっ。リーダー差し置いて、何勝手なこと企んでやがったっ。バカにすんじゃねえぞっ」
自分より十センチ以上大きな芳音をものともせずに押し倒す。騒ぎを聞いて、客室の幾つかの扉が開いた。
「ケイゴ、声がでかいって」
馬乗りになっている圭吾の向こうから聞こえたその声は、シン。
「六人まとめて追い出されるぞ」
呆れ混じりで笑ってそう言う野太い声は、あまり面識のないリク。
「あたし、野宿とかやだし」
そう言いながら芳音の傍に近づき、体育座りで覗き込むのは、綾華の親友リオンだった。
「とりあえず、一発殴られておきなよ。そのあと、あっちの部屋へゴー」
彼女が隣の部屋を指差す。その場に綾華がいなかった。にこりと笑う悪戯な瞳は、“ケイゴは大丈夫”と告げていた。彼女が芳音の横から身を退くとほぼ同時に、左頬へ鈍い痛みが走った。
「いっ」
「てめえなんか、もうクビだ、クビっ! 二度とステージなんか踏ませてやんねぇ! NATURE’s UNIONのメンバーでもねえっ。だから明日のホコテンにも来んなっ!」
「圭」
「うっせ。シケたツラでスティック握られても、こっちや客がメーワクだっつってんだ。失せろ」
圭吾は言うだけ言うと、危ない足取りで立ち上がった。途端にふらついた彼の腕を、リクが掴んで自分の首へ回す。ようやく解放された身体を起こすと、リクが口ひげの影から困惑気味な微笑を浮かべた。
「明日のこと以外は、本気にしなくていいよ。俺でも解る。今の芳音くん、目一杯って顔してるよ」
リクの言葉を合図に、一人一人が部屋へ戻っていく。シンが最後に、言った。
「こっちはこっちで朝まで圭吾につき合わされるだろうからさ。そっちはそっちでごゆっくり。アヤカが気が気じゃないって顔して待ってるよ」
具体的なことは解らなくても、メンバーの全員が何かしらを感じて配慮してくれたのだとようやく気づいた。




