全ての人に…… 1
春休み終盤という時期だったので、混雑を予想して前日に松本入りした芳音たちだが、思っていたよりも交通渋滞に悩まされることもなく、夕方には無事松本市内に入ることが出来た。地元の人間しか知らない穴場の駐車場に車を停め、数分ほどの距離を徒歩で向かった――『Canon』へ。
駅前大通を南へ曲がって少し進んだ裏小路にそびえ立つ古びたテナントビルの前で、誰からともなく足をとめた。
「久しぶりやな、この文字」
穂高がフラクトゥーアの白い文字で書かれた店名を見て、懐かしげにその文字を指で辿った。彼が最後にここへ赴いたのは、芳音の小学校の入学式以来だ。
「そうだねえ。十六、七年ぶり、かな。ここだけは変わらないね」
泰江が穂高の呟きに応じ、目を細めて二階の窓をまばゆげに見上げた。西陽に照らされたガラス窓がキラリと光る。
「辰巳と一緒に始めてから丸三十年よ。あの子、本当によくがんばったわ」
窓辺に人影のない『Canon』を見上げ、貴美子が遠い昔を辿るような感慨深げな声で言った。
「先週で店じまいしたんだって?」
GINからのその問いには芳音が答えた。
「うん。明日に備える準備期間が欲しいから、って。でも、常連さんたちが手伝いに来てくれて、俺の手伝いなんか要らないって、電話をガチャ切りされたっす」
この店は、あって当たり前の存在だった。
芳音にとっては、初めての遊び場で、大人たちが遊んでくれる場所。保育園から帰れば必ず誰かが「おかえり」と迎えてくれる場所。居室と店とを隔てる扉の向こうから常に流れるバロック音楽は、優しい子守唄だった。扉を開けるたびにからんとなるドアベルは、克美が接客に忙しくてまともに話せないときでも、代わりに「おかえり」と言ってくれる家族みたいなものだった。
会ったこともない辰巳のことを、たくさん教えてくれる場所だった。コーヒーが思い出させてくれるお客たちの昔話から。懐かしげに語られる“マスター秘伝のレアチーズケーキ”の話から、克美と一緒に試行錯誤しながら味の再現に四苦八苦した日々。結局辰巳の味を引き継ぐことは出来なかったけれど。
「GINさん、店じまいじゃないのよ。ロング・ヴァケーション」
芳音の背中を押すように、励ますように望が訂正をする。
「三年後、遅くても五年後までにはリニューアルオープンさせるんだもの。今度は芳音の作るレストランとして」
少し誇らしげに語る望の得意げな顔がくすぐったい。
「それに、正確には明日がラストオーダーの日だものね」
泰江が補うように明るい声でつけ加えた。
「しかしまあ……明日一日無料で営業とか、どんだけ」
穂高の呆れ声で零されたその言葉に、全員が小さく笑った。
辰巳の遺してくれた結婚資金は、これまで自分を支えてくれたお客のみんなへの恩送りに使いたい。
それが克美流の結婚式。辰巳との思い出ごと受け留めてくれるという北木からの提案だったそうだ。
『今更、披露宴だの式だのって、こっ恥ずかしいだけだしなー』
北木家の体裁を保つために、家族だけの式は二月に済ませた。
「あのふたりらしいプランやな」
それぞれが胸のうちある思いを噛み締めながら窓を見上げていたが、穂高のその言葉をきっかけに、入口の階段へ続く細い通路へと歩を進めた。
からん。いつものようにドアベルが芳音を迎えてくれる。
「あれ?」
克美が店にいないのは納得出来るものの、ドアベルの音は居室の方まで聞こえているはずなのに出て来ない。出掛けているなら鍵を掛けて行くはずなので、パーティ仕様に模様替えされた店内に皆を残し、芳音だけで居室へ様子を窺いに行った。
リビングは煌々と灯りがついたままで、シンクには洗い物が山積みされている。どうやら明日の仕込をしていたようだ。でも冷蔵庫はもういっぱいになっている。食器やゴミ箱に入っているパッケージの量からすると、冷蔵庫にある以上の仕込みの量だ。
バン、と大きな音がして、芳音はびくりと肩を上げた。奥から聞こえたその音の方へと足を踏み入れる。克美の部屋の手前、芳音の部屋から灯りが漏れていた。
「母さん、ただいま。何して……る、ってなんだコレ!」
芳音の勉強机が可哀想なほど隅へ追いやられている。部屋に飾ってあったお気に入りユニットのポスターも見事に剥がされていた。ベッドに至ってはコーヒー関係の備品の山だ。そして部屋の占有面積の七割を占めているのは――業務用冷蔵庫。
「あ、おかえりー。冷蔵庫が全然足りなくってさ、増員しちゃった。部屋、借りてるぞっ」
と、まるで毎日一緒に暮らしている母親が学校から帰った息子を迎えるような声掛けは、感無量だったこちら側の肩透かしを痛感出来るレベルの軽さだ。
「じゃないよ! まさか買ったのかよ!」
「ンなわけないだろ。レンタル。返品のときはマナが立ち会ってくれるから、芳音はなんにも心配しなくていいぞ」
そう言って冷蔵庫の中から出て来た克美を見て、絶句した。
「……どしたの。その頭」
克美の象徴とも言える濡れ羽色の長い黒髪が、肩の上辺りまでの長さに切り落とされていた。
「んー……禊、かな」
長い髪は、女性の象徴。それが、自分の女性性を認められなくて「男だ」と言い張っていたころの克美に辰巳が教え諭して来たことだった。その中に、克美の姉が内包されていることを克美は気づいていた。
「元々手入れとか面倒くさくてさ、切りたいー、ばっか言ってたんだよね。でも、辰巳が泣きそうな顔をするから、結局切れなくて。長い髪って、加乃姉さんの特徴でもあったんだ。ボクね、辰巳が髪を切らせなかったのは、これを通して加乃姉さんの面影を見てるからだと思ってたんだ」
克美自身の髪を愛でてくれていたとは思わなくて。自分の髪を見るたびに、姉への罪悪感を刺激された。
「ボクにとっては、ネガの象徴みたいなものでさ。白無垢も済んだし、もう要らないかな、って」
そして少しだけ照れくさそうに「北木さんもイメチェンしてみれば、って言ってくれたし」とつけ加えた。
「そうなんだ」
「うん。あの人、十四のときからボクを見ててくれてるだろ? 多分、ボクが髪を伸ばすのが嫌いな理由も知っててくれたんだと思う」
「そか。……似合うじゃん」
そう言ってぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜてやると、克美は芳音を見上げ、「へへ、さんきゅー」と、オレンジの弾けるような飛び切りの笑みを返して来た。
穂高たちが顔出しだけでも、と店で待っていることを伝えた。芳音としては、心中穏やかではなかった。克美と穂高が顔を合わせるのは、小学一年の夏のとき以来、十四年ぶりのこととなる。
「うっす。ご無沙汰」
拍子抜けするほどに相変わらずな穂高の態度。
「お前はテレビに映ってたころより随分と老けたな」
コントでもする気か、と突っ込みたくなるような克美のリアクション。
「お前な、久しぶりに会うて、いきなりそれか」
途端、穂高の眉間に深い縦皺が浮かび、右手がゆるりと上がる。穂高は基本的に手を上げるタイプではないが、極真の技で穂高を投げ飛ばしたことのある克美に対してだけは例外だ。もちろん克美がそれを躱わし損ねることはないが、険悪な雰囲気になるのはいただけない。
「ちょ」
芳音だけでなく、望と泰江までが小さな声を上げて、互いの家族をとめようとわずかに身を揺らした。
――ぽん。
という音が聞こえたような気さえした。
「ったく、いつまでも妹分が気を揉ましてたせいで老けたっていう発想はないんかいな」
そう言って克美の頭をくしゃりと撫でる穂高は、目を細めて微笑んでいた。向き合う克美の方も、そんな穂高の所作に驚きもせず、はにかんだ笑みを浮かべて穂高をまっすぐ見上げていた。
「ボクのせいにするなよ、お節介」
それが克美の照れ隠しだというのが、その場にいる全員に伝わった。
「おめでとさん。髪切ったんやな。こっちのほうがお前らしい」
芳音の目には、そう語る穂高が本当に兄貴分のように見えた。例えば赤木が自分を見るような、危なげな自分にはらはらとしながら、少し上から差し伸べたい手をぐっと堪えて見守る瞳。そこにはもう、十七年前に見た“真夏の夜の悪夢”など感じられなかった。
「へへ。ありがと。でも言っとくけど、次のお前の誕生日までは同い年だからな。上目線はヤメロ」
そんなふたりのやり取りを見守る泰江の横顔を盗み見た。彼女は最初から、ふたりの中にある親密の内訳を解っていたから赦せたのだろうか。柔らかな笑みを浮かべてひと息ついた横顔は安堵に満ちていた。
明日はまともに話せないであろうことが明白だったので、GINと克美との間で、簡単ながらも連絡先や芳音の勤める『神童』の概要など、必要事項の説明や情報が交わされた。
「未熟な息子ですけど、よろしくご指導お願いします」
そう言ってGINに深々と頭を下げる克美が、母親らしく見えた。
コーヒーくらい飲んでいけと言われたのを幸いに、芳音は克美だけを居室の方へ促した。芳音が洗い物を片付け、克美がコーヒーを淹れる間に、穂高と泰江の間に感じる不穏な雰囲気の話をした。
「――ってわけで、まだホタと泰江ママには話してないんだけど、別荘で一泊しようと思うんだ。で、俺、GINのヘルプしないといけなくて」
ふたり家族の最後の夜を潰してしまうのは申し訳ないけれど。告げる言葉が次第に弱くなっていった。
「なんだ、そんなこと気にしてたのか」
克美はそう言って、くすりと小さな苦笑いを零した。
「なんかさ、こう、改まったなんかっていうの? そゆことするとさ、逆にもうこれっきりみたいで、イヤじゃん? 北木さんの会計事務所がある市内にマンションを買ったことだし、これからだって今までとおんなじように、いつでも親子の会話は出来るじゃん」
人からは変わっていると言われるけれど、これがうちの家族の形だからそれでいい。昔からよく聴かされていた克美のその口癖を、今日ほどありがたく聞いたことはなかった。
「さんきゅう。ごめんな」
「ううん。こっちこそ、なんにも知らなくてごめんな。泰江とは最初がサイアクだった分、今はかけがえのない友達で諦め切れないしな」
「サイアク?」
「いつまでもガキだったからさ、ボク。ボクが翠と会いたくても会えない間、泰江はずっと翠といられたんだよあ、とか、友人ヅラうざーい、とかね、妬いてキツいことばっか言っちゃってたんだ、最初のうちは」
泰江はそういうのを全部ひっくるめて、相手の全部を受け留めてくれる人だから。
「だから穂高も、当時はすごく色々と悩んだと思う」
克美は遠い目をして、どこか哀れむ色を瞳に浮かべてそう言った。
「あの別荘で過ごした時間の中で、翠が泰江に訴え続けていたことを思い出させてあげて」
と頼まれた。
「うん。GINにそう伝えとく」
「なんか、ヘンな気分だね」
「何が」
「芳音とこういう……対等っていうのかな。そういう話の出来る日が来るなんて、思ってもみなかったな」
「だな。毎日やり過ごすので精一杯だったしなー」
「少しは一人前になったじゃん」
克美のそのひと言が、素直に嬉しかった。同時にふと気づく。その言葉は長い間あんなにも欲しかったものなのに、いつの間にかそのことをすっかり忘れていた。
「んじゃあさ、翠ママが泰江ママに言っていたことって、何。大人のジジョーも聞かせろよ」
「やーだねー。それは女同士の秘密だもんっ」
「なんだそれ」
「いいのっ。泰江にはそう伝えるだけできっと解るから」
克美は終始それではぐらかし、結局最後まで教えてはくれなかった。




